5、目覚め
ざわめきに導かれるように、ゆっくりと意識が浮上してくる。しかし最初に感じたざわめきが意味を持つ事はなく、何か意味のつかめない騒音でしかない事に気が付き、千早は戻ってきてしまったのだと理解した。
目を開ければまた「地獄」が待っている。懐かしい顔に会えたのも、死を覚悟をした走馬灯のようなものだ。そう思った千早だったが、手足に違和感を感じて恐る恐る力を入れた。
気を失う前の突き刺すような痛みはない。それどころか、微妙に動いた手足には清潔で乾燥した布地の感触がある。
「え……」
微かに漏れた声に反応して、騒音は大きくなる。触られることはなかったが、多くの何かが自分を囲んでいるようだ。
「*******?」
「******」
怯えながら薄く目を開けば、覗き込む複数の顔。驚いて仰け反ろうとしても、頭は床についている。床にしては柔らかい感触でなんとか少し沈み込んだが、それでも逃げられるほどではなかった。
「**********。******」
その中の一人が宥めるような声を出して、腕を伸ばした所で、千早は限界を迎えた。声なき悲鳴を上げてベッドから転がり落ちる。動かす度に強い痛みがある腕と力が入らない足を必死に動かし、人がいない隅へと這う。
(千早さん! ちはやさぁぁん!! 落ち着いて!! お前らどっか行け!! 落ち人様が怯えてるだろ!!)
両手で頭を抱え込み、全身を丸めた千早に声がする。『声』は室内にいた全員に聞こえていたようで、虚空に向かい深々と一礼して室外に去っていった。
人がいなくなり、少しだけ落ち着いた千早は、腕の間から周囲を見回す。
先程まで寝ていた大きなベッドは白いシーツにパッチワークと刺繍を施された上掛け。壁は柔らかな色彩で優しい小花の絵柄が描かれている。家具も角をなくした曲線を多用した美しいものばかりだ。
先程人々は去ったが、誰かがいる様な気がする。
「だれ?」
小さな声で千早は尋ねた。その質問を待ちかねていたように、『声』が答える。
(僕です! オルフェストランスです。
天照殿からも説明があったように、まだ千早さんの言葉を通じさせることが出来ていないので、サポートに来ました!)
「神様……」
(そうです。神様です。
安心してください。千早さんは今、神殿には保護されています。さっきまでいたのが神殿の高位の者たちです)
「こうい……偉い人ってこと?」
(そうです!
貴女に害を及ぼした者たちは、神殿と国に囚われました。王家の元凶の一人も貴人用の牢に捕らえています。僕としては一般の牢屋にぶちこんでやりたかったんですけど、さすがに王太子にそれは出来なかったみたいです。
あと、貴女の生命力を盗んでいた加害者たちには、僕の力で紋を刻んだので世界のどこにいても分かります!
コイツら、千早さんの好きにざまぁしていいですから、やりたいことがあったら教えてください。何でも協力しますよ!!)
早口のままハイテンションで話されて、千早の理解が追い付いていないことに気がついたらオルフェストランスは少しゆっくりと話し出す。
(千早さんの体調が戻るのと比例して、言葉も翻訳されるようになります)
「ひれい……、ほんやく?」
(ああ、そうか。千早さんの知識は四年前で止まってるから、難しい言葉は分からないか……)
「ひどい……。本を読むのは好きだったから、言葉は多く知ってたよ。でも四年も誰とも話さなかったら…………忘れちゃうの」
涙声になった千早の反応にオルフェストランスは慌てる。
四つ年上の兄は、沢山の小説や漫画を買っていた。兄は部活と勉強で忙しく、共に遊べなくなった妹に、汚すなよと言いながら好きに読んでいいと部屋に入れてくれた。高校生が好むような、千早には少し難しい小説であっても仕方ないなと笑って貸してくれた。読めない文字は質問すれば答えてくれた。
図書館にも気になる本は沢山あった。図書館の先生とも仲良くなって、次はこれを読んでみたらと薦められるくらいになった。友達と漫画本の貸し借りもしていた。幼馴染の愛海とは、TVに出てるかっこいい男の子の話で盛り上がった。
近所に住んでるもう一人の皓來とはそんな話は出来なかったけれど、お兄ちゃんの漫画の話を聞きたがった。一度どうしてもと頼まれて、お兄ちゃんの本を貸してあげたら飛び跳ねて喜んでいた。
「中学校の制服、みんな一緒に作ったんだよ。可愛い制服だったから着たかったな……。一緒に自転車で通おうって約束してたあっくんやめぐちゃん、どうなったんだろう。二人で通ったのかなぁ……。約束破ってごめんね……」
両腕に顔を埋めるようにして泣く千早を慰めようと、オルフェストランスが話しかけるが嗚咽が止まることはなかった。
涙も枯れて時々しゃくり上げるだけになった時には、もう高かった日も傾きだしていた。目の痛みを誤魔化すように閉じていると、千早に強い眠気が襲う。
(回復させる為に、今は深く眠ってください。続きは次に目覚めた時にしましょう。僕もそれまでに何が起きていたか調べておきます)
疲労が限界を向かえた千早は床に丸まって眠る。床にも厚手のカーペットが敷き詰められていて、むき出しの地面に直接眠る事になれた千早にとっては天国だった。
雨の日も雪の日も、申し訳程度の囲いの中で眠っていた。風も吹かず、地面から冷気も水も上がってこないこの部屋は千早にとって夢のようなものだ。
何故か感じない空腹もありがたいものだ。この世界に来て四年。時には命の危険さえも感じた飢えは、千早にとって酷く身近なものになってしまっていた。
うつらうつらと浅い眠りに落ちた千早を、気配を殺して近づいた力強い腕が慎重に抱き上げる。体が宙に浮く感覚と腕から伝わる温もりに、千早はこのまま死ねたら幸せなのにと思いながら、深い眠りに落ちていった。