6、オルフェストランスとの語らい
水中から浮き上がるように、千早の意識は浮上する。今回、千早の耳に入る音はない。どこまでも静かな中、ゆっくりとゆっくりと身体と心が繋がっていく。
(…………千早さん。千早さん、起きてください。身体は十分に休めました。もう言葉も通じますよ)
優しくオルフェストランスが千早に語りかける。
「……ぅ…………」
(おはようございます)
「…………ぅございます」
掠れた声で反射的に千早は答えた。そして自分が声を出してしまった事に驚き、真っ青になる。
(大丈夫です! 今の貴女が声を出したからと言って、誰も貴女を殴りません!!
千早さん、本当にごめんなさい。天照殿達からの連絡を受けて、貴女を緊急保護しましたが、まさかあんな酷い目にあっていたなんて思わなかったんです。僕が保護を命じた落ち人にあんなことをするなんて…………)
殺しきれない怒りと後悔を滲ませて、オルフェストランスは話している。千早は前回よりもずっと調子が良いことを実感しつつ、両手の指をゆっくりと動かした。
ずっと動かしていなかったからか、強い違和感と強ばりがある。だが指は千早の意図する通りにゆっくりと動いていた。
「指がある……」
実感を込めて千早は呟く。関節の部分だけ丸く、その他は骨と皮ばかりの指だが、確かに自分の指がそこにはあった。
(前回目覚めた時もありましたよ。長く眠ったから記憶が曖昧になってますか? すでに話しましたが、肉体は全て治癒済みです。貴女が失ったもの全て治したかったけれど、これ以上の変化は貴女の肉体を害する可能性が高く手が出せませんでした。髪も自然に伸びるのを待って貰うしかありません。本当にごめんなさい)
「ここ、何処?」
髪の話をされたせいで、ぼんやりとしたままだったが無意識に髪を触っていた。丸坊主に刈られた髪はようやく少し伸びてきて、感触から刈られた時に何度も傷つけられた頭のひきつれも治ったとように思う。
前回目覚めた時と同じ柔らかい色彩の部屋を見回す。違うところと言えば、テーブルに蓋つきのスープ皿が置かれていることだろう。まだ温かいのか、食欲を刺激される柔らかな薫りが漂ってきていた。
スープ皿を見つめたまま、千早は唾を飲み込む。長くまともな食事などしていない。特に今回目覚めてから、強い飢餓を感じていた。
(千早さん、スープをどうぞ。それは貴女の為に作らせたものです)
オルフェストランスの言葉と共に、浮き上がったスープ皿が千早の目の前で止まった。さあ、どうぞと言わんばかりに目の前で蓋が開き、銀色のスプーンも宙に浮かんでいる。
「…………」
一度スプーンに伸ばしかけた右手を左手で強く握りしめて千早は大きく頭を振る。
(千早さん? これはお嫌いですか? ならすぐに作り直させますよ)
飢えを感じているはずの千早が、何故拒絶するか分からずに、オルフェストランスは味か香りが駄目だったのだろうかと考えた。地球人は味にうるさいと聞く。それでだろうかと頭を悩ませ、最悪はあちらの神に問い合わせを入れるしかないかと考える。いまだに怒り狂うあちらを、下手に刺激したくはないが仕方ない。
「違う……。とっても美味しそう」
(なら食べてください。よく煮込んでありますから、消化にもいいですよ)
「いらない。食べられない。食べる理由がない。これを食べたら、また殴られるかも…………」
以前に飢えに堪えきれず、母屋から捨てられたスープを盗み食いした記憶が千早の脳裏を過る。家畜に与えられたソレを食べていることがバレて、本当に酷い目にあったのだ。
(あいつら、絶対楽には死なさない…………)
千早が思い出しているであろう記憶を予想して、オルフェストランスは低く呟いた。神の力を使い、千早に起きたことは全て把握済みだ。怒りが込められた低い声に怯えて、小さくなった千早に穏やかに話しかける。
(大丈夫です。これを食べたからといって、誰も貴女を害さない。安心して食べながら、貴女が寝ていた間のことを聞いてくれませんか?)
「本当に?」
(ええ、大丈夫です)
「本当の、本当に?」
(はい、本当に大丈夫です)
怯えた千早が納得して、スプーンを持つまでに同じやり取りを十度以上は繰り返す。その間にスープは温くなってしまったが、一口食べた千早はその柔らかさと味にスプーンが止められなくなった。
千早がスープを食べきるまで、オルフェストランスは話しかけずに見守っている。千早は最後の一匙を口に含み、皿を舐めることは許されるのだろうかとこびりついた残りを見つめる。
両親も祖母も行儀に関しては厳しかった。皿を舐めるなど許されることではない。知識としては分かっていても、満たされきれなかった飢えは正常な判断力を奪っていた。
(千早さん、少しお腹が落ち着いた後に、おかわりを準備させますから)
手を伸ばそうか悩む千早に、オルフェストランスが話しかけた。
(美味しかったですか?)
「うん、とっても美味しかったです。御馳走様でした」
(良かったです。
では少しは落ち着いたと思いますから、話を聞いてください)
オルフェストランスの声が改まった事は千早にも分かった。ベッドの上で居住まいを正し、聞く体勢を作る。
(千早さんが保護されて既に一ヵ月が経過しています。その間に、千早さんはこの世界に適応しました。既に千早さんの体を治し、言葉も通じるようにしています。
貴女が目覚めたらすぐにでも謝罪をと、神殿関係者、王家関係者たちが首を長くして待っていますよ)
「1カ月……。そんなに寝てたんだ」
実感が湧かないまま千早は繰り返した。それに肯定する気配を感じつつ、オルフェストランスは続ける。
(身体の代謝を極限まで落として、天照殿たちにも協力を依頼し、身体は治しました。神の間での髪型まで、戻したかったのですが力及ばず申し訳ないです。
落ち人たる貴女を害した者たちは、既に捕らえています。やつらの体には、千早さんを害したレベルによって罪人の紋が刻まれてますから、一目瞭然です。逃げることは出来ません。
ただ国の支配階級の者たちの中には、千早さんが目覚めるまで働かせておいた方が、役に立つと判断した者たちもいます。その者たちについては、捕らわれていた方がマシと思うレベルで酷使していますから安心してくださいね。もちろん、加害者たちは千早さんが殺したいと思えばすぐに始末ます)
代わりが居ない訳じゃありませんし、どうしますか? と続けて問いかけられて、千早は無言のまま首を横に振る。そして神の間とやらにいたときから疑問に思っていた事を問いかけた。
「落ち人ってなんですか?」
(落ち人はこの世界に乞われ、他の世界から招き入れた客人のことです。普通『生き物』が落ちてくることはないのですが、何かの拍子に大きく穴が開いてしまうことがあって、その救済措置として作られたものです)
「そうなんですね。神様、姿を見ることは出来ないんですか?」
長く一人きりで過ごしていた千早は、神の間で他者と関わってから、思い出したように寂しさに襲われていた。神を呼び出すことは気が引けたが、害さない誰かと顔を見て話したいと強く思う。
(…………ごめんなさい。僕がそちらに行くとなるとかなり影響が出てしまうのです。ただでさえ力が足らないのに、これ以上世界に負担はかけられない。
それに今後は千早さんの質問に答えるだけの、自動応答になりますから、僕が出てくることも稀になります)
言い訳を重ねるオルフェストランスに、余程の無理を頼んでしまったのだと千早は後悔した。沈み込んでいく気分のまま、顔を俯かせた千早に慌てた様にオルフェストランスは話しかけた。
(世界が安定したら会いに行きます!
それまで少しだけ時間をください。あと、話し相手に関しては、この世界の誰でも気に入ったものを指定してもらえれば!!
身を守る力もまだ与えられていないので、護衛を準備するつもりです。人の世を生きるための金銭の手配もしています。
だからそんなに塞ぎ込まないでください)
「いいんです。無理しないでください。そのナビゲーションってなんですか?」
(この世界の常識や、助言、後は予言なんかを与える神の声です。千早さんの望む限り常に聞こえるようにするつもりです)
「神の声……」
(うーん、でも僕自身の声じゃないしなぁ)
「なら天の声と呼びます。今後はその天の声に従って、私は生きればいいのですね?」
諦めきった声で確認されてオルフェストランスは、千早が盛大な勘違いをしていることに気がついたら。
(え? いや、助言はしますが何をするのもしないのも、全ては千早さんの自由ですよ。千早さんを従えさせるなんて、そんな恐ろしいこと絶対にしません。天照殿達とのお約束もありますし、何より今は僕自身が千早さんに『歴史上最も幸せになって欲しい』とそう感じています)
「………幸せ? もう十分幸せです」
伏せ目がちに自分の腕を見下ろしつつ千早は答えた。
(まったく幸せそうに見えないです。…………ああ、もう時間切れです。千早さん、この後のことは周囲の人間たちから説明があるはずです。
何を言われても、千早さんのこころのままに生きて大丈夫ですからね)
そう一方的に話すと、神の気配は遠ざかっていった。