19、山羊飼いの少年
メェェ!!
ベェェェェ!!
ワンワン!!
ギィメェェェェェ!!
ヴゥゥゥ、ワンワン!!
窓から聞こえる獣の鳴き声で千早は目を開けた。眠っている間に誰か部屋に入ったらしく、入浴に使った盥や着ていた服が無くなっていた。
メェェェェェ!!
ガランゴロン。
窓の外から五月蝿い程の鳴き声と鈴の音が聞こえてくる。何だろうと思って外を覗けば、眼下に白い塊が蠢いていた。
千早が案内されたのは砦の三階の一室だった。そこからは周囲の風景が良く見える。
一瞬現実逃避しかけた千早は、砦の外へと視線を向けかけた。
「メェェ♪」
機嫌良く鳴く声に勇気付けられて、しっかりと観察する。馴れた様子で動くその塊は、山羊だった。ただし馬以上の大きさを誇っている。日本ではあり得ない大きさの山羊だ。
その中の一匹が千早の方を見て、鳴き声を上げていた。
ワンワン!!
千早を見つめて止まる大きな山羊を誘導するのは小さな犬。ただ小さいとはいえ、山羊と比べるからであって、日本で言う超大型犬程の大きさはあった。
「あれ? よう!」
犬達に指示を出していた少年が窓から覗く千早を見つけて手をあげてくる。見つかったと驚いた千早は、サッと壁に隠れた。
「あれ、いたと思ったんだけどな? なあ、気になるなら降りてこいよ!」
ソッと窓から下を見れば、満面の笑みで手を振る少年がいた。姿を見られるのは嫌だが、山羊や犬達が気にもなる。素早く部屋を見回した千早は、椅子の背に置かれた膝掛けの布を見つけた。手早く頭から被り、部屋を滑り出た。
案内された道を辿り一階に降りた千早は、動物たちの声を頼りに外へと向かった。
メェェェェェ!
メェェ!
千早が外へ出ると、山羊達が集まってきた。千早の姿に驚いたようだ。だが、自分の背よりも大きな山羊に囲まれて身動きが取れなくなっている千早を見つけ、犬達に指示をして山羊を散らす。
「よう! はじめまして、だよな?
俺はベヘム。近くの村で山羊を飼ってるんだ。お前は?」
「私はティハヤ……」
そう答えながらも千早の目は犬達に釘付けだ。山羊たちを散らした犬は千早の前で伏せやお座りの形をとり、尻尾だけを忙しく振っている。フレンドリーな大型わんこたちも千早に期待の瞳を向けていた。
「珍しいなぁ。コイツら、他の家のヤツにはなつかないのに。山羊だってすっげぇおとなしい。気に食わないことがあると後ろ足で抉り蹴るんだぜ? 普段はこんなに止まってることなんかない奴らなんだ」
犬達の少し後ろに立つ大きな山羊は、静かに千早を見つめている。時々我慢しきれないと足踏みする若い山羊もいるが、立派な巻き角を持つ大人に体当たりされまた大人しくなっていた。
「あー……撫でる、か?」
動物たちの歓迎に呆気にとられている千早に、犬を指差しつつ尋ねたベヘムは、リーダー格である一頭の頭を押さえた。
大きな黒い犬は尻尾を振りながら舌を出し、慣れた者がみれば一発で笑顔だと判断する表情を浮かべて千早を見ている。
「いいの?」
「ああ、コイツらも撫でて欲しそうだから」
「モフモフ。でも頑張って働いてるんだね。少し硬いや」
ソッと胸の毛を撫でてから、背中を一撫でする千早の顔には、意識しないままうっすらと笑みに近いものが浮かんでいた。
「おう、コイツらは俺の相棒だよ。村の近くじゃ山羊達に十分行き渡る草がないからな。砦の先まで行くのさ。コイツらがいなきゃ出来ないことだ」
誇らしそうに笑ったベヘムは、他の犬たちも呼び寄せて次々と千早に紹介する。
「茶色君に、君は靴下を履いたみたいだから靴下君かな? ハチワレわんこに、黒のブチ。それに白いコ君。可愛いね。みんな働き者で良い子だね」
ワシャワシャと自分と大して変わらない大きさの犬を撫でつつ、そう千早が話せば、抗議するように山羊達の合唱が響き渡った。
「ああ、こっちも紹介しろって言ってるや。ティハヤって動物に好かれるタイプなんだなぁ」
珍しいと言う表情のまま、群れのボスである雄山羊を指差し、ベヘムは話し出した。
「ど、どうぞよろしく」
巨体に圧倒されながらも挨拶をした千早に、ボス山羊が頭を下げて撫でろアピールをする。
「失礼します」
千早はソッと腕を伸ばして、押し付けられた眉間から後頭部にかけてを撫でる。気持ち良さそうに縦割れの瞳を閉じた山羊は、小さく鳴いて角を擦り付けてきた。
「ティハヤ様? どちらに居られますか」
しばらく動物とのふれあいを楽しんでいた千早だったが、砦の中が騒がしくなっている事に気がついて向きを変える。
「今日はありがとうございました」
表情の消えた顔で挨拶をする千早を心配したベヘムは、犬たちを押さえながら話しかけた。
「なあ、いつまでここにいるんだ? 俺は三日後にまたここを通って外に出る。その時また会おう」
「……明日、森を抜けて廃棄地に。
もう行かないと」
「待てって。何で廃棄地になんて行くんだよ。
あそこ何もないだろう?」
「そこが私の住み家だから。もし、廃棄地に緑が戻ったら、みんなを連れて来てね」
歪んだ微笑みを浮かべる千早と、驚いて動きを止めたベヘムはただ見つめあった。
「ティハヤ様、こちらでしたか。山羊飼い! 何をしている!!」
家畜達に囲まれて立つ千早を見つけた騎士が、腰の剣に手を伸ばしつつ駆け寄ってきた。
「やめて!」
初めてと言っても過言ではない千早の鋭い声が響く。騎士を睨み付ける千早を守るように、山羊たちも蹄を打ち鳴らした。
「…………ティハヤ様、そちらは危険です。どうかこちらへ」
騎士の後ろから現れた罪人兵士が千早を手招きする。騒ぎを聞き付けた騎士や砦で働く人々が集まってきた。
「ティハヤ様!」
「ティハヤ殿!」
最後に報告を受けたらしいイスファン達が、人々をかき分けて先頭に出た。
「閣下! 山羊どもが」
「ベヘムは悪くない。私に犬や山羊達を紹介してくれていたの。もう戻ります。それでいいでしょう」
犬と山羊それぞれのリーダーの頭を一撫でし、名残を惜しんだティハヤは砦の中へと進み出る。
「また、ね?」
「あ、ああ。またな、ティハヤ」
小さくバイバイと手を振る千早の顔に浮かぶ笑みを見て、罪人兵士たちは驚きに目を剥いている。王都からここに到着するまで一度も見たことのない表情だった。
「あの、騎士様」
「ベヘムか。肝が冷えたぞ」
千早が去り、普段の落ち着いた雰囲気を取り戻した庭で、顔見知りの兵士を見つけたベヘムが躊躇いがちに話しかけた。
「すみません、まさかティハヤってお貴族様か何かだったんですか? おエライさん達のあの慌てよう……」
「聞くな。箝口令が敷かれている。ただ、お前はティハヤ様と再会の約束をしていたからな……」
悩む仕草をした騎士は、近づくようにと手招きしてその耳に頭を寄せる。
「ティハヤ様は廃棄地に封じられたお方だ。英雄ロズウェル殿や魔術師エリック殿がお側に控える。俺たちの一部も護衛のため、新たな部隊となり廃棄地へと向かうらしい。都から帰ってきた連中がその担当になる。
お前の犬や山羊達が賢いのは知っているが、ティハヤ様に無闇に近づくな。万一怪我でもさせたら、命はない」
止めておけと仕草でも伝えつつ砦を見る騎士につられて、ベヘムもまた千早の部屋の窓を見る。
「でも、アイツ、辛そうだった……」
「やめとけ。お前の父親は出稼ぎに出たまま戻らないんだろう。お前に何かあったら、誰がおばあちゃんを見るんだ。危険には近づくな」
忠告したぞと話した騎士は、持ち場に戻るために歩き出す。ベヘムもまた日のある内に村へと戻らなければと、後ろ髪を引かれながらも砦から出発していった。