45、おたまじゃくし
吊り橋砦に向かう荷馬車はポクポクと進む。その馭者台から千早は廃棄地をぼんやりと見ていた。
荷台には山積みされた土。千早と狭い馭者台を分けあい、ベヘムが隣に座っている。
騎乗した罪人三名は油断なく前後左右に気を配り、護衛の任務を果たしていた。そのうちの一人、ロズウェルが先導する位置についた。
「今少しで吊り橋砦です。そこから村へと向かうと言うことでよろしいですか?」
「うん。予定通りに。日帰りだから急がないと……」
「大丈夫です。砦で数人合流します。ゴンザレス殿の畑に肥料を降ろすのもすぐに終わります。夕方前には戻れますよ」
千早を安心させるように微笑んだ兵士は、油断なく周囲に目を走らせる。誰も入ってきていないはずの廃棄地とはいえ、絶対はない。なにより最近の砦周辺の状況を聞く限り安心してはいられなかった。
「俺は二日くらい泊まる事になるかもしれない。婆ちゃん次第だけど、男手が必要な事が溜まってたら働かなきゃならないから」
「うん。山羊たちはミュゼさんが引き受けてくれたし、心配しないで。着替えとか冬を越す荷物、忘れないで取ってきてね。多くなるなら迎えにいってもらうから」
「ごめんな、ありがとう。婆ちゃんは畏れ多いと嫌がると思うけど、ティハヤの誘いも聞いてみる」
「うん。いっそベヘムとおばあちゃん、うちの近所に住めば山羊たちの放牧も楽だと思うし、もし誰か入れなきゃいけないなら、知り合いの方がいいし……」
以前訴えられた住民の受け入れを思い出しながら、千早は躊躇いがちに言葉を紡いでいる。痛ましそうにその姿を見ていた兵士は、ご無理はなさらず……と声を掛けるので精一杯だ。
「砦の近くにも人が来てるんでしょ」
「はい。ご報告した通りです。
どうやら王都が滅びる前にこの地への棄民が命じられていたらしく、少しずつですが集まってきております」
「イスファン隊長を通して、各地に停止を申し出ておりますが、既に各地で養えきれなくなった民ゆえ止めることも難しいようです」
「霧に阻まれておりますし、兵士たちもおります。現在砦より内部への侵入は許しておりません。
上空からの侵入についてはエリックと私で見回っておりますのでご心配なく」
「ありがとうございます」
馬の頭を返して近づき、報告したロズウェルはまた少し先行する位置に戻る。緊張も露に手綱を握る千早を痛ましそうに見ていた。
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砦の中庭で護衛の兵士たちが合流し吊り橋を渡る。霧を抜け森に出た所で、道の両脇に無言で人々が立っていた。
何を言うわけでも求める訳でもなく、ただ沈黙のまま千早たちを見つめる。
吊り橋前の森は切り開かれ所々で煮炊きする煙が上がり、今にも倒れそうなテントが此処彼処に建てられている。
「………………」
薄汚れた男が体に沿わせ下ろした手を強く握りしめている。破れたシャツを着た裸足の少年は、枝を咥えて意味もなく噛んでいた。
娘の肩に後ろから手を置いた母親らしき女は、乱れた髪に木の葉をつけたまま行列を見る。母親と共に立つ少女は泣きそうな顔のままスカートを握りしめていた。
明らかに生活にすら困窮している住民たちが並んでいる。
だが誰も声を発てない。動きもしない。
圧力すらも感じる視線を千早たちに送ったまま微動だにしない。
馭者台に乗る千早とベヘムは揃いのマントのフードを深く被る。視線を合わせないように馬の背を見つめたまま道なりに歩かせる。
(大丈夫だ。落ち着け、ティハヤ)
(うん、分かってる)
密着して座っているからこそ伝わる震え。落ち着かせる為に小さく声をかける。
(兵士の人たちも言ってたろ。俺たちに直接声を掛けたら、それだけで罪に問うって周知したって。だから大丈夫だ、誰も何もしない)
(うん。分かってる。でもこんなに来てるなんて……)
(ああ、俺も驚いた。百人くらいいるよな。まだ続々と送られてきてるっていうし……)
こそこそと話している間に棄民たちの人垣を越えた。十分に離れた所で千早は大きく息を吐く。
「申し訳ございません。やはり散らすべきでした」
代表としてついてきたナシゴレンが千早に向かって頭を下げる。
「いえ、それだと今回外に出るのが落ち人だってバレちゃうから兵士の人たちのマントで誤魔化したのでしょう?」
「ええ、そうです。落ち人様からの物資を運ぶゆえ無礼があってはいけないと周知いたしましたが、逆に興味を引いてしまったようです。
申し訳ございません」
「いいの。人が沢山いるから、兵士の人たちが届けてくれるって言ったのに、村まで行くって言ったのは私だもん」
「帰りは私の馬で。空を飛べば彼らの中を通らなくても戻れます」
緊張で青ざめたままの千早に、ロズウェルが提案する。ベヘムも同行しないなら、わざわざ千早を危険に晒すことはないと判断した。
「うん……それがいいかも。
ねえ、ナシゴレンさん」
「何でございますか?」
「あの人たち、冬を越せるの?」
千早の問いかけて空気が凍った。その空気を敏感に感じ取った千早が瞳を曇らせる。
「私が働いていた所でも、冬を越せない人たちはいっぱいいた。春になるとまた補充されるから誰も気にしていなかったけど、いい人もいたんだ」
千早はベヘムの温かさを感じた日から、少しずつだが救出されるまでの話をし始めていた。いつも悲しそうな顔をしたまま苦し気に話していたが、今回は少しだけ柔らかな声音だ。
「私にも優しくしてくれたコがいたんだよ。
私とおんなじくらいの女の子でね、同じ村から来たのか、数人の子供が助け合って働いてた」
後ろを振り返って煮炊きの煙を見た千早はクスッと笑う。
「ねえ、知ってる? おたまじゃくしって美味しいんだよ」
遠い目をしたまま語る千早は正面に向き直り馬に声をかける。
「おたまじゃくし? カエルじゃないのか?」
「カエルは捕まえられないし、捕まえても大人たちに盗られるから」
肩をすくめて話す千早の瞳は懐かしい思い出を追っている。
「ある日ね、そのコが私に濁ったお湯をくれたの。私の目の前にヒビが入った器を置いて走って逃げてっただけだけと、少し離れた所で飲む仕草をしてくれた。
温かかった。そして美味しかったな……」
「ティハヤ……」
「でもさ、大人にバレてすぐに盗られちゃった。その子たちの分もね。
煮炊きの煙で何かしてるってのはバレちゃうし、弱いものから奪って口に出来るものは何でも食べないと冬を越せないから。
みんな必死だった。でもそんな中でもそのコは私に分けてくれたんだよ」
「よい子だったのですね」
「うん。凄く優しくて働き者だったよ。
それで何が入ってたのか知りたくて、何かお礼がしたくて見てたら、中身、おたまじゃくしだったの。そのあと何度か作って食べてたから、私も作業の合間におたまを捕まえた時には、そのコたちの寝床近くに置いてた。
きっと今なら泥臭くて食べれたもんじゃないんだろうけど、ご馳走だったんだ。私にとっても、あのコたちにとっても」
「さようですか」
先を聞くのが怖いと思いながらナシゴレンは相づちを打つ。罪人たちの一部やベヘムは千早の食生活を初めて耳にし、絶句している。
「今の人たち、あの頃のあのコたちに似てるんだ。
強いものには逆らえず、必死に耐えて生きている。今日を生きたからといって明日良くなる希望なんかないのに、それでも努力を続けている。
自分が無力で状況を変える力がないことなんて百も承知で、それでも誰かの為に足掻くんだ」
「なあ、ティハヤに優しくしたヤツはどうなったんだ? まだ穀倉地帯にいるならヤバいだろ、助けてやらないと」
「そのコたちは一度目の冬を越えられなかった。運が悪いのかあの年は寒くて、地面すら凍った。バタバタ死んだよ。冬は農作業もないからまだ休めるんだけど、その年は埋葬に駆り出されて大変だった」
「そんな……」
「だから、私はまたあの光景を見たくない。冬に人が死んでいくのは嫌だ。凄く……もの凄く嫌だ。
ナシゴレンさん、もしも廃棄地を解放したら彼らは生き残れる?」
問いかけられてナシゴレンは返答に困った。確かに廃棄地を解放すれば生き残る確率は上がる。だがそれは落ち人を危険と喧騒に晒すことになる。
「分かりません。このまま森にいるよりは可能性は上がるでしょう。それは確実です」
「分かりました。後でイスファンさんと話させて下さい」
「ご無理は……」
「無理をしなくちゃいけないときもある」
「ティハヤ、でもお前、顔色悪い」
「分かってる。今でもヒトが怖い。大人は怖い。子供も怖い……。でもいつまでも全部怖がってる訳にはいかないよね。大丈夫、私は大丈夫だから。
手遅れになる前に覚悟を決めないと」
「ティハヤ様……」
「さあ、ゴンザレスさんの所に急ぎましょう。それともしゴンザレスさんももう一度引っ越ししてもらえるなら、廃棄地に誘ってみましょうか。家を建ててからになるから、きっと来春以降だけど」
強引に話を変えて微笑む。千早のいじらしい反応に、兵士たちは何度目かの良心を突き刺される痛みを感じていた。