土下座その4
「えっほ、えっほ、えっほ」
俺は土下座匍匐前進で森の中をずんずん進んだ。
『土下座匍匐前進』とは、その名の通り土下座の形のまま前に進む行為のことだ。
額は地面に付けたまま、まず右手と左膝を前に出し、次に左手と右膝を前に出す――これを繰り返す。小気味よいリズムで繰り返す。
まるでゴキブリのような動きでカサカサと前に進む。このとき、額と手のひらと膝をものすんごい擦りむくため、土下座無縁人では、数メートル進むだけでも大変だろう。
しかし、俺は土下座玄人である。
俺の手のひらは土下座のし過ぎでタイヤのように分厚くなっている。膝は像の皮膚のようにザラザラしていて痛覚が死んでいるし、額は鉄板のように硬い、歪な形の瘤ができている。ネクタイは地面に常に触れているのでボロぞうきんのように汚いし、スラックスの膝は穴が開いている。
これはいわゆる、土下座過多後遺症であり、俺にとっては勲章だ。土下座を極めるということは、簡単なことじゃない。身体の組織が変形してしまうほど過酷なのだ。
「えっほ、えっほ、えっほ」
俺はずんずん森を進む。もう日暮れで、日暮れの森は宵の森よりも暗い。僅かな夕日光は葉脈に遮られ木々の陰に吸い込まれるし、月明かりもまだ届かない。
一番星に導かれ赤と黒が混ざり、空にグラデーションを描く。そんな、ちょうど境の不安定な時間帯に今さしかかっている。
その上さらに、俺は土下座状態だから、ただただ暗い。何も見えない暗闇の中を土下座匍匐前進で進んでいる。誕生を目指して子宮を下る胎児のように。
そのため、視覚はすでに、機能を失っている。
今信じられるのは、三つ指ついた手のひらの触覚と、「もう顔を上げていいぞ」という声を聞くための聴覚だけだ。
俺は触覚と聴覚に意識を集中する。
手のひらは、地面の小石や落ち葉や木の根っこを感知する。時々、地を這う虫みたいなキモチワルイ触感もあるが、気にしない。森の地面は僅かに湿っていて、体温が奪われる。あ、ドングリだ、いや、もしかしたら、ダンゴムシだったかもしれない。
えっほ、えっほ。どんどん進む。
耳は、肉体と森との摩擦音をキャッチする。落ち葉と肉体が触れあえばカサカサと音がする。遠吠えをしている犬の声も彼方に聞こえるし、ホーホー鳴いているフクロウらしき声もする。自分の呼吸音がコンサートホールの音響みたいにボワンボワン聞こえるし、時々屁をこく破裂音がする。土下座の姿勢は、おしりに空気が入るので、屁が出やすくなる。ぷぅ~ぷぷぷぅ。
えっほ、えっほ、ずんずん進む。
どれくらい進んだろうか? 体感で三十分くらい経った。そのとき――。
「うしゅしゅしゅしゅ」
耳が――いち早く異変を察知した。
「ヨク、キタネェ。うしゅしゅ、うしゅしゅ」
いる。声のする方向から推測するに、真上だ。
俺は土下座の姿勢のまま意識を集中した。
俺は土下座のし過ぎで、足音やその他の行動音から、近くにいる人物の様子や特徴がわかる特殊能力が身についている。性別や年齢、身長はもちろん、女性であれば胸のカップ数までわかる。通称『土下座リサーチ』だ。
この感じは、でかいぞ。二メートル、いや、三メートルくらいあるかもしれない。足は八本。腹を空かしている。何か粘性のある液体? みたいなものをちゅるちゅる出している……よだれ? いや、これは……糸か……。
土下座リサーチの結果、真上にいるのは、身の丈三メートルほどの巨大な蜘蛛のバケモノであると推測できた。
「うしゅしゅしゅしゅ。カオヲ、オアゲ」
今、「顔をおあげ」と言ったのだろうか? 片言で聞き取りにくいが、確かにそう言った気がする。
顔をおあげ、この言葉は土下座人間にとって、もっとも嬉しい言葉だ。「もうお前のことは許したぞ」という合図だからだ。
しかし、俺はこのとき、顔をあげるのを躊躇した。いつもなら電光石火の速さで顔をあげるのだが、なんとなく、嫌な感じがした。
舌がざらつき口の中が不味くなるような感覚。大量に血を抜かれたときの、何かがすーっと下がるような感覚。立ちくらみがして世界が遠ざかっていくようなあの感覚――がした。
どうしよう?
俺は初めて迷った。どうしたらいいのだろうか。顔をあげるべきシチュエーションなのに、顔をあげたくない。
「うしゅしゅしゅしゅ。ドシタ? ハヤクカオヲ、アゲロ」
バケモノが催促する。俺はどうにか時間稼ぎをしなければならないと思い、口を開いた。森の湿った地面に唇が触れ、やわい土が上唇に付く。
「あなた様は、土蜘蛛様でしょうか?」
土下座は裁量権を持つ権力者に向かってやらなければ意味がない。まずは、真上にいるのが裁量権を持つ土蜘蛛様であるかどうかの確認が必要だ。
「うしゅしゅしゅしゅ。ソウダ。ワタシ、ガ、ツチグモダ」
やはり、今、天上にいらっしゃるのは、土蜘蛛様だ。現状における最高権力者――土蜘蛛様だ。
ならばやはり、顔をあげるしかあるまい。
俺は腹をくくり、顔をあげようとした。そのとき――
【ダメ! 顔をあげてはいけません!】
声が聞こえた。