42、幸せって何だっけ?
必死に言葉を繋ぐベヘムは、声を震わせて続ける。
「落ち人様の力は利用された。落ち人の力を盗んだ魔法使いはバレるのを怖がって、ティハヤを奴隷にした。売られた先で、ティハヤの事を何も知らない農家は、ティハヤをこきつかって……落ち人としての不思議な力を魔法院の実験生物だからと判断して……だから」
「……っ。そこまで」
「うん。頭の中に刻まれた。感情を感じない女の声で語られた。落ち人の顔は見えなかったけど、恐怖と絶望は感じた。オレ、すっげぇ恐かった……」
ブルリと一度身体を震わせると、ベヘムは無言で立ち尽くす兵士達を見る。
「なあ、ティハヤ。もしかしてお前の近くにいる騎士さまたちってもしかして……」
「…………うん、関係者かな」
「あんたらがなんで? 騎士さまたちは砦を守る誠実な騎士だって聞いてたし、村長や長老だって信頼してた!!
なのに、何であの時、ティハヤを助けてくれなかったんだ! 落ち人を虐めていいわけないだろう。そんなの常識じゃないか!!
何で、何で助けてくれなかったんだ!!
そのせいでティハヤは……落ち人様はどれだけ辛い目にあったか。
ごめん、ティハヤ、本当にごめん……」
頭を下げ続けるベヘムにかける言葉もなく、兵士たちは下を向いていた。
当時は落ち人だとは知らなかった。
魔術師エリックからは、事前に力を保存していた魔法生物を利用したとの報告を受けていた。
力を失った魔法生物は長く生きられない。既に消滅したと意識が戻った時には伝えられた。
砦全体の回復については箝口令が敷かれ、王族の命令に従うのは当然だと思っていた。
言い訳は頭の中に幾つも浮かぶ。
だが本当にそうだったのだろうか?
魔法生物だとしても、あれほどの影響を及ぼせるのだろうかと一度も疑問に思わなかったか?
夢現にでも見た人影は、見たことのない姿をしていなかったか。
新たに身に付いた力を喜んでいたが、そう簡単に魔法など身に付くはずもない。本当に疑問に思った夜はなかったか。
あの日、妙に魔法院の者たちが浮き足立ってはいなかったか。
何度も疑問が湧き出てきて、そして理性がそれを否定したのではなかったか。
そう。我々は知らなかった。教えられなかった。命じられた。だから何もしなかった。沈黙した。
「なあ、ティハヤ。いや、チィッハニャ・ササァーキか?
頼むよ、教えてほしい。
どうしたらいい? どうしたら安心して過ごせる? お前は幸せになれる?
俺たちが近くにいたら怖いか? もう信じてなんて貰えないよな。でもだからこそ、教えてほしい。オレは、俺達は何ができる?」
ただ真っ直ぐに落ち人へと話しかけるベヘムの姿は、罪人たちには眩しすぎた。直接の加害者である自分達では、何を聞いても話しても、許されたいが為の贖罪という風に取られるだろう。
確かにどんなに真摯に対応しようとしても、心の何処かに許しを求める甘えが滲む。言い訳がわき上がる。逃げがある。それは否定できない事実で、きっとそれを何処かで感じるからこそ、落ち人であるティハヤはいつも距離を置いているのだろう。
「幸せ……。助けられてからみんなに良く聞かれるんだけどさ、逆に教えてほしい。
ねぇ、幸せって何だっけ?
私はどうなったら幸せなの?
ベヘムにとっては何が幸せ?
殴られなければ?
蹴られなければ?
身体を切り取られなければ?
餓えなければ?
言葉が交わせれば?
意志が通じれば?
壊れ物を扱うように大事にされれば幸せ?
かしずかれれば幸せ?」
焦点の合わない視線をさ迷わせながら、千早は湧き出す疑問を口にする。神々に贈られた家がある。豊かな実りをもたらす畑がある。海は今日も光を反射し穏やかに凪いでいた。
「でも私は、それで幸せを感じる事が出来ないみたい。
今もきっと誰かに比べれば幸せなんだよ。それは分かってる。何でだろうね。
目の前で家族を殺された訳じゃない。
食べ物に困っている訳じゃない。
住む場所だってある。
手伝ってくれる人たちだっている。
贅沢なのかな? 贅沢なんだろうね。きっと与えられ過ぎて分からなくなってるんだと思う。
ねえ、お願い。教えてベヘム。
幸せって何だっけ?」
泣くかと身構えた周囲に反して、千早の声は淡々としていた。そして心底不思議そうな表情のまま答えを待っている。
「何だよ。それ。どんだけだよ。
ティハヤ、なあ、ティハヤ……」
「何でベヘムが泣くの? 気にしなくて良いんだよ。これは私の話だから」
言葉を失い啜り泣くベヘムを困った様に見つめながら千早は笑った。
「ごめん、可笑しな事を話したね。
私の心だもんね。自分の感情は自分が一番知ってなけりゃダメだよね。困らせてごめん。
ほら、山羊たちも犬たちもなにごとだって気にしてる。もうこの話はやめよう。
ベヘムが来るから、リビングにベッド作ってもらったの。今日からそこに泊まってね」
空気を変えるために意識して明るい声が話せば、ようやくすすり泣いていたベヘムが顔を上げた。視線を合わせてニッコリと微笑めば、照れた反応を返される。
「強いよな……ティハヤって」
「そうかな? 強くはないと思うよ。普通くらい? うーん、いや、弱いくらいかなぁ。
本当に強ければ、今頃きっともっと違う生活してたと思うよ?」
犬達を呼んでミュゼに世話を頼むと、千早は空を見上げた。秋晴れの空は何処までも澄んでいて遠い。何故かツンと目に染みた気がした。
「……なあ、俺、まだ何が自分の幸せかなんて分からないけど、分かったら一番に教えるから」
「うん、ありがとう。私も幸せを感じたら教えるね? あ、そうだ。きっとさっき幸せだったんだよ」
「さっき?」
「うん。ベヘムが抱きついてきて、温かかった時。きっと私は幸せだった。
だからあんなこと言っちゃったんだと思う。ホントにごめんね。
さ、これで本当にこの話はおしまい! 今日はベヘムが来るから豪華版でご飯もお願いしてたんだ。楽しみにしててね!」
地面に置いていた自分の荷物を持ち上げると千早は母屋へと向かう。早く来てと笑う千早に少しだけ山羊たちの様子を見てから行くよとベヘムは伝える。
ベヘムは先に準備をすると母屋に入っていった千早を見送り、自分の近くに残ったロズウェルを見上げた。
「ティハヤ様の側を離れていいのか?」
「ここは安全だ。それにわたしが側にいるよりもお心は穏やかだろう」
「なあ、騎士さま……」
「ロズウェルだ」
「英雄ロズウェル。あんたが……」
「今では一介の罪人だ。好きに呼べ」
「ティハヤと長いのか?」
「ん? どう言うことだ?」
「ティハヤと長く一緒にいるのか?」
「ああ、穀倉地帯に御迎えにいったのが私ともう一人だからな。この中では一番長いな」
「なら聞いていいかい?」
「ああ、何をだ? 答えられないこともあるぞ」
視線は山羊達を追いつつ互いに話す。ロズウェルの胸ほどの背丈の少年であり学も身分もないただの農村の貧民に過ぎない。だがほんの一部とはいえ、今まで成し得なかった千早の本音を引き出した少年に対し、ロズウェルは感謝し対等な会話を心がけていた。
「一度だけでもティハヤって泣いたことあるか?」
「ん?」
「さっき、ティハヤが泣くかと思った。でも泣かなかった」
「…………ない……な」
「………………なら一度でも誰かに怒ったことはあるか?」
「それもない……な」
「ならとりあえずケンカが目標かな」
「何を言っている。落ち人たるティハヤ様と争うとは……」
「騎士さまはそれでいいんじゃね? でもオレはティハヤと友達になりたいから。俺の前で泣けなくてもいいけど、せめてケンカくらいは出来るようになりたい!!」
「おい!」
拳を握って宣言するベヘムを慌ててロズウェルが抑える。誤解を生むような事を元気に宣言する少年は、ロズウェルの予想を超えていた。
「けど、俺だけ泣き顔見られてんのも恥ずかしいな!! よし! いつか絶対泣かす!!」
ゴチンっ!!
「テェ……何するんだよ」
「ティハヤ様を泣かすとは何事だ、小僧」
突然拳骨を落とされ踞ったベヘムが振り仰ぐとエプロンをつけた男が恐ろしい顔で見下ろしている。
「ジン殿!」
「ロズウェルか。この小僧がティハヤ様が仰っていた客人か?」
「はい、そうです」
ジロリと睨んだジンを睨み返したベヘムは立ち上がると食って掛かる。
「何すんだよ、いてぇな」
「この地を統べるティハヤ様に失礼な事を言うからだ」
「うっせぇよ。
ティハヤを泣かすことも出来ない、怒らせることも出来ない大人のくせして!!
もういい! 俺がティハヤを絶対泣かせてみせる!!」
膨れっ面のまま母屋へと走っていったベヘムを追おうとジンは足に力を込めた。その前に立ちふさがったロズウェルは手短に今あったやり取りを聞かせる。
「かぁ……そう言うことかよ。
後であの小僧……ベヘムに謝らなきゃならないな」
「ですがあの言い方では誤解をされても仕方ないでしょう」
「まあな。若い連中にも伝えとかなけりゃ、俺以上に気が短いからなぁ」
事情を知れば怒れない。それどころか、こちらが頭を下げて頼まなくてはいけないような覚悟をベヘムは決めていた。
この冬は賑やかになりそうだと思いながら、ジンは今回の詫びに夕飯にデザートでも付けるかと歩き出した。