土下座その45
「きゃああああ……ああ?」
クルミさんの悲鳴が闇に響く――かに思えたが、すぐにその音波は鳴りを潜めた。
落ちた天狗の首は一転、二転して、三転したところで、石塊になった。
いったい何が起きたのだ!?
俺は残った天狗の胴体を見やった。しかし、そこにあったのは、ただの岩塊だった。
天狗の生々しい生命の脈動は消え失せ、冷たくて静かな石の塊しかなかった。そこに、命の躍動は微塵も感じられない。
俺はここでようやく、天狗が何者かに攻撃されて、絶命したのだと思い至り、天狗を殺した何者かがまだどこかに潜んでいて、俺たちの命までも奪おうとしているかもしれないという、危機的状況に気がついた。
俺はすぐに、クルミさんの元へかけよった。逃げなければいけない。そう思った。
「クルミさん、ここは危険です! 逃げましょう……クルミさん?」
しかし、クルミさんは呆然としている。
元々天狗の首だった石塊と天狗の同体だった岩塊を焦点の合わない目で見ながら、不思議な顔をしている。
「私は――私はどうして、この岩を見て、悲鳴を上げたのでしょうか?」
「え?」
「あれ? えっと、先ほどまで、ここに”誰か”いませんでした? 誰か一緒に、お酒を飲んでいませんでしたか?」
「いや、何言ってるんですか、クルミさん。さっきまで、天狗と一緒にお酒を飲んでいたじゃありませんか。そんなことより、ここは危険です。逃げましょう」
俺はクルミさんの手を取り、引っ張った。
しかし、クルミさんは大地に根をはびこらせた大樹のように動かない。
「天狗と、お酒を飲んでいた? そんなはずは、ないでしょう。天狗は人間と交流をもつような種族ではありませんし、なんでこんな辺鄙な山に、天狗がいるんですか? おかしいじゃないですか……」
このとき、俺はようやく気づいた。
クルミさんの記憶から、天狗の記憶が――消え失せている。
俺はカマキリじいさんと村正教授の言葉を思い出す。
――この世界では、子孫を残さない者は存在を抹消される。
これが、この世界の掟だ。
天狗は、子孫を残していなかったのだ。
だから、その存在を消されてしまった。
「やあ、ハクシュウ、クルミさん、無事だったかい?」
暗闇の中から聞き慣れた声がした。この声は村正教授の声だ。
俺は暗闇から出てきた村正教授を見て驚いた。
その後ろに、五人の天狗がいたからだ、
「いやいいやい。村正よ、我々はどうしてここに来たのだったか? その理由を思い出せないのだが」
天狗の一人が村正教授に訊ねた。
「はは、なんででしょうね? まあ、思い出せないと云うことは、思い出す必要がないほど些末な理由だったということではないでしょうか」
「いやいいやい。うむ、そうか。釈然とせんが、まあよい。帰るとしよう。して、この角剣はもらっていくぞ」
天狗の一人はそう言うと、手に持っていた角のような剣を払った。
そのとき、剣に付いていた血が飛び散り、近くにあった雑草を赤い飛沫で汚した。
きっと、あの剣で、はぐれ天狗の首を切ったのだ。そう思った。
「ああ、どうぞどうぞ。もらってください。それはあの土蜘蛛の糸さえも切れる、上等な物です。どうぞ、お納めくださいな」
村正教授は謙った態度でそう言った。
五人の天狗を羽を羽ばたかせて、そのまま夜の空へと消え去った。光り輝く黄金郷へ、帰ったのだろう。
「やあ、ハクシュウ。時間稼ぎありがとう」
村正教授はそう言うと、俺に近づいてきた。
村正教授の手には、天狗が持っていたのと同じような剣が握られていた。
俺はその剣に、どこか見覚えがあると思った――次の瞬間――目眩がして、フラッシュバックのような映像が見えた。
――俺は土下座をしていて、いつもよりなんだか頭が重いなぁと思っていた。
――俺はいったい、誰に向かって土下座をしているのだろうかと疑問に思った。
――顔をあげると、そこには男が立っていた。
――男は剣を振り下ろした。
――その男の顔は、村正教授の顔、そのものだった。
「村正教授……お前、まさか……殺したのか? 角ありの亜人を、こ、殺したのか」
あれは、夢じゃなかったんだ。
無意識のうちに『境界なき土下座世界』が発動していたんだ。俺が見たあの映像は、角ありの亜人たちの、最期の映像だったんだ。
俺は呆然としてしまった。怒ればいいのか、悲しめばいいのか、自分には関係ないことだと無関心になればいいのか、わからなかった。
途方に暮れた。
「え……。なんで? ハクシュウ、お前、何者だ」
村正教授が急に真顔になり、にじり寄ってきた。
その表情は、まさにマッドサイエンティストと呼ぶに相応しいと思った。
「なぜ、覚えている? 角ありの亜人のことを、なぜ覚えている? 角ありの亜人は根絶させた。だから、角ありの亜人のことを、覚えていられるはずがないんだ。僕みたいに”裏技”でも使わない限り」
「村正教授、やっぱりお前が、殺したんだな」
気がつくと、涙が溢れていた。
そして、涙がこぼれ落ちるよりも速く、俺は村正教授をぶん殴っていた。
この時初めて、俺は怒り、悲しんでいたのだと自覚できた。




