11、陰口
ようやく千早の意識がはっきりしてきたのは、三日後のことだった。それまで熱に浮かされた朦朧とした状態で、寝たり起きたりを繰り返していたのだ。
「あら、お目覚めだわ」
「お早うございます、ティハヤ様。ご気分はいかがですか?」
「ようやくお目覚めでございますね。早くご挨拶致したくてお待ちしておりましたの」
「皆様、ティハヤ様のご負担になります。少しお下がりください」
瞳を開けた千早を、着飾った娘たちが待ち構えていた。口々に体調を気遣う娘たちになんと答えようかと思っていたところ、修道女の一人が気がつき払ってくれる。
「あの……」
「あの方々は王家から派遣されてきたティハヤ様の侍女でございます。同じ年頃のお嬢様たちばかりですから、私どもよりも気安くお話になられるかと」
「はあ……」
体調を崩し休んでいる間も、この世界の人々の善意は続いていたようで、そこかしこに美しい花が飾られ、部屋の一角には贈り物らしき箱が積み重なっていた。
「ご体調が良いようでしたら、御召し替えをなさいますか? それともお食事を先にご準備いたしましょうか」
「え、あ、着替えます」
「かしこまりました」
「ティハヤ様、では私たちが見立てて差し上げますわ」
「ええ、その神秘的な瞳に合うドレスを」
「あら、病み上がりですもの。身体を締め付けない物のほうが良いのではなくて?」
細身の娘たちは笑いざわめきながら、隣室へと下がっていった。修道女に問いかける瞳を向ければ、あちらの部屋が衣装部屋になっているそうだ。
「あの、止めてきてください。もしあるのなら、前回着た灰色のものを」
着飾った娘たちが選ぶドレスはきっと修道女達が最初に選んだような国の威信をかけた美しい物になるだろう。体力的にそれを着るのは難しいし、断れば不快にさせることになると千早は判断したのだ。
ペチコートもないたった一枚被るだけのワンピースを纏い、髪を隠す為のストールを探す。前回の紺色のストールが椅子の背に掛けられているのを見つけて、それを巻いた。
「あら、もうお着替えになったのですか?」
「エマ修道女様から、今日のお衣装は選ばなくて良いと言われました。次は是非見立てさせて下さいませ」
にっこりと微笑んだまま美しいカーテシーをする娘たちは、無邪気なほどに善意を向ける。
それから十日前後でお付きの娘たちは次々と入れ替わるようになった。千早は特段親しくなることもなく、淡々と日々を過ごしていた。娘たちは、何とか親しくなろうとなにくれとなく話しかけるが、千早の心を動かすことはなかった。娘たちにもそれぞれに得手不得手があるようで、体力が戻らない千早を歌や踊り、朗読等で楽しませようとしていた。
二ヶ月ほどもすると、千早も部屋から出て散歩くらいは出来るようになる。その日も部屋の近くにある小道を歩いて、戻ってきたところだった。
初夏の日差しを浴びて少し疲れた千早に気がつき、娘たちはしばらく下がると言う。夕食頃にまた来ると言う娘たちと別れて、ソファーに深く腰かけた。
「…………いつまでこの生活が続くんだろう」
自分と同世代の娘たちと会話して、この世界がどうなっているのか尋ねても、苦労知らずの娘たちは王や貴族が住む、この都市のことくらいしか知らなかった。餓えも危険も知らない娘たちの興味は、着飾ること、甘味、観劇、ダンス、音楽鑑賞、そして美しい騎士たちを垣間見ることだ。
千早は早々に諦めて、疲れたと部屋に下がる都度、天の声に質問し知識を深めていた。
成人の年齢。買い物の仕方。通貨の名前や価値。教育。政治。職業。宗教について。その質問は多岐に渡っていた。
今日の質問である冠婚葬祭についてを聞き終えた千早は喉の渇きを覚えた。ティーセットは部屋の隅にあるがお湯がない。ベルを鳴らせばすぐに誰か来てくれるだろうけれど、誰かを呼びつけるのも億劫だった。
そっと立ち上がりティーポットを持つと、部屋の出口に向かう。
「落ち人さま?」
廊下から部屋へと続く入り口は、常に神殿の衛士が二人、立ったまま警戒している。珍しく一人で出てきた千早に片方の衛士は声をかけた。
今日まで無言で立つだけだった相手に話しかけられて、驚きでティーポットを落としそうになる。驚かせたことに謝罪しつつ、衛士はどうされたのかと尋ねた。
「お湯を貰いに行こうかと」
「少しお待ち下さい。すぐに侍女を呼びましょう」
「え。いや、近いし大丈夫です。
すぐに戻りますから」
お湯をもらえる場所くらいは知っていると千早は断り歩き出した。困ったように視線を交わした衛士の片方が、千早の数歩後ろにつき警戒する。
「あの……」
「お一人で外を歩いて何かあってもいけません。私はただの護衛ですので気にされずに」
「いや、気になるんですけど」
給湯室はあちらですと指差した衛士が戻る気はなさそうだ。今までの扱いからも、この地で一人になるのは無理なんだろうと諦めている千早は給湯室に向かって歩き出した。
…………オホホ。
…………もう、ジョセフィーヌ様ったら!
給湯室の近くの部屋から漏れる若い娘たちの声を聞き、千早は進む速度を緩め足音を消した。彼女たちにここにいることに気がつかれれば、また共に過ごすことになるだろう。確かに同じ年頃の子達と話すのは楽しいが疲れる。それが正直な感想だった。
入れ換えられて五日になる侍女たちが近くの部屋で休憩しているようだった。今回の三人はここに来る前からの知り合いらしく、いつも和気あいあいと話し続けていた。
最初は千早が感じるほど、明らかに高貴な家の娘たちであった侍女たちだったが、千早との相性を見る為に、今では少しずつ家格を落としていた。それでも中位から高位の貴族の子女たちであり、本来であれば仕えるのは王に準じる立場の者たちにばかりだ。
…………アンさまは本当に真似がお上手ね。
…………あら、あんな陰気な娘の真似がお上手だなんて、アンが可哀想よ。
せっかくの楽しい休憩を邪魔しないようにと足を忍ばせて千早は歩く。部屋の前を通過しようとしたとき娘たちの話が聞こえて足が止まった。
……落ち人だが何だか知らないけれど、お父様に命じられなかったらお側に仕えなどしないわ。
……全くですわ。歌も駄目。ダンスも出来ない。気の利いた会話もしない。
……沢山の贈り物を頂いているのに、お礼状のひとつも出されていないのでしょう? どんな教育をされてきたのかしら。
……気に入らないのならば受け取らずに返すか、世話の礼に侍女である私たちにお別れにでも下さればいいものを。
……あら、ジェニファー様、そのようにはしたない事を。
……だってそうではございませんか? 結局身につけないのならば、有効に使える者に渡すのも上位者の度量でございましょう。あのように短い髪では、どんな装飾品も似合いませんわ。
……まあ、そうだけれど。それにドレスのご趣味もねぇ。
話の内容を聞いた衛士が怒りも露にドアノブに手を伸ばした。それをとっさに握って止めると、千早は衛士を連れて給湯室へ向かった。
十分に離れたと判断した場所で、強く掴んでいた手を放し、衛士に向き直る。
「落ち人様にあのような無礼、許しがたい」
「気にしないで。本当のことだから」
「しかしっ!」
「本来なら私なんかがお目にかかれないお嬢様たちだって事は、何となく分かってたから。怒ってくれてありがとうございます」
馬鹿にされた怒りもなく、淡々と話した千早はお湯を貰うためのポットを抱き締めた。その蓋が微かに震えている事に気がついた衛士は、表面上は怒りを押し殺し頭を下げたが、上への報告が必要な事案として記憶に留めた。