土下座その42
「ハクシュウさん、無事でしたか」
木の陰に隠れていたクルミさんがやって来た。その表情は安堵に包まれている。
「ええ、なんとか、生きてます」
「急に天狗のおじさまがやって来て、巨大化して、巌を揺さぶり始めたんです。それで、私、ハクシュウさんが中にいるから乱暴しないでくださいと言ったんですけど、聞いてもらえなくて」
クルミさんは頬を膨らませながら、天狗を見上げて、睨んだ。
「いやいいやい。すまんかった。少々乱暴にしてしまった。我は”天狗”だからな、”人間”に対する扱いが粗雑になってしもうたわ。いやいいやい」
そう言うと、巨大な天狗は急に小さくなった。小さくなった、と云っても、我々人間と比べたら充分でかい。二メートル以上はあるだろう。
「いやいいやい。まあ、二人とも座れ。これから宴を始めるぞ。キンノコを捕まえた祝いだ」
天狗はそう言うと、あぐらをかいて座した。俺とクルミさんは一度顔を合わせて、アイコンタクトをしてから、頷き、その場に座った。
俺は正座で、クルミさんは体育座りをした。
「いやいいやい。人間よ。まずはその手にあるキンノコをよこせ。いやいいやい」
俺は右手の中でうようよと暴れているキンノコを天狗に渡した。
「いやいいやい。これで当面の生活は問題なくなった。ありがたい。人間よ。お前の名は?」
「土屋白秋と申します。白秋とお呼びください」
「いやいいやい。ハクシュウだな。しかと覚えた。ハクシュウよ。改めて礼を言う。よくぞキンノコを捕まえた」
天狗はそう言うと、何やら呪文のような言葉を呟いた。すると、キンノコの体から金の胞子がぽわぽわと出てきた。そして、金の胞子は一カ所に凝集し、金の塊になった。
天狗はその金の塊を、まるで粘土でもこねるかのように簡単にこねた。そして、金の杯を生成した。
「ほれ」
天狗は俺に金の杯を渡してくれた。俺はありがたく受け取った。
天狗は同じ要領でもう二つ金の杯を作り、一つはクルミさんに渡し、一つは自分で持った。
天狗は再び、呪文のような言葉を呟いた。
すると、今度は豊樹の枝が天狗の手のところまで伸びてきた。天狗は豊樹の枝に実っている葡萄をもぎ取ると、それを握りつぶした。葡萄の果汁がしたたり落ちる。それを、天狗は金の杯で受け止める。天狗は葡萄の果汁を、俺とクルミさんの持つ金の杯にも絞り落としてくれた。
これを飲めと云うことだろうか?
俺はそう思い、金の杯に顔を近づけた。そのとき、わずかなアルコール臭を感じた。これは、葡萄の果汁を搾っただけの飲み物じゃない。これは、お酒だ。
天狗の神通力の力なのだろうか? 何の変哲もないただの葡萄を、握りつぶしただけで、瞬時に発酵させて、葡萄酒にできるだなんて……。
「まあ、おいしい」
俺がそんなことを考えていると、一足先に葡萄酒を飲んだクルミさんが感嘆の声を上げていた。
クルミさんの芳醇な果実のような赤ら顔を見てから、俺も葡萄酒を飲んだ。
「うまい」
あまりのおいしさにびっくりした。そして、二度、三度、と杯に口を付けて、あっという間に飲み干してしまった。
「いやいいやい。酒も果実もいくらでもある。好きなだけ、飲め。好きなだけ、食せ。いやいいやい」
こうして、きのこ山の宴が始まった。
空には無数に輝く星と、梯子を垂らす三日月が見えた。優しい風が吹き、ホタルきのこの胞子が天の川のように漂っている。芳醇な果実の香りに誘われて、山の動物たちも集まってきた。天狗は上機嫌で、山猿やリスや蛇にも果実や酒を振る舞った。野鳥が歌い出し、そのリズムに合わせるよに細長いきのこがメトロノームのように左右に揺れた。アルコールが体にまわり、俺は愉快になった。クルミさんも顔を赤らめて、愉快に笑っている。今なら、何でもできるような気がした。土下座なんかしなくて、今なら何でも許されるような気がした。
ああ、宴だ。これは、愉快な宴だ。
俺は酒を飲み、果実をほおばり、にんまりと笑った。




