35、蝗帝来襲
―――蝗帝、王都に迫る。
その一報を受け、王は近隣の兵士達を動員し討伐をしようとした。だが、ことごとく返り討ちに会い、兵を失うこととなる。
事情を知る貴族たちは、一人、また一人と持てるだけの物資を抱えて都を離れ、領地へと戻っていった。
その段になってもまだ民への情報統制を続ける王へと、王太女は嘆きつつも怒り狂い、一人でも多くの民を逃がすための行動をとる。
「蝗帝が迫っていることを発表なさい!!」
「しかし殿下、それでは王家の威信に……」
「そなたらは王権の下に生きるものであらず!! 神と共に生きるものでしょう!! 王が道誤った時に、民に付くのはそなたらの役目! 己が職分を果たしなさい!!」
神殿に乗り込んだ王太女は、怯える神官たちに決断を迫る。動揺するだけで動こうとしない神官たちに痺れを切らした王太女は法王は何処かと尋ねた。
「法王様は行幸に……」
「なんですって?! すぐに呼び戻しなさい!! この非常時に何をしているのよ!! 引きずってでも戻しなさい!!」
既に法王を始めとする高位の聖職者たちはどこぞへ逃げ去ったと知らされ、目の前が怒りで赤く染まる。このままでは埒があかないと踵を返す王太女を見送った神官たちは、自分達も逃げなくてはと慌てて準備を進めた。
その日のうちに、王太女に忠誠を誓う数少ない臣下が、王都に噂として蝗帝の来襲を広め始めた。それから数日後、近隣の村から来る商人や農民から聞く不穏な噂、何より騒ぐ神殿に異変を感じた民が家財をまとめて我先にと逃げる中、城壁の先、遠い空に黒い一点の染みが現れた。
「蝗帝だ!!」
「逃げろ!!」
「もう間に合わない!! 地下に逃げろ!! 石造りの家はどこだ?!」
パニックを起こす住民たちは、四方八方に向かい走りだし、弱いもの、遅いものを引き倒し踏みつける。
一瞬にして王都は阿鼻叫喚の地獄絵図となった。
見る間に空一面を覆う黒い雲となった魔物は、何故か城壁から少し離れた所でホバリングをしている。
「何故、蝗帝が止まった?」
職分として武器を手に、せめて抵抗をと覚悟を決めていた兵士が蝗帝と見つめあう。
半円状に広がった蝗帝は何かを待つようにただ王都を見つめていた。
『これは神罰である』
声が王都に響く。弾かれたように上空を見上げる兵士たちに、声は続ける。
『これは神罰である』
『そなたらは神との約定を破った』
『嘘をついた』
『我らの慈悲を踏みにじった』
『界を守る機会を喪った』
神罰を告げる男の声。続く罪状を告げる複数の女の声。その声は確かに超常の力を帯びて降り、これは神の意思だと問答無用に人々に認識させた。
目を凝らせば、蝗帝の背には見たこともない小鬼が乗っている。蝗帝の後ろには神性の強い何かがいた。
「なんで……」
逃げられないと知り怯える民が呟く。
「我々が何をしたと……」
顔色を蒼白に変え、歯を鳴らしつつ問いかける兵士。
『見よ! 聞け! そして理解せよ! 己らの罪を!!』
廃棄地周辺を除く全土に神の意志が降り注ぐ。老若男女を問わず棒立ちとなった全ての者に、神の力は行使されていった。
――……王都が沈黙に包まれる中、影響を受けず動き続ける者達がいた。
「静かだな」
「はい。ここ数日は訪れる者もおりません」
罪人の紋を持つ兵士たちが、与えられた部屋で静かに会話をしている。王への報告後、神殿の地下に閉じ込められていた。ただ、一応懺悔室と名付けられた外から鍵を掛けられたこの部屋は、居心地よく整えられ、自由はないが食事と着替えは与えられていた。
「……軍曹、悲鳴が」
「ああ、聞こえた」
「破りますか?」
地下にすら響いてくる悲鳴だ。何事かあったと判断した部下たちは、座っていた椅子を持ち上げて問いかける。
静かにと身ぶりで示した軍曹は、地上への耳を澄ませた。
大きくなっていく悲鳴の聞きながら、いつ神命と王命に背き外へと出るかと思案する。武器も取り上げられ、長くまともな訓練もしていない。部下たちの練度も落ちている。
つらつらと状況を確認していた軍曹の耳が近づいてくる足跡を拾った。
部下たちに目配せをして配置につく。
慌てたように飛び込んできた人影を拘束しようと数人の兵士が躍りかかる。
「待ってくれ。助けに来た」
首を絞められかけながらも何とか腕一本で防御した男は、軍曹に向けて話す。
「助けにだと?」
「貴方がたはティハヤ様の護衛の方々だろう?」
「ティハヤ様を知っているのか?」
警戒を一段階上げる兵士たちに、拘束されたままの男は頷いた。
「私はゴンザレス。落ち人ティハヤ様が神殿に居られる間、衛士を勤めていた」
「神殿関係者が何故我々を助ける?」
「上層部は既に逃げた。貴方がたのことは修道女長に聞いた。このままでは見捨てられると危惧されていた。俺は不興を買って、中央からは外されたがまだ神殿兵だ。ここの鍵は修道女殿から融通して貰った。
状況は何か知っているか? 時がない。移動しよう」
ポンポンと腕を叩き、放すように伝えながらゴンザレスは、警戒も露に周囲に視線を走らせる。微かに聞こえていた悲鳴は時を追う毎に大きくなっていた。
「何なんだ……これは……」
「何故都に蝗帝が?」
遠い空に蝗帝の影が見える。市街地にも既に降りてきている暴虐帝の恐怖に、人々はパニックを起こしていた。
「こっちだ。急げ」
地上へと上がり、初めて目にした惨劇に、兵士たちは呆然と立ちすくむ。覚悟していたのか知っていたのか、ゴンザレスだけは目の前の景色を受け入れられない兵士たちを急かした。
「…………神託が降りた。
罪人たる我々を罰するため、神罰が下された」
蝗帝に追われながらも命辛々神殿に逃げ込んでくる民を片目に見つつ、ゴンザレスは走る。
「一体何が起きたのだ?」
「王都に迫る蝗帝の脅威を、王も神殿も秘匿した。そして高位の者から静かに逃げ去った」
「な?!」
「そして今日、蝗帝はこの地に着いた。異界の神に率いられてな」
「どういうことだ?!」
「ここだ、着いた。後は修道女様がたに聞いてくれ」
案内された中庭には荷馬車が数台止まっていた。既にその荷台には多くの子供と修道女達が乗っている。
「こちらへ!」
年嵩の女に呼ばれるままに一台の馬車に飛び乗る。
「あなた!」
「パパ!!」
ゴンザレスもまた家族と合流して同じ荷馬車に乗った。
それを待ち構えていた馭者が、中庭の扉を開け放ち、馬に鞭を入れる。一度甲高く鳴いた馬は、迫る魔物の恐怖に狂ったように走り始めた。
「南門を目指せ!!」
「蝗帝の囲みは一番薄い!!」
人を引き殺さんばかりの勢いで走る馬車の上で、子供たちは必死に身を寄せあっている。
「どういうことなのですか?」
大通りに出て更に速度を上げる馬車の上で、軍曹が年嵩の女、落ち着いて見れば修道女長に問いかける。
「恐れていたことが起きてしまいました。ああ、神よ、何故。罰だとおっしゃるならば、何故このような幼子も巻き込むのですか?」
遠くに見える蝗帝から、孤児達を守ろうと腕に力を込めて、修道女長は神へと問いかける。
「だからっ、何が起きたのだ!」
異常事態に我慢しきれなくなった兵士が、修道女長に詰め寄る。
「これは神罰です。私たち神にお仕えするものたちは、甘んじて死ぬべきかも知れません。ですが……この子達だけでも安全な地へ」
ハラハラと涙を流す修道女は、既に自身の世界に旅立っており、回答はなかった。それに歯噛みしながら唸っていた軍曹に、予想外の助けが入る。
「我々の失策です」
そう言いながらそっと手の甲を見せる青年にも、兵士たちと同じ罪人の紋があった。
「貴殿は?」
「グレンヴィル殿下の側近であったものです。神殿所属の救護所にて、奉仕をしておりました」
比較的冷静な青年に状況を確認する。
罪人の紋がある者、そして落ち人ティハヤを知る者たち以外が見た、神の断罪を聞かされた。
「ティハヤ様のお顔は隠されていたらしいが、人々は何故これほど異界の神がお怒りになるのか知りました。覚悟を決める者、抗う者、逃げる者、王に怒りをぶつけつ者、様々な反応を示す民を蝗帝が襲い始めました」
蒼白の顔色に気をとられていたが、見れば服の数ヵ所に血が飛んでいた。
「此度の蝗帝には騎手として鬼が乗っています。あの王は疫神と言っていました」
「王?」
「自らを蝗帝を統べる王、奈落の使者と名乗る、馬のような顔をした虫の尾を持つ神性の主……」
「よく無事で……」
「我々紋を持つ者は既に裁かれた罪人。別の神性に手を出すことは出来ないと忌々しげに言われましたよ」
ギャァァァァァ!!
助けてくれ!!
逃げろ!!
お前たちだけでも!!
お父さん! お母さん!!
風に乗り悲鳴が王都に響く。
「くそっ! 馬車を停めろ!! 助けにっ」
立ち上がった兵士を目掛けて、路地から蝗帝が飛び出してきた。
武器すら持たない空手では、身を守ることも出来ない。だが殴り馬車の子供達を守ることくらいは出来る。
そう覚悟を決めた兵士が蝗帝を睨み付ける。
何故かピタリと眼前で止まった蝗帝と睨みあう。
後を追うように続々と路地から飛び出してきた蝗帝に、とうとう馬の足が止まる。絶望に啜り泣く子供たちとそれを必死に宥める修道女たちが身を寄せあった。
数少ない武器を持つゴンザレスが、他の戦える者たちと共に、蝗帝から人々を守る。
集まった蝗帝で黒く視界が埋め尽くされようとしたとき、上空から一人の女が降りてきた。
『お止め。それは千早ちゃんのよ』
サッと武装を整えた女が手を降るとそれだけで蝗帝たちが散開する。数匹の小鬼が乗った蝗帝だけを従えて、女神は罪人たちを見つめた。
「ひぃ……」
押し殺した悲鳴と嗚咽が満ちる中、冷徹な視線を女神は罪人たちに向ける。荷台の上から視線を返す事を不敬に感じた軍曹は、大地に膝をつき頭を垂れる。その横には先ほどまで話していた青年も跪いていた。
『何の真似だ』
「神罰を止めてくださった感謝を」
『自惚れるな、そなたらの命の使い方は既に定まっている。このような所にいる怠慢を恥じよ』
「我らこれより疾く如く、ティハヤ様の元へと帰る所存」
『ならば去ね』
荷台に戻り、馬を走らせようとする兵士を何故か蝗帝に乗った騎手が威嚇した。
『罪人どもはゆけ。残りは神罰の帳のうちだ』
「お待ち下さい。女神様!!」
『何者か?』
「私はティハヤ様のお世話を言い付かっておりました修道女でございます。落ち人様の惨状を知り、我ら神に仕える者たちは覚悟しておりました。
ですがこの子らは、幼子たちだけでも是非お目こぼしいくださいませ。その分の神罰は私どもが受けますゆえ」
修道女長の言葉を受けて、荷馬車を降りる修道女達が蝗帝の前に並ぶ。武器を向けていたゴンザレスたちも、武器を仕舞い修道女たちに並ぶ。
父を呼ぶ娘に大丈夫だからと微笑んで、妻へと別れの視線を贈る。夫の真意がわかったのであろう妻は静かに娘を胸に押し付け、その耳を塞いだ。
「どうかお目こぼしを」
静かに頭を下げるゴンザレスを見て、女神は何かを思い出すように目を細めた。
『そなた、衛士か』
「はい。ティハヤ様を守りきれなかった愚かな衛士でございます。ご処分は如何様にも」
『よい……そうか、分かった。そなたがおるならば、我らも少し便宜を図ろう。
ならば全員馬車に乗るがよい。そして一つ約せよ』
「何なりと」
『都を出るまで決して後ろを振り返ってはならない。もし一人でも振り返れば、そなたらはまた帳に囚われることとなる』
「畏まりました」
『この約定は我とそなたらの者だ。もしこの場に居らぬ者が一人でも増えれば、この約定は破棄される。赦すのはこの場におるそなたらだけだ』
鋭くそして冷徹に話した女神は、ゴンザレスに視線を合わせ、その表情を一変させた。
『分かったならお行きなさい。
あの時、千早ちゃんのために怒ってくれてありがとう。この王都で貴方だけよ。己の立場を落としてまで、落ち人を救おうとしてくれたのは』
そう言って近づき微笑むと、絶対に振り向かないでと念を押し、周囲の蝗帝たちを連れて城の方角へと飛び去っていく。
「行くぞ」
「ああ、出発だ」
「振り返るなよ。何なら目を閉じ伏せていろ」
女子供にそう指示を出した馭者は、馬に鞭を当てる。ガラガラと車輪の音を発てて走る馬車を見つけ、走りより助けを求める民を見捨てる。
シュウシュウと空気が漏れるような音や、狂った様に笑う男の声、剣を振り下ろす音を耳では拾う。助けを求める声をどれだけ見捨てたであろうか。
互いが互いを押し付けあうようにして、振り向く者を出さずに開け放たれたままの南門を潜り抜けた。
馬車はそのまま勢いを緩ませずに走り続ける。
「助かった……のか?」
「もう大丈夫か?」
王都から離れて、響く悲鳴も小さくなる頃、馬が限界を迎えた。小川で喉を潤し、走ることを拒否した馬たちはまだ青々と繁る草を食んでいる。
「ああ、城壁が……崩れる!」
遠く荷台の上から都の方角を見ていた一人が土煙を上げて崩れ落ちる城壁を指し示す。
ややして絶望に咽び泣く人々に軍曹は声をかけた。
「我々は旧マチュロス領へと向かう。皆はどうする?」
「私たちも廃棄地へと向かいます」
「だが中に入れるとは限らないぞ。近隣の村に保護を求めることは出来るかもしれないが……」
吊り橋砦から奥への侵入は、尊敬する上官によって止められていた。ティハヤ様の心一つであろうが、旧マチュロス領に身を寄せることは難しいだろう。
そう判断した軍曹は難色を示す。
「ではマチュロス近くの街まで……。そこならば神殿もまだ機能しておりましょう」
「ならば途中まで共に」
何の物資も持たない兵士たちだけでは、生きて廃棄地にたどり着くことは出来ない。荷馬車に積まれていた中から短剣やマントを譲ってもらい、代わりに護衛につくこととし、軍曹たちは帰路へと就いた。