2、ここは異世界
少女は両肩にのし掛かかられ、弱った骨が砕けるのではないかと思いながら、布の向こうを見つめる。
「いや! やめて!! 放して!!」
暴力には既に馴れてしまったが、今回は毛色が違う。その本能的な予感に残った僅かな体力を振り絞って抵抗する。必死に動かした足はスカートから飛び出して久々に空気に晒された。
「※※※※※! ※※※※※※※!!」
意味の分からない、けれども怒りだけは明確に伝わる音に怯えて少女の動きは止まってしまった。四年間の暴力の記憶が少女を襲う。
布越しでも分かる動きに、殴られると身を固くするが防ごうにも腕がない。申し訳程度に残った二十センチ程が男に向けて動いた。
不容易に動かした治りきらぬ腕から激痛が走る。声も出せずに悶絶している間に、振り下ろされた拳に鼻を折られた。溢れでる血が口内に流れ込み、空咳を繰り返す。
(ここは何処なの? なんで私はこんな目に遭わなきゃいけないの?)
絶望の気持ちのまま、答えの出ない問いを繰り返す。逃げると言う決意はとうに砕かれた。意思疎通すら出来ない日常に、少女の心は折れた。ただそれでも、いつか家に帰る。その一念だけが少女を支えていた。
「…………もう、やだ。お母さん、みんな、ごめんなさい。…………死にたい、殺して」
血を吐き出しながら、とうとう少女は初めて絶望を口に出した。
――――駄目だ! 待って!!
絶叫するように切羽詰まった『意思』が少女の身体を撃ち抜く。それはただでさえ限界を迎えていた少女の精神を、容易に切り裂き、痛め付け闇に落とすのには十分な強さであった。
「……起きて、千早、ほら、起きて」
ぐったりと力が抜けていた少女の身体がピクリと動く。それに力を得たかの様に呼び掛ける声が強くなる。
「う…………」
無理やり薄目を開けた千早は、自分の目の前にいる人影の顔を見て喜びの悲鳴を上げる。
「おばあちゃん!!」
力一杯抱きついた千早を優しく抱き締めながら、祖母と呼ばれた老婆は優しく話し出した。
「千早、落ち着いて聞いておくれ。私は残念ながらお前の祖母ではないよ。この姿は借り物だ」
「おばあちゃん」
嫌々と顔を胸に押し付けて振る千早の顔に、乾いた硬いものが触れる。
「わかったかい? 私はお前の祖母ではない。お前たち家族が先祖代々祭ってくれているオシラだよ」
「オシラサマ? 本当に? 助けに来てくれたの?」
「…………可哀想に。こんなに痩せて、傷付いて。千早の悲しみも怒りも聞こえていたよ。千早の家族の嘆きも聞こえていた。世界の境界を越えるのに四年もかかってしまった。すまないことをした。許して欲しい」
悲しい顔をしたオシラサマを見て、強がる様に微笑んだ千早は腕を解いて自分の力でたった。
「……あれ、何で?」
そこでようやく「両腕」と「足の指」があることに気がついた。バランスがとりやすくなった両足で地面を踏みしめる。まさかと思って恐る恐る腕を上げて頭を触れば、髪の感触もある。四年前、小学校の卒業式の日と同じ、三つ編み二本で止めるハーフアップの髪型だった。
「なんで? 昨日、またボウズにされたはずなのに」
呆然と呟く千早の言葉を聞き、オシラは堪えきれずに涙を流す。そのオシラを慰めるように馬頭の老人が肩を抱いた。
「それはボクが治したからです!!」
「黙れ! お前の発言を許したつもりはない!!」
暴行を受けた跡を身体中につけた少年が地面に伏せたまま千早に向かって叫んだ。変わった衣装の荒ぶる絶世の美女が、少年を蹴り上げ踏みにじり怒鳴っている。
千早は驚きのあまり口を半開きにしたまま見つめる。顔を上げて目があった美女は艶然と微笑み、片足で少年の上に立った。
「貴女が千早ちゃんね? はじめまして。私は天照」
「天照大御神様……」
正面から見た美女の首には玉飾りが下がっている。昔から教えられた手順で祈りを捧げる。そんな千早を優しく見つめた天照は、一度グリッっと足に回転を加えながら、千早の側に歩き寄る。その際に下敷きにされて少年から「ぐぇっ」不穏な音が漏れたが、反応したのは千早だけだった。
「そこのオシラが私に連絡をするまで三年超。地方の家神が私に連絡をするのは容易なことではないのです。私に会うために、オシラはその存在もかけました。家神は出来る全てをしたの。遅くなったオシラを許してあげてね。
連絡を受け私たちも貴女を探しましたが、予定外の召喚で移転先を見つけるのに時間がかかりました。天探女に探させてようやく居所を掴めば、協定外の取り扱い。しかも命の危機。急いでこの世界にやってきたのです」
「移転? 世界の境界? 神様、ここは何処なんですか? 私は帰れるんですよね?」
千早が不安に思って問いかけると、天照もまた酷く悲しげな表情を浮かべて首を横に振った。
「生きてこの世界から日本に戻ることは出来ないの。肉体を持つ生き物は、世界を越えるのが難しいのよ。人の身では、越境は耐えられても一度が限度。だから、私は……いえ、私たちは命なき物質しか移転を認めていなかったのに」
涙目になった女神は怒りを込めた瞳で十代前半だと思われる少年を睨み付けた。息を呑んで飛び跳ねる様に土下座の姿勢をとった少年は震えている。
「そこのバカがこの世界の神です。唯一神オルフェストランス。そうね、屑神か、ゴミ神か、気になるならランスとでも呼んであげてちょうだい」
オルフェスなんて立派な名前で呼ばなくて良いからねと、優しい笑顔で言いきった女神は憂いを浮かべて千早を見つめる。
「もう大丈夫よ。貴女に酷いことは絶対にさせない。私たちも監視しているから、安心してね」
「どういうこと……ですか?」
「本来、貴女は落ち人としてこの世界の賓客となる筈だった。言葉も通じて、危害を及ぼされる事もなく、保護されて安全に幸せに生きるはずだった。それが地球とこの世界との協定」
「でも、私は……」
ついさっきまでの酷い扱いを思いだし、千早は涙を浮かべたまま下を向いた。
「…………説明なさい」
女神からの絶対零度の視線を浴びたオルフェストランスはほんの少し顔を上げる。それー見た天照が後頭部を踏みつけて元の姿勢に戻した。
驚き硬直する千早をオシラが抱き締め慰める。
「そのままで話なさい。誰が顔を上げていいといったの?」
「天照殿、今日はなぜそんなに厳しいのですか?」
いつもは事無かれ主義と言われても仕方ない程穏やかな天照大御神の怒りを感じたオルフェストランスが戸惑いながら問いかけた。
「私は、天照。彼女の世界の太陽神にして処女神。あの子に何をしようとしていたの? それを考えれば、これくらいの対応で済んでいることを感謝こそすれ、文句なんか無いわよね?」
にこやかに笑いながら踏みつけを強くする女神と反論できずに肩を震わせるオルフェストランスに、千早は怯えながら話しかける。
「あの、そろそろ……足を退けてあげてくれませんか?」
「……仕方ないわね」
被害者がそう言うならと、不承不承足を引いた天照に礼をいい、オルフェストランスは千早と初めて目を合わせた。
「はじめまして、佐々木 千早さん。僕はこの世界の神、オルフェストランスと言います。この度は僕が支配する世界の住人がとんでもない事を仕出かしてしまって申し訳ないです。
それに天照殿たちに指摘されるまで気がつかないままだった事にも謝罪します。せめて、これからでも償わせてくれませんか?」
「とんでもない、事?」
「僕の世界は小さい。ひとつの大陸にひとつの国があるだけです。その世界の住人には、どうしようもなくなった時のために、召喚術を授けていました。本来は天照殿のような、エネルギーに満ちた世界から、水や鉱石後は脱け殻なんかを召喚して、その力をこちらに分けてもらう為のものだった。意図して命ある者たちをこちらに誘拐できるものではないんだ」
信じて欲しいと頭を下げたオルフェストランスは、一度大きく息を吐き覚悟を決めたように続けた。
「でも時々、命ある者が落っこちてきてしまう時がある。その時には世界の賓客としてその寿命が尽きるまで、僕らの世界で出来る限りの事をさせて貰っていた。もちろん、言葉も通じるようにするし、危害も加えさせない。戦う力も与えるし、身を守る術だって与える」
「その全て、私にはなかった……」
恐怖の記憶が甦ったのか、千早は顔色を青白く変えて身を守るように両手で自分の身体を抱き締めた。
「そう、それが誤算だった。
君に本来与えられる力は……いや、本来君が持っている地球の力も掠め取られていた。僕は人間を甘く見すぎていたようだ」
悔しさに奥歯を噛みしめ、呻くように話したオルフェストランスは深く頭を下げた。