土下座その43
「しかしまあ、神通力というのはすごいものですね」
俺は豊樹に宿る種種の果実や淡い芳香を放つ葡萄酒を見て、しみじみ思った。神通力ってすごい。
「いやいいやい。我々からしたら普通のことだが、人間からしたらすごかろう」
「神通力があれば何でもできますもんね。うらやましいな」
「いやいいやい。何でも、ではないぞ。できないこともある」
「え? そうなんですか」
「いやいいやい。神通力とは、何かを生み出す力ではないからな」
俺は葡萄酒をゴクリと飲み込み、続きを促した。
「では、神通力とは?」
「いやいいやい。知りたいか?」
天狗はもったいを付けて、にやりと笑う。その顔は、困っている三歳児をみて遊んでいる、いぢのわるい大人のようだ。
「教えてくださいな」
俺は懇願した。
「いやいいやい。どうしようかなぁ」
天狗はわざとらしくとぼけながら、長い鼻をかまう。
「私も知りたいですわ。天狗のおじさま、教えてください」
クルミさんも瓜坊の背中をなでながら賛同してくれた。瓜坊の毛並みは気持ちよさそうだった。
「いやいいやい。いいだろう。神通力とは、別名『縮大の術』とも云う。また『大小の律』と呼ばれることもあるし、『調力の妙技』と呼ばれることもある。中には、『天狗のイカサマ』などという俗称で呼ぶ輩もいるらしい」
俺は葡萄酒を飲みながら相槌を打つ。俺の隣には、とぐろを巻いている蛇がいて、リンゴを丸呑みしている。
「その通り名が示すとおり、神通力とは、物の大小や、威力の強弱を調節できる能力のことだ。この能力は、天狗族なら誰でも使える。今でこそ、当たり前の能力になっているが、その起源は、魔王による祝呪であると云われている。伝説の天狗『カルラ』が、魔王に戦いを挑み、見事祝呪を得たという伝記が残っている」
シュクジュ? 聞き慣れない言葉に俺は首をかしげた。
「あの、天狗様。シュクジュとはいったい?」
「いやいいやい。ハクシュウ、お前は祝呪もしらんのか? まあいい。祝呪とは、善き呪いのことだ。魔王がかける呪いには二種類ある。相手にとって悪い影響を与える悪呪と善い影響を与える祝呪の二種類だ。我々天狗族の神通力は、物の大小や威力の強弱という世界律の一部を調節できる善き能力だ。だから、『祝呪』と呼ばれているし、『神通力』という神聖な通り名も付随している。一方で、大地に嫌われるようになった蜘蛛族にかけられた呪いは、悪呪に分類される。『呪い』とは、世界律の”改変”や”操作”を意味し、それは魔王の気分次第でいとも簡単に書き換えられる。だから、魔王は『動く災害』とも呼ばれている。もし出くわすことがあったら、何も起きないことを祈りながら逃げ出すことだ。人間にできることはそれくらいだろう。相手は災害そのものなのだからな。地震や台風を前に人間が為す術ないのと同じことだ」
俺は静かに頷き、生唾をゴクリと飲み込んだ。
なんだか、すごい話だと思った。この世界には、魔王と呼ばれる恐ろしい生き物がいるのだ。俺は魔王に出くわしたらどんな土下座をしようかと妄想しながら、天狗の話の続きを聞いた。
「いやいいやい。少し話がズレたな。神通力の話に戻そう。神通力でできるのは、物の大小や威力の調節だ。体を大きくしたり小さくしたり、風を強くしたり弱くしたりできる。あと、成長の進度も変えられる。植物の生長を早めたり、葡萄の発酵を早めて葡萄酒をつくったりできる」
なるほど。だから、あんなにすごい威力の屁をこけるし、あんなにすごい威力のクシャミができるのだな。俺は感心すると同時に、あの台風のように恐ろしい屁を思い出し、身震いした。
「はい。おじさま質問です」
クルミさんが元気良く手を上げた。いつのまにか、クルミさんの右肩にはフクロウが止まっていた。フクロウはホーホー鳴きながら、なぜかこっちを睨んでいる。なんだフクロウ、やるのかこの野郎。
「じゃあ、私がきのこ山から出られなくなったのは、どういうことなんでしょうか?」
天狗は、ああ、と言ってから、葡萄酒を三口飲んだ。それから、クルミさんの問いに答えた。
確かに、物の大小や威力の強弱、さらには成長の進度の調節だけじゃ、説明できない気がする。
「いやいいやい。あれは、境界の幅を伸ばしたのだ。何かと何かの間には必ず、”境界”が存在する。きのこやまの出口にも、”きのこ山”と”きのこ山の外”の間という境界が存在する。その境界は、普段なら気にならないほどの幅しかないから、たった一歩進むだけで、簡単に越えることができる。我はその境界の幅を、うんと長くしたのだ。だから、お前はいつまで経っても、境界を超えることができず、きのこ山の外にたどり着くことができんかったのだ」
「つまりは、神通力を使えば、幅の長短も調節できるということですね」
「さようだ。いやいいやい。幅の長短を調節することで、こんなこともできるぞ」
そう言うと、天狗は何やら呪文のような言葉を呟いた。
――次の瞬間、天狗が目の前から消えた。豊樹の枝に付いている木の葉が、ゆらゆらと舞い落ちる。
「いやいいやい。ここだ」
俺は背後から声がしたので振り返ると、そこに天狗がいた。
瞬間移動だ。
俺はあまりの驚きに、口に含んでいた葡萄酒を垂れ流すようにこぼしてしまった。葡萄酒がYシャツに鮮やかなシミをつくる。まずい、これははやめに染み抜きしないと落ちないぞ。この世界にクリーニング屋はあるのだろうか。
俺はそんなことを考えながら、天狗の鼻を見上げた。
「この妙技を、我々は『縮地』と呼んでいる。神通力を使い、距離の幅を限りなく短くして移動する技だ。よく、人間共は天狗のことを神出鬼没だと言うが、それはこの縮地を見た人間が言い出したことなのだろう。いやいいやい」
天狗はそう言うと、再び呪文のような言葉を呟き、元いた場所に戻った。




