20、廃棄地
深い霧の中、ギシギシと鳴る吊り橋をゆっくりと渡る一団がいる。連なる馬車は一台ずつ対岸を目指していた。
「ティハヤ様」
「この先が廃棄地。何も見えないけど……」
森側に立つ千早を先導するイスファンは頷くと、千早を吊り橋へと道へと導く。廃棄地と森を結ぶ仮橋の周囲は今日も深い霧に閉ざされていた。
「馬車は我らが操ります。出来れば誰かの馬か馬車の中に……」
万一吊り橋から谷底に落ちれば、海まで濁流に呑み込まれる事になる。安全のため是非にと続けられたが、千早は拒否して隙間がある吊り橋を渡り始めた。
鈍い音を発てる揺れる橋をゆっくりと歩く千早の後ろには無言で控えるロズウェルがいる。あの日以来、護衛として控え続ける日々を送っていた。
「ここが廃棄地……。あれ?」
吊り橋を渡りきった千早を迎え入れるように、二つの石があった。石に注連縄がかけられていることに気がついた千早は、不思議に思い首をひねる。
「どうされましたか?」
「いえ、あの……石」
「おい、あんな所に岩があったか?」
「いや、なかったはずだ」
ひそひそと声をひそめて交わす兵士たちの声を尻目に、千早は岩に近づくと静かに頭を下げた。
「御前失礼いたします。今日からこの奥に住むことになりました。よろしくお願いします」
「ティハヤ様? 何をなされているのですか?」
「ご挨拶。注連縄は神様の証だから、前を通るなら挨拶しないと駄目。さあ、行こう」
何となく呼ばれている様に感じた千早は、馬車に乗り手綱を握る。馬車をしばらく走らせれば、突然霧を抜けた。
「見事に何もない……」
千早の呟きを聞く兵士たちも、報告とは違う廃棄地の様子に驚きを隠せずにいた。
「おい、何故何もない?」
「片付け終わってないと聞いたが、蝗帝どもの死骸は何処だ?」
地面を覆う魔物の死骸がある筈の大地を見回して兵士たちが口々に疑問を述べる。乾いた風は清浄で、生き物の気配はしない。ましてや腐ったようなすえた臭いもなかった。
何処までも乾いた砂と石の風景が続いている。
千早は草一本すら生えない荒野に、何故か作られている踏み固められた道を進む。途中で三ツ又に別れていたが迷わず一本の道を選んだ。
「このまま進むと海に出ます」
「海?」
イスファンからの報告を受けて、千早の瞳が輝いた。
「魔海です。魚はおろか、貝や海草すら絶えた死の海。人を襲う魔物が出ます。近付かぬようにご注意下さい」
喜びに輝いた千早の瞳に失望が浮かぶ。
「蝗帝が出て廃棄地となりましたが、それ以前よりこの湾は魔物の被害が大きく問題になっておりました。もう海には近づけぬでしょう」
「コウテイ?」
「全てを喰らう暴虐とも言われる小型の魔物です。谷を越えられず、飢えて死に絶えたとされておりますが、何処かにまだ生き残りがいないとも限りません。どうかご注意下さい」
この土地を滅ぼしたという魔物の事を聞き、千早は遠く山並みを見た。視界に入る全てが白茶色で、風に舞う砂塵が見えた。
「そのコウテイってどんな見た目なの?」
「虫に良く似た姿をしております。大きさは大人の二の腕程度。強靭な顎と後ろ足を持ち、目に入る全てを咀嚼します」
具体的な特徴を聞くと、千早にはそのコウテイに心当たりがあった。馬車を止めて地面に石ころでその姿を書く。
「コレ?」
「そ……そうです。よくご存知ですね」
子供の拙い落書きでも十分に特徴は掴めていたのだろう。イスファンやナシゴレン達が上手く書けていると誉めながら、コレが出たらすぐに逃げてほしいと千早に懇願した。
「……そんなに危険なの? おばあちゃんがよくつくだ煮にして、おじいちゃんのツマミになってたよ?」
親指程度の大きさだったけどと、きょとんと続ける千早を、兵士たちは絶句して見つめている。
「ツマミ……食べるか?」
「え、蝗帝って喰えるの?」
「あんなグロいの食うのかよ」
ヒソヒソと兵士たちが囁く声が千早の耳にも届いた。
「あ……の!! 普通は食べないから。郷土料理と言うか高齢者が昔を懐かしんで食べるやつなの。私も食べたことないから。獲ったことはあるけど」
「獲った?!」
「ビニール一杯に捕ると、おやつと交換して貰えたから」
段々と小さな声になっていった千早は、最後には下を向いて項垂れてしまった。
「……アレは美味なのですか?」
「知らない。食べたことないもん」
「そうですか、残念です。ヤツラを食せるとなれば助かったのですが」
顔をあげずに否定する千早に、ナシゴレンは手を差し出して馬車へと誘導する。その後ろでは鬼の形相となったイスファンが、先ほどまで囁きあっていた兵士たちを睨み付けていた。
ティハヤ様がお休みになったら、覚悟しろ。口の動きだけで伝えてくる上官に、下っぱたちは震え上がっていた。
連なる馬車はその後足を止める事なく、海のすぐ側までやって来ていた。丘の先に輝く水面が見てる。さざなみこそ聞こえなかったが、海の匂いは空気に混ざっていた。
「ティハヤ様、これ以上は危険です。どうかお戻りを。南北のどちらかに進めば、山や川があります。そちらでは駄目なのですか」
千早のやりたいようにと特に止めるとこもなく付き従っていたイスファン達だったが、海に近づくことをこれ以上容認できずに話しかけた。
「駄目。呼んでるの」
「呼んでいる?」
「そう。呼ばれてる。ちぃちゃん、こっちだよって。聞こえない?」
ぼんやりとした顔のまま、海を目指して馬車を進める千早を力ずくでも止めるべきか。視線を交わす兵士たちを尻目に、千早は丘を越えていった。
「お待ち下さい!」
「ロズウェル! 止めろ!!」
最も足の早い騎馬を持つロズウェルに、イスファンが指示を出す。その声に応じて走り出そうとしたロズウェルだったが、愛馬は一歩も歩こうとしなかった。それどころか、何かを感じ取ったように怯えてこの地から逃げ出そうと後ずさる。
「おい、どうした? ……くそっ」
一刻を争うと判断したロズウェルは、馬から滑り降りて走る。先に進んでいった千早にようやく追い付いたのは、丘を降り海へと続く平坦な地での事だった。
慌てて追ってきた兵士たちも、続々と到着する中でも、千早は食い入るように海を見つめていた。
キラキラと太陽を反射し、穏やかに凪いだ海。透明度が高く底まで見通せそうである。
波打ち際には白浜が続き、桟橋近くには裏返された小舟と、十数人で操る中型船があった。崖の近くには箱形の建物が風を避けるようにひっそりと建っている。
「おお!!」
兵士たちの驚きの声を受け、指差す方を見れば魚が海から跳びはね、それを追うようにイルカが大ジャンプを見せていた。
はるか先の湾の出口に三つの島が並ぶ。そこには廃棄地の入り口と同じように注連縄が掛かっている事に特に目の良い兵士が気がつく。
その先はまた深い霧に閉ざされて、白い闇とも言える空間が広がっていた。
「…………これが魔海?」
「いえ…………これは、なんだ?」
常識を超える事態に呆然としたイスファンはただ呟くことしかできない。そんな上官をサポートするべく、ナシゴレンが口を開いた。
「魔海は紅く染まります。このような綺麗な色ではありません。それとも何か幻覚を操る魔物でも出て、集団で豊かな海の幻でも見ているのか。どちらにしろ聞いたこともありません」
「そう。…………ならここにします」
「え、ここに、とは?」
海に釘付けとなっていた兵士たちが聞き返す。
「ここに住みます」
「何を仰っているのですか!
ここには水源もなくッ…………え?」
千早たちの周囲を霧が覆う。危険を感じた兵士たちが武器に手をかけ、ロズウェルが千早を背後に庇った。
「総員、警戒せ……っ!! 今度はなんだ?!」
ゴゴゴ…………。
地面が振動を伝えてくる。さすがの事態に、それまで馬車で寝転んでいたエリックも外へと飛び出してきた。
「神気だっ!!」
鬼気迫る表情で周囲を観察するエリックを尻目に、イスファンは隊列を整える。だが、それ以上の脅威はなく、霧もほどなく晴れた。
「何だったんだ、いったい」
「おい、アレ!!」
「何で林が?!」
「井戸? さっきまで無かったよな?」
視線の先、海との中間に何軒かの家が建っていた。家の先、海との境界線を作るように、なぜか林も出現している。
「…………行こう」
馬車の手綱を引いて千早は迷わず歩き出した。
「天の声があそこは私の家だって言ってるから、大丈夫」
躊躇う兵士たちにそう言いながら足は止まることなく家を目指している。先行して偵察するようにと命じられた数人の兵士たちが千早を追い越して走っていった。
危険はないとの報告を受けて、千早達が家に近づく。小ぶりな母屋と家畜小屋、穀物庫、倉庫からなる家が建っていた。
「井戸があるな」
「こっちは家畜用の囲いか?」
物珍しそうに見る兵士たちを尻目に、千早はどんどん母屋へと進んでいった。
引き戸の玄関に毛筆で「佐々木」の文言を見受けて、自分の家だと確信をもった。
「ティハヤ様、ここは?」
「オシラ様が他の方々にも声をかけて、贈ってくださった家だって。ここで静かに傷を癒して欲しいって……」
そう話しながら扉を引き、靴を脱いで中に入る。続くべきか悩んだロズウェルだったが安全を確認していないと、土足で千早の後に続いた。
「土足禁止! 靴脱いで!!」
次の部屋にいた千早が、追いかけてきた三人の足元を見て靴を脱ぐように話す。慌てて靴を手に持った男たちは室内を見回す。
板の間である部屋の隅には暖炉が作られていた。鍋を吊るすための鈎もつけられているから料理にも役に立つだろう。
部屋の中央には、テーブルと数脚の椅子。壁際に押し付けるように食器棚が置かれていた。
隣へ続く入り口は三つ。その内ひとつは仕切られてすらいない。入り口から覗くと、台所のようだ。別の入口を開けば壁沿いの廊下の先にトイレと外へと続く勝手口がある。後から回って見て気がついた事だが、勝手口へは台所からも抜けられた。
そして唯一、装飾が施された扉を開ける。ここだけは取っ手は金属で内鍵もあった。
「あ、かわいい」
フローリングの床材は白無垢で、床に楕円の大きな絨毯が敷かれている。室内には西洋タンス、姿見、ベッド等が置かれていた。風に揺れるカーテンは柔らかな黄緑色で、裾の部分に二列、白い小花が描かれている。
ガラス張りの窓には曇りひとつなく、網戸は普段サッシの中に折り畳まれ、必要な時のみ広げる形だ。
今は何も入っていないが、冬になれば使うであろうストーブも置かれている。煙突は壁に消え、おそらく暖炉の煙突と繋がって外へと続いているのだろう。
「わぁ!」
ベッドに近づいた千早が歓声を上げる。何事かと近づいてみれば、草のような変わったマットレスを撫でていた。
「畳だ……」
涙声でベッドを撫で続ける千早を見て、脅威はないと判断したイスファンたちは、外で警戒する部下たちの所へと静かに戻っていった。