41、体温
千早達はベヘムに声をかけて、家に戻った。更に土を運搬するために、帰り道は砦の兵士も同行していたせいで、互いに会話はなかった。
ただ時々、物問気な視線を感じる。馭者台から荷台を見つめても、首を振って何でもないと返された。そのまま山羊たちと歩くために荷台を飛び降りたベヘムは、家に着くまで合流しなかった。
「ここが私のお家。ベヘムが初めてのお客様。ようこそ、いらっしゃいました」
「すげ……、初めて見る家だ」
レンガもしくは石造りの家がほとんどのこの世界で木造家屋は珍しい。しかも引戸と高い屋根となれば尚更だ。ベヘムはポカンと口を半開きにして家を見つめていた。
「取り敢えず、山羊たちを牧草地へ。畑を食べられると困るから。移動頼める?」
「あ、ああ。コイツら野菜も好きだから、下手したら食い尽くされる。移動させよう」
ベヘムの周りに行儀良く集まっていた山羊たちを動かすために、犬達のリーダーに指示を出した。
ワン! と一声鳴いて返事をした黒犬は、率先して山羊を追い始める。
「うん。近くに家畜小屋もあるの。私が貰っていい山羊も含めて、夜はそこでいいかな? 兵士さん達の馬もいるけど」
「気にしないと思う。ダメそうなら雨の日以外は外でも問題ない。雨なら流石に大人しくはいるだろうし。
普段は犬たちもいるし、外敵がくればコイツらも騒ぐよ」
一足早くミュゼに連れられて水を飲んでいた子犬達を横目で見ながら、ベヘムもまた山羊を誘導し始めた。
建物の角を曲がり、視界が開けるとそこには予想外に広大な牧草地が広がっていた。
「……おお……スッゲェ」
「これで足りる? 足らなきゃもっと増やすけど」
ベヘムは海岸線近くまで続く青々とした牧草地に驚嘆を隠しきれない。それどころか、目の前に広がる大牧草地に言葉を無くしていた。それを不満の現れかと不安に思った千早は、もっと頑張れば良かったかと後悔しながら問いかける。
子猫達を譲って貰った日から今日まで、時間を見つけては牧草地を広げてきた。畑の作物と比べて手の掛からない牧草の種は、一気に勢力を広げ大地に根付いた。肥料も惜しまずに撒いた事も良かったのだろう。
千早としては十分な広さを確保したつもりだったが足らなかったかと、今日からでもまた土を撒き広げようと決意しかけた。
「スッゲェ! スゲェよ!! ここ、本当に廃棄地か?! なんでこんなに緑がいっぱいあるんだよ!!」
勢い良く振り向いたベヘムは興奮したまま牧草地を指差す。
「これだけあれば、山羊達だって食い尽くせない!! 本当にいいのか?! この冬、ここで越させて貰っても」
一応家の近くに関しては柵を作って、畑に行きにくいようにしてある。その柵から首を伸ばし、モシャモシャと食べ始めた気の早い山羊は、機嫌良く短い尻尾を振っている。
「うん、いいよ。そのつもりだったし。あ、でも冬は牧草枯れないの?」
「ここは海風に守られておりますので、雪はほとんど降りません。牧草が枯れることはないかと思われます。元々マチュロス領は温暖な気候と豊かな海に恵まれた地でしたので」
側に控えていたロズウェルが千早の疑問に答える。ベヘムも問題ないと笑って、千早に抱きついた。
「ありがとう!! 本当にありがとう!!
これでコイツらを肉にしなくてもいい!! 冬を越す為の最低限はバラすけど、それ以外は喰わなくて済む!! 千早に貰った金で村の冬越しの準備は出来る。猫だって犬だって殺さなくて済む。
ありがとう。全部ティハヤのお蔭だ。助かったよ。親父から頼まれたコイツら、全員殺さなくちゃならないかと……。もうダメかと……おれ……おれぇ」
そのまま泣き出したベヘムをどう反応したらいいのか分からない千早は、棒立ちになっていた。しがみついて感謝を口にしつつ涙を流すベヘムに、ゆっくりと腕を伸ばして背中を摩る。
「うん、役にたてて良かったよ」
しばらくして泣き止み、ソッと千早から離れたベヘムは照れくさ気に笑った。
「悪い。……さ、コイツら入れてやらなきゃ。待たせたな」
メェェェェ!!
ブメェェェェ!!
待たせすぎだと鳴く山羊たちを柵の扉を開けて牧草地へと入れたベヘムは、千早を振り返った。
「どうしたんだ?」
背中を撫でていた手を不思議そうに見ていた千早に問い掛ける。
「え……あ、うん。……あの、人って温かいんだな……って」
「はぁ?! 何いってんだよ!! 当たり前だろ!!」
「あ、うん。そうだよね。でもあんまり触られたことも触ったこともなくて。ちょっとビックリしたの」
「ティハヤってどんな生活してたんだよ。触ったことも触られたこともないって。やっぱり高位のお貴族様の姫君かよ」
「違うよ。私はお姫様じゃない。ただこっちに来てから、私に触る人達はみんな、捕まえる為だったり殴る為だったりしてたから、温かいとか柔らかいとか気にする余裕がなかっただけ。それに私に触られるのは嫌だろうし」
そもそもこの世界に来てすぐに奴隷とされた千早は、道具を使って痛め付けられることのほうが圧倒的に多かった。素手や踏みつけられることもあったが、痛みや衝撃を耐えるだけで精一杯で、相手を感じる余裕などなかった。
助けられてからも修道女達は千早を神から命じられた客人として扱い、身体に触れることはおろか、日常会話を交わすことも稀だった。
廃棄地に来てからもそれは同様で、世界の賓客として扱われる千早を、好んで触れようとする人間はいなかった。
何度かロズウェルが抱き止めたが、その時は怪我をした時や千早の動きを拘束したい時だった。最低限とはいえ防具をまとった身体では、熱を感じることなどできない。
そう言えば……という風に不思議がっている千早の後ろでは、そんな当たり前の事すら知る機会がなかった事実を知り、ロズウェルや兵士達が後悔に顔を伏せる。
複雑な表情を浮かべるベヘムに千早が苦笑を向ける。
「そんな訳で、私は貴族のお嬢様じゃないよ」
「……何だよ、それ。おかしいだろ!
何で捕まえられるんだよ! 何でティハヤが殴られるんだよ!! お前、良い奴だよ。なんでこんな良いヤツ、殴るんだよ。捕まえるんだよ。人が温かいことを知らないなんて、どんだけだよ」
「何でだろうね。ホント、何でだったんだろうね。何で私だったんだろう。
あ、でもね、ベヘム。別に私、知らない訳じゃないから。すっかり忘れてたと言うか、この世界の人達もそうだって知らなかっただけと言うか……」
「なあ、教えられないならそれでもいい。でも頼むから教えてくれないか?
ティハヤは一体何者なんだ? 貴族ではない。平民でもありえない。王族の隠し子とかなのか? おかしいよ、お前の周りも……お前自身も。
なあ、頼むよ。
俺はトーパ村のベヘム。父親はムキニ。母親はリリィ。山羊飼いをしていた父親は、俺たち家族を食わせるために働きにいって帰ってこない。兄妹たちもいたけれど、母親と一緒に魔物に喰われて、みんな死んだ。
俺はばあちゃんと二人で父親を待って暮らしている」
突然自己紹介を始めたベヘムは、握手の腕を差し出し、千早の答えを待っている。戸惑う千早を守ろうと、ロズウェルが一歩前に出る。ロズウェルはベヘムに叱責を飛ばそうと口を開く。それと同時に千早が震える声で自己紹介を始めた。
「私はティハヤ。でもこれは本当の名前じゃない。私の名前は、佐々木 千早。この世界流に言うなら、チハヤ・ササキ。
父は漁師。母はパートで働いていた。四つ上の兄がいて、高校生だったよ。
五年くらい前のある日、この世界に喚ばれてきた」
「よばれて……」
怪訝な表情を浮かべるベヘムに嘘じゃないよと続け、千早は目を閉じた。
「ここに来る前は、王都にいた。その前は穀倉地帯。王様からこの廃棄地を与えられて、寿命が尽きるまでここにいる」
辛い記憶を思い出さないように、簡単に自己紹介を終わらせた。ベヘムもまた自分を化け物と呼ぶのではないかと、恐る恐る目を開ける。
そこには真っ青な顔色で滑稽なほど震える手を下げることも出来ずに、ただパクパクと口を動かすベヘムがいた。
「落ち人……さま?」
「うん、みんな私をそう呼ぶよ」
「そんな……ティハヤが……ティハヤ様が落ち人様?」
「そう、実りをもたらせない落ち人。魔物を滅する事が出来ない出来損ないの稀人。
ごめんなさい。私が普通の落ち人だったら、ベヘムの家族もみんな死ななくて済んだのに」
「それは違うっ!!」
「違う!! 落ち人様、ティハヤ様は……ティハヤは悪くない!!」
とっさに否定しようとしたロズウェルに被せて、ベヘムが叫ぶ。落ち人と呼ばれた時に悲しそうな表情を浮かべた千早を見て、名前で呼び直した。
「神託を聞いたんだ。世界中が聞いた。だから心配しなくていい。ティハヤは……今回の落ち人は可哀想な犠牲者だ。悪いのは王だ。だから都は滅んだんだ」