土下座その44
夜が深くなりつつある。それなのに、辺りが明るくなった気がする。酔いが回り、顔が火照る。宴はまるで、ともる火のように、膨張し続けている。陽気だ。陽気が満ちている。
「我は、異端だ」
天狗が――ぽつりと呟いた。
それは、蓮池に落ちる、一滴の水滴のように、静かな声だった。
天狗様らしくない。そう思った。
「我は、人間に興味がある。いや、人間と云うよりは、人間の裡に興味がある――と言った方が正しい」
天狗は俺たちの相槌をまたずに、独り言のように話を続ける。
俺とクルミさんは、静かに聞き入る。
「いやいいやい。天狗は本来、他の種族に対して特別な感情を持たない。興味がないと言った方がいいか。我々天狗族にとって、同族以外の生物はみな、低俗な生き物でしかないのだ。人間が蟻に対して抱く感情とにているだろう。天狗族にとって、人間とは、踏みつぶしてもいいし、無視してもいい、どうでもいい存在だ。せっせと働くところを見れば、働いてるなぁと思うだけであり、愚かに争うところを見れば、愚かだなぁと思うだけだ。それ以上の特別な感情は持たない。もし仮に、天狗族に害をなすようであれば、冷酷に駆逐することを厭わないが、無害ならほっておく。お前たち人間も、害がなければ蟻の巣穴を地面から掘り起こすことなどしないだろう? 天狗族にとって人間とは、そういう存在でしかない」
確かに天狗の言うとおりだ。俺は蟻に特別な感情など持っていない。
家をシロアリに喰われてしまったら、巣穴を探して駆逐しようと思うだろうが、道行く働き蟻をとっ捕まえて、巣穴まで案内させようなどとは思わないだろう。
「いやいいやい。天狗族は基本的に、他の種族とは交流を持たない。天狗族にとって、他の種族は”下”の存在であり、天狗族こそが最上級の存在であると思っているからな。天狗族は天狗族としか関わりを持とうと思わないのだ。ダイヤモンドがあるのに、鉄を宝石として身につける者などおらんだろう。特別な理由がない限り、最上級のものだけを取り扱うのは、至極当然の流れだろう」
これもまた、天狗の言うとおりだと思った。
これは俺の土下座の美学と通じるところもある。土下座は、最上級の権力を持つ者に対して行わなければならない。特別な理由がない限り、下位互換の者に土下座などしないだろう。
「だが、我はそれが、つまらなかった。同じ種族の者だけと毎日会っても、退屈じゃないかと思った。でも、そんなことを考える天狗など他にいなかった。そんなことを考える我は、異端だった。我は退屈だと思いながら生きていた。そんなある日、我は”ある人間”に出会った。その者は、愚かで無知でバカでマヌケでおっちょこちょいで、それでいて一生懸命で、よく泣いてよく笑ってよく食べて、よく怒る人間だった。我はその人間に興味を持ち、会話をした。そうすると、人間はいろんなことを考えているのだとわかった。最初は、短絡的で愚かな思考だと思った。腹が減った→飯を食う、好きだ→告白する――程度のことしか考えていないと思っていた。実際のところ、彼奴の思考はそんな程度だったが、不思議なことに、そういう短絡的な思考が幾重にも重なり、複雑に絡み合うと、まるで夜霧に微睡む不夜城のように、挑んでみたくなる不気味な輝きを放つことに気づいたのだ」
天狗は目をキラキラと輝かせた。そして、とんでもないことを言った。
「その事実に気づいてから、我の目には、人間が――おもちゃ箱のように見えたのだ」
おもちゃ箱? 俺は最初、意味がわからなくて首をかしげた。
「いやいいやい。悪く思うな。我は天狗だから、格下の人間を天狗と同列に扱うことなどできぬ。だが、興味はある。遊びの対象として、我は人間に興味がある。おもちゃ箱の中にある、”感情”や”思考”というキラキラしたものを見たいと思う。おもちゃ箱にはいろんな種類があって、種類によって中身が違うから、いろんなおもちゃ箱を見たいと思う。時に、おもちゃ箱を振って、中にある感情や思考をぐちゃぐちゃにして遊びたいとも思う。だから、我は人間に”ちょっかい”を出したいと思ったのだ。しかし、天狗族にとって他の種族に迷惑をかけるのは御法度。許される行為ではない。だから、我は人間というおもちゃ箱で遊びたいと悶々と思い続けながら、静かに暮らしておった。そんなある日、愚かな蜘蛛族が魔王に戦いを挑み、呪いをかけられ、森に住み着いたという話を聞いた。我は、これはチャンスだと思った。森に土蜘蛛が住み着けば、人間は森を往来できなくなる。そうなれば、人間が我以外の天狗族に告げ口することができなくなり、我は人間で好き勝手に遊べると、思ったのだ」
俺はようやく『おもちゃ箱』という言葉の意味に気づき、怒りがこみ上げてきた。
天狗にとって、俺たち人間はただの箱でしかないんだ。感情という宝物を内在している、ただの箱としてしか、見ていないんだ。
「いやいいやい。しかし、それにはいくつか問題があった。我は黄金を食べる。黄金郷には余るほどの黄金があるが、人間が住む街には、それほど黄金がない。黄金がなければ、我は生きてゆけぬ。まずは、黄金の安定供給できる環境を手に入れる必要があった。そこで目を付けたのが、このキンノコだ。キンノコは黄金の胞子を放出することができる。我の神通力を使って、キンノコの成長を調整することで、金を無限に生み出すことが可能になるのだ。いやいいやい」
なんてワガママな天狗なんだ!
いや、ワガママを通り越して、もはや自己愛の塊と云えるだろう。すべて私利私欲のために、人間から黄金を奪い、うら若き乙女を奪い、キンノコを探すために使役したのだ。許せない。
俺は体を震わせ、戦慄いた。
「うふふ。天狗のおじさま。じゃあ、私の心はどうですか? 面白そうですか?」
クルミさんは怒る様子などまったくなく、むしろ優雅に笑っている。それがまた、クルミさんのとてつもない魅力の一端だと思うと、なんだか俺の怒りが矮小なものに思えて、少し冷静になった。
「いやいいやい。クルミ、お前は特別愉快な人間だ。まだまだたくさんの感情や思考を隠している。お前の心の深淵にたどり着くためには、よほど揺り動かさなければいかんだろうなぁ。いやいいやい。楽しみだ」
天狗は冷酷さと愉快さの入り交じった顔で笑う。
その顔を見て、天狗の云う『揺り動かす』という言葉には、拷問や精神攻撃も含まれているのではないかと思った。
俺は不安の表情を浮かべてクルミさんを見た。
クルミさんは――したたかに笑っていた。
クルミさんもまた、天狗の笑顔に冷酷な意味合いが含まれていることを重々承知なのだろう。それでもなお、したたかに笑える強さを持っている。
それが、クルミさんという女性なのだ。
「いやいいやい。ハクシュウ、お前は――」
天狗が俺の顔を見て、にんまりと笑い、何かを言おうとした次の瞬間――天狗の首が滑るように、落ちた。




