土下座その46
もうすぐ終わります。
とりあえず今回は第一部ということで、続きは別の副題で書きたいと思います。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
もう少しだけ、おつきあいください。
吹き飛ぶようにして倒れた村正教授は、口から血を流しながら、不気味に笑った。
「くくく、わかった。わかったぞ。ハクシュウ、君は、夢人だね? そうとしか考えられない。そうか、だから、君は特別だったんだ」
「ゆめひと? なんだそれは?」
「夢人とは、その名の通り、夢世界の住人を指す言葉だ。君は、ここ”ニホン国”の生まれじゃない。僕たちが夢で見る”日本”の生まれだ。ニホン国に住む生物は皆、日本の夢を見て、日本語を学ぶ。人間だけじゃなくて、天狗族も蜘蛛族も日本の夢を見るんだ。ただ、蜘蛛族は口の構造が日本語を喋るのに適していないから、片言になって聞き取りづらいんだよね。最近は夢を見ない無夢病と呼ばれる病気の子供たちが増えていて、問題になっているんだ。無夢病の子供たちは、日本語を喋れないんだ。不思議なことに、起きている時に日本語を教えてもダメなんだ。必ず夢で日本語を学ばないと、日本語は喋れない。それが世界律なのだろうね」
村正教授はこんな状況でも、知識をひけらかしたいスイッチが入ったらしく、先ほど殴られた事など忘れて話し続ける。
俺は痛む右手をさすりながら、それを聞いていた。
右手はまだ震えていて、怒りと悲しみはまだ消えていないのだと、教えてくれている。
「ところで君はいったい誰と等価交換されたんだい? この世界と君が住む異性界には、『等価交換の密約』がある。互いの世界で物質を移動させるには、等価な物と交換する必要があるんだ。何か心当たりはないかい?」
俺はこの世界に来たときに出会ったドラゴンを思い出した。
俺がドラゴンに触れた瞬間、ドラゴンは石の箱の中に吸い込まれて消えてしまった。俺とあのドラゴンが同じ価値だとはとうてい思えないが……もしかしたら、そういうことなのかもしれない。
俺はドラゴンのことを話そうか迷ったが、言わないことにした。
もはや、村正教授は信用できない。こいつは、マッドサイエンティストなのだから。
「まあいいや。あれ、痛い。痛いぞ! 血が出てる。もー、いきなり殴らなくてもいいじゃないか。悪かったよ。角ありの亜人を殺しても、どうせ誰も覚えていないのだからいいやと思ったんだ。土蜘蛛の森を抜けるにはどうしても角ありの亜人の角が必要だったから、仕方なかったんだよ」
村正教授は腫れている頬を摩りながら、上体だけ起こした。村正教授は角ありの亜人を殺したことをまったく悪びれる様子がなかった。
どうせ誰も覚えていないのだから殺してもいいだろうという、クソみたいな理由で、こいつは命を奪ったのだ。
「そもそも、亜人は”残らない生き物”だから、そんなに感情的になる必要などないと思うんだけどなぁ。イテテ」
「残らない生き物?」
「そうだよ! 亜人は人間と他の種族との混血のことを云うんだ。そして、亜人は亜人の子供を産めない。つまり、亜人は子孫を残せないんだよ。亜人同士が結婚して子供を産んでも、必ず人間が生まれるんだ。亜人の子供は生まれないんだよ。亜人と人間が結婚しても同じだし、亜人と別の種族が結婚しても同じ。どう頑張っても、亜人の子供は生まれないんだ。つまり、亜人は子孫を残せない欠陥品だということさ。たとえ子供を産んでも、その遺伝子は亜人のものではないから、無意味なんだ。亜人は、今生きてるだけで、何も残せず、ただ忘れられる生き物なんだよ。だから、亜人の地位はとても低くて、人間の街からはじき出されることがほとんどなんだ。街に住めない亜人は、土蜘蛛のような他の種族の元で働いたり、街の外に貧しい集落をつくって住んだりしているんだ。亜人は記憶にも記録にも残らない使い捨ての人生しか持たない。だから――亜人なんか殺しても、別にいいんだよ」
その言葉に、俺の怒りは再び爆発した。
俺は村正教授に覆い被さり、マウントポジションを取った。そして、右手を振り上げ、殴ろうとした。
「ハクシュウさん、やめてください!」
それを、クルミさんに止められた。
「クルミさん、離してください! こいつに、角ありの亜人も、はぐれ天狗も、殺されたんだ。許せない!」
「ははは、角ありの亜人を殺したのは僕だけど、はぐれ天狗は違うよ。僕は天狗族に告げ口しただけ。天狗族にとって他の種族に迷惑をかけるのは御法度だからね。即刻死刑だった。ただそれだけのことさ。はぐれ天狗の死は、僕ら人間には関係ない。天狗族同士の問題だからね。だから、殴るのなら、角ありの亜人の分だけにしてくれよ。理由もないのに殴られるなんて、まっぴらごめんだからね」
そう言うと、村正教授は壊れた人形のようにケタケタと笑った。そして、懐から笛みたいな物を取り出して、それを吹いた。
「この……マッドサイエンティストめ」
俺はコブシを強く握りしめ、クルミさんの手を振り払った。そして、村正教授が吹いていた笛を乱暴に奪い取り、放り投げた。笛はカランコロンと音を立てながら、天狗岩にぶつかって止まった。
「殴ればいい。それで気がすむのならね。まあ、殴ったところで失われた命も記憶も戻らないから、無意味だとは思うけど」
村正教授はそう言って、俺を挑発してきた。
「ハクシュウさん、ダメです。暴力では何も解決しません」
クルミさんは俺の背中に抱きついて、止めようとしてくれている。
それでも俺は、この感情を抑えることができなかった。
俺は渾身の力を込めて、村正教授の顔を殴った。
村正教授の眼鏡が吹き飛び、鼻から血が噴き出した。俺はその血を見て、さらに発狂した。怒りにまかせて、さらに殴った。何度も、何度も、何度も殴った。
「ダメ! それ以上殴ったら、死んでしまいます。ハクシュウさん、やめてください!」
クルミさんの声はもはや、届いていなかった。
「ゲホォ、カホォ……。ったく、遅いよ、ファガン」
村正教授は口の中に溢れる血を吐き出しながら、何か呟いた。
――次の瞬間、空から何かがおりてくる気配がした。
俺は手を止めて、上を見た。すると、そこにはなんと、三日月から垂れる梯子があり、その梯子をつたって、一人の獣人が降りてくるのが見えた。
「その悲しみと怒り、いただきに参った」
獣人はそう言うと、月梯子から飛び降り、俺の頭上に落ちてきた。
俺は危ないと思ったが、逃げる暇はなかった。
獣人はマントを着けていて、俺はそのマントに包まれた。
俺は必死にマントの中から這い出ようと、もがいた。
マントはまるで粘液のように体にまとわりついて、離れない。
俺は迷路を彷徨う子供のように、半べそをかきながらマントの出口を探した。そして、ようやく外の月明かりが見えたので、その光に手を伸ばして、体にまとわりつくマントをはぎ取った。
「くそ、なんだよこれ……。あれ? 俺、なんでこんなことしてたんだっけ?」
俺はなぜか、村正教授の上に覆い被さり、マウントポジションを取っていた。右手が痛い。俺は、村正教授を殴っていた。その記憶がある。でも、俺はどうして、村正教授を殴っていたのだろうか。
いや、わからないわけじゃない。
ちゃんとその理由はわかっている。村正教授が角ありの亜人を殺したから、俺は村正教授を殴ったのだ。
それはちゃんと理解している。
でも、感情が行為に見合っていない気がする。亜人を殺されたからと云って、怒る気持ちはないし、悲しいという気持ちもない。
――俺は、怒りや悲しみといった感情なしで、村正教授を殴ったのだろうか?
いまいち釈然としない。
何か、忘れているような……いや、何かが欠落しているような、そんな漠然とした感覚だけがある。
困惑している俺に、マントを羽織った獣人が話しかけてきた。
「私の名は『怪盗ファガン』。お前の”感情”をいただいた。返して欲しくば、捕まえてみるがいい」
獣人は自らを『怪盗ファガン』と名乗った。
獣人はライオンと人間が混ざったような姿をしていた。
体中に金色の毛がふさふさ生えていて、口には鋭い牙があった。二足歩行で歩いているが、足の関節は人間のそれとは少し違う曲がり方をしていた。靴は履いておらず、足先には鋭利な爪があった。顔は人間よりもライオンに近くて、耳、鼻、口は完全に動物のものだったが、目だけは人間と同じだと思った。
「さらば!」
ファガンはそう言うと、再び月梯子に登り、三日月へと昇っていった。
いったいなんだったのだろうか?
俺は状況がよくわからず、呆然とした。
「ゲホォ、ゲホォ……はあ、死ぬかと思ったよ。ハクシュウ、君は手加減というものを知らないのかい? ああ、君が夢人だとわかっていたら、もっとはやく『月の笛』を吹いてファガンを呼んで、怒りの感情を奪ってもらっていたのに……。イタタ……。はぁ、まったく、災難だったよ」
「村正教授、大丈夫ですか。さあ、傷の手当てをしましょう」
呆然と立ち尽くす俺を押しのけて、クルミさんは村正教授の手当を始めた。
――俺は、何かを、盗まれたのだろうか?
何かが失われたかもしれないという、漠然とした不安が胸を襲った。




