29、海辺
秋の種も定植を終え、一段落した頃、イスファンに命じられた探索を終えた兵士達が戻った。チョコンと芽を出した小麦畑を踏まないように気を付けながら、馬を歩かせる兵士たちは一様に驚きを隠しきれないでいる。補給時に噂は聞いていたがここまでとは……、呟きを交わしながらイスファン達の天幕を目指す。
長く伸びる両側の半島を四ヶ月かけて調べ上げた結果、脅威となる魔物はおず、植生もまばらだった。
行きはなかった植物も、帰りにはパラパラと芽を出していたとの報告を受けて、イスファンたちは落ち人の効果を確信する。
鉱山や採石場、露天掘りの採掘場跡地も荒れてはいるが手を加えれば十分に再稼働出来そうだ。街についてはやはり魔物のダメージが大きく、再利用は難しい。
次々ともたらされる報告を書面にまとめてティハヤへと提出することにする。
土地に住む人間が増える予定もなく、また野性動物を放す予定もなかった為、千早から命令がない限り、調査自体を終了する運びとなった。
そんなある日、朝の水やりが終わったティハヤにイスファンが話しかけた。
「ティハヤ様、ようやく畑も落ち着きました。今までは周囲を見て回る余裕もなかったと思いますが、良かったら海にでも行きませんか?
泳ぐには少し季節を過ぎてしまいましたが、それでも楽しいと思いますよ」
働き詰めに働いて文句ひとつ言わないティハヤに、せめて一日でも休息をと思ってイスファンは海を見に行くことを勧めた。
「海?」
「はい、最近は造塩も順調ですし、一夜干しや乾物の製造も始めました。ティハヤ様がお望みの海藻類も塩蔵もしています。
冬になる前に今後の事も相談したいので、一度くらいは海まで足を運んでほしいと、海班の者たちが話しておりました」
海班と呼ばれる漁師と塩作りを主とする五人は、塩と魚を安定的に供給するためにほぼ海岸に住み込んでいた。
イスファンに誘われるまま、今日は海まで足を伸ばすと決めた千早は、昼食を持ちロズウェルの馬に乗せられて海を目指す。
勘の強く、主以外は乗せようとしない青翼馬であったが、何故か千早になつき軽快に空を飛ぶ。
「わあ……」
小柄な千早を両腕でしっかりと挟んだロズウェルは、極力揺らさないよう安全に浜辺へと千早を連れていった。
「いらっしゃいませ」
「ようこそ、ティハヤ様」
こんがりと日に焼けた二人の男が駆け寄ってくる。走りにくいはずの砂浜だが、一向に苦にした様子はない。
「こんにちは」
男物の格好でようやく伸びてきた髪はボサボサ。片目を隠す顔で挨拶する千早に馬の近くでありながらサッと膝をつきかしずく男たちの対比を見る者がいたら違和感が拭いきれなかっただろう。
ロズウェルに支えられて、男たちの一人の手を借りつつ千早は馬から滑り降りた。
「お目にかかれて光栄です。
今、他の者は漁に出ています。あちらの小屋までお進み頂けますか?」
指差されたのは、初日に見た小屋に並んで建てられたビニールハウスのようなものだった。
「こちらは大海月の皮を張り、雨を防いでいます。千早様に献上する塩はこちらで作っています。外で作るとどうしても砂や埃が混ざりますので、そういったものは我々で消費させて頂いております。
あと、そっちの棚は干物を作る棚です。防風林の倒木を使って作りました」
見事な魚の開きがハウスの外に並べられていた。最近海鳥が稀に来て魚を荒らすから、人目が届くところに干し台を動かしたのだと報告しつつ、男は浜辺に並べた椅子を勧める。
「いつも献上している魚はお気に召して頂けておりますか?」
「あ、はい。美味しいです。あの、ありがとうございます」
満面の笑みで問いかける男にお礼を口にすれば、頭を振りつつそんな事は当然だと否定された。
「せっかく来てくだされたのです。少し先の岩場に、冬用に許可頂いた生け簀を作りました。これで海が荒れても安定して魚を献上出来ます。せっかくですからご覧いただけませんか? そして今日は是非、新鮮な魚をお持ちください。
生け簀を作る際に、そもそもあった漁具から網のようなモノをお借りしました。許可を頂きありがとうございます」
千早の家が現れるのと同時に出た漁具置き場。一度開けにきた時の事を思い出しながら、千早は頷いている。
祖父や父の物置小屋よりもよほど立派なものばかりで、自分が使うのにはもったいないと躊躇した。元漁師だという兵士に、使っていいよと許可を出し、千早は畑仕事に邁進していたのだ。
馬に水を与えてから、岩場を歩く。一時期と違いしっかり筋力がつき丸みを帯びてきた身体は危なげなく進んでいった。
「どうぞ、こちらからご覧下さい」
「……凄い」
海面に目を凝らすと、無数の魚影が見えた。どれを取ろうかと網を片手に訊ねる兵士は誇らしげに笑っている。
生け簀の奥に逃げた魚をご希望ならば、小舟で出直しますと笑い、木枠に飛び移った男は特に千早が好んで食べる白身の魚を試しに掬ってみせた。見事な黒鯛が網の中にいた。
それを貰いますと暴れる黒鯛を危なげなく持った千早を、疑問に思いロズウェルが話しかけた。
「ティハヤ様、確かティハヤ様のご生家は海辺と聞きました。魚に馴れてらっしゃるのもそのせいですか?」
貴族の娘なら、生きた魚が目の前に差し出されたら悲鳴のひとつもあげる。それが躊躇うことなく尾の近くを握り、暴れる魚を確保していた。
「ウチは代々漁師だよ。おじいちゃんは若い頃は遠洋に出てて、お金を貯めて自分の船を買ってからは底引きをやってた。
お父さんはおじいちゃんの跡をついで底引き網しながら、引退してワカメの養殖始めたおじいちゃんを手伝ってた。おじいちゃんの弟はワカメの漁師だったから。その内、危なくないように、養殖一本で食べていければいいねって話してたんだけど……」
懐かしそうに語る千早は水平線を見つめている。哀しみを湛えた瞳のまま、手の中の魚を見つめた。
「こんな立派なクロダイなら、市場で良い値段になっただろうな。お兄ちゃん、クロダイ好きだから、獲れたって聞いたら、いつも何で持ってこないんだってむくれてたっけ……」
「兄上がいらっしゃったのですか?」
「うん、四つ年上のお兄ちゃん。高校生だったから、今は大学生か働いてるのかな? いつか秋葉原に一人で行くんだって話してたけど、行けたかなぁ? 田舎じゃ欲しいものを手にいれるのも大変ってよく嘆いてたっけ。
おじいちゃんやおばあちゃんも元気だといいなぁ。最近寒さが堪えるって話してたから……」
会話というよりも独白に近い平坦な声音で続ける千早は、遠い水平線から生け簀の中に視線を戻した。
「もう、戻れない。……私も、このコ達と一緒」
「一緒とは?」
「守られて食事も与えられるけど、自由はない。外に出たくても、出られない。友達とも家族とも二度と会えない。ただ安全に生きるだけ。
囲いの中で食べられる順番を待つように、私もいつか迎えが来るのを待ってる。今、このコ達を食べるのは私だけど。
…………皮肉だよね」
腕に下げたままのぐったりとした鯛を、ロズウェルが持つバケツに入れながら千早は自らを嘲るような笑みを浮かべた。
「あ、あの! ティハヤ様!!
猫、飼いませんか? いえ、犬でも良いですけど。動物はお嫌いですか?」
物思いに耽っていた千早は、突然のその申し出に驚き兵士を見つめる。
「いきなり何を」
「確かに。近くの村、ティハヤ様が砦で出会った山羊飼いのベヘムが住む村なら、猫も犬もいます。仔が産まれたら譲って貰えるように頼むことも出来ます。お一人で寂しいならば、ペットを迎え入れませんか?
それに、もうすぐ近くの大きな街で秋祭りもあります。そちらに遊びに行かれるのはどうでしょう? 人が多くて億劫かもしれませんが、普段手に入らない菓子や演劇や演奏会もありますよ。数日泊まり掛けでも日帰りでも、私の馬ならばすぐに行けます。きっと楽しいですし、街にならティハヤ様と年が近い者もおりましょう」
ロズウェルは千早が興味を持ったと判断したのか早口で話す。兵士もティハヤの気晴らしになるならと、馬で遊びに行ってきてはと勧めた。
「……うん、そうだね。家でも犬も猫もいる生活だったから、それもいいかもね。でも食べ物、足りるかな」
「問題ございません。
ならば吊り橋砦の者に連絡して、仔が産まれていないか聞いてもらいます。あちらまでは砦の定期連絡が来ておりますから、村人にもすぐに連絡がつきます。もし産まれていたら、一度遊びに行きませんか? 女子供と老人がほとんどで、十数人しかいない小さな村です。ティハヤ様が恐れるような者はおりません。私たちも護衛させていただきます。幼い仔はきっと可愛いですよ」
落ち人の安全確保と言う面から考えれば、このまま旧マチュロス領に閉じ籠っていてもらった方がやり易い。だがつい先ほど見たティハヤの暗い瞳が頭にこびりつき、男たちは少々強引にでも愛玩動物を手に入れようと考えていた。