土下座その3
二時間ほど歩き、ようやく森に到着した。
今何時なのか確かめようと思い、腕時計を見た。時刻は午後五時を指していた。空を見ると、夕日が浮かんでいた。どうやら、時計の時刻は正確なようだ。
ここがどこなのかまったくわからないが、ここにある景色は、午後五時の景色で間違いなかった。
ちなみに、ケータイは持っていない。仕事中だったので、ロッカーに入れたままだ。財布も。ああ、ロッカーが憎い。あの四角い無口なロッカーが、今、無性に憎くて腹立たしい。
ロッカーは俺の大切な物を守っていてくれていると思っていたが、違った。奴は、俺から大切な物を奪っていたのだ。これからはロッカーの認識を改めねばなるまい。
ああ、ロッカーを蹴飛ばしてやりたい。蹴飛ばして、ベコベコにしてやりたい。だいだいロッカーっていうのは……。
「うしゅしゅしゅしゅ」
突然、森の中から奇妙な声が聞こえた。
「うしゅしゅしゅしゅ。ニンゲン。ヒサシブリ。うしゅしゅしゅしゅ。オイデ、オイデ」
オイデと言われても、行きたくないのである。俺は後ずさり、引き返そうとした。
「ワン! ワンワン!」
後ろを振り返ると、そこには犬がいた。犬と云っても、チワワやダックスフンドのようなかわゆい類いではない。いわゆる猟犬と云った類いのつよそーな犬である。
体長は一メートル以上あるし、四肢の筋骨は隆々でボディービルダーのようだ。
「ぐるぅううううう! ワン、ワン!」
猟犬は口からよだれを垂れ流している。猟犬は一匹ではなく、群れでいる。そしてよだれを垂れ流している。猟犬は二十匹もいる。そしてよだれを垂れ流している。目は血走っていて、よだれを垂れ流している。
「お犬様。失礼します」
そして、よだれを垂れ流す猟犬の隣には、シルクハットをかぶり燕尾服を着た執事のような格好をした人間がいて、こまめに猟犬のよだれを白いハンケチで拭いていた。執事も二十人いる。
「ぐるぅうううう!」
よだれが垂れる。
「お犬様、失礼します」
執事が拭く。
「ぐるぅうううう! わん!」
よだれが垂れる。
「お犬様、失礼します」
執事が拭く。
――俺はいったい、何を見せられているのだろうか?
意味不明だったが、おそらく、俺は今追い詰められているということだけは、なんとなく察した。
猟犬から逃げるには、森に入るしかない。しかし、森には明らかに何かいる。オイデオイデと奇妙にささやく何かがいる。だから、行きたくない。でも、森から逃げるには、猟犬をどうにかしなければならない。
さて、どうしたものか。とりあえず、猟犬は今すぐ襲ってくる様子はない。威嚇をしているだけだ。本気で俺を殺す気なら、すでにやっているはずだ。
「あの……すいません」
俺はとりあえず日本語が通じそうな二十人の執事に話しかけた。
「なんでしょうか? あ、お犬様、失礼します」
執事のうちの一人が猟犬のよだれを拭きながら俺に反応してくれた。
「あなはた、日本人ですよね」
俺はとりあえず、国籍を訊ねた。土下座をして許してもらうためには、相手が土下座の文化を持っているかどうか確認する必要がある。
残念なことに、土下座は世界共通ではないのだ。いつの日か、「mottainai」や「tunami」のように、世界で「dogeza」という言葉がそのまま通じるようになればいいのに。
俺は下唇を噛んだ。
「いえ、わたくしはニホンジン? ……ではありませんし、人間でもありません。角ありの亜人です」
そう言うと、執事はシルクハットを脱いで見せてくれた。
執事の頭には、海獣のイッカクのような立派な”角”が生えていた。俺はそれを見て、タケノコみたいだと思った。
「あなたは、人間ですよね」
逆に執事が訊ねてきた。俺は頷いた。
「では、残念ですが、そのまま森へとお進みください」
執事はそう言うと、シルクハットをかぶり、角を隠した。俺は、あの立派なタケノコみたいな角を隠すのは、もったいないと思った。もっと見ていたいと思い、少し残念だった。
「どうして、森に進まなければならないのですか?」
俺は訊ねた。
「森の中には、蜘蛛族の方々が住んでいらっしゃいます。その蜘蛛族の王である土蜘蛛様の命令なのです。お犬様は土蜘蛛様の家畜であり、わたくしども角ありの亜人はそれよりもさらに地位の低い下民なのでございます。土蜘蛛様に逆らえば、わたくしどもは一瞬で殺されてしまいます。どうか、何も言わずに森へと進み、そのまま土蜘蛛様のエサになってくださいまし」
執事はそう言うと、頭を下げた。
「はぁ……それは残念だ」
本当に残念だった。
今目の前にいるのは、なんの権限も持たない最下層の下民だ。なんの権限もない奴にしてやる土下座はない。
土下座とは、権力者に向かってやる行為だ。権力のない奴にやる土下座ほど、無意味でむなしい行為はない。
つまりは、今土下座をしてもなんの意味もなく、この状況を打開することはできないということだ。下っ端には何も権限がないのだから、土下座をしても許して貰えるわけがない。
つまりは、ピンチだ。
「ワン! ワン! ワン! ぐぅるうううう」
猟犬がよだれを垂らしながらジリジリ詰め寄ってくる。はやく森に入れと催促しているようだ。
「お犬様、失礼します」
執事は猟犬のよだれを拭く。機械のような無感情の動きで拭く。
「はいはい。わかったよ」
俺は観念して、森へと向き直った。そして、土下座をした。
今現在登場している人物の中で一番権力を持っているのは『土蜘蛛様』だ。つまりは、俺が土下座するべき相手は、土蜘蛛様ということになる。
俺には、土下座しか武器はないのだ。
土蜘蛛様に土下座が通用するかどうかは未知数だが、俺には土下座するしか能がないのだから、土下座するしかない。
「おい、角ありの亜人ども」
俺は土下座の姿勢のまま、最後に憂さ晴らしをしようと思い、口を開いた。唇が地面に僅かに触れる。吐く息が地面を少しだけ湿らせて返ってくる。土下座をしながらしゃべると声がこもるので、いつもより大声を出す。
土下座しながらしゃべるのはマナー違反だが、角ありの亜人共はなんの権限も持たない最下層の下民だ。敬語を使う必要もないし、丁重に扱う必要もない。
「お前らはお犬様のよだれを拭くしか能がないのか? よだれを拭くだけの人生でいいのか? そんなの、生きてる意味ねーだろが。俺は土下座しか能がないけどよぉ、お前らよりはマシだわ。けっ! その立派な角を一生隠して、惨めに生きてな。このクソ亜人共がぁ!」
俺は捨て台詞を土下座の姿勢のまま吐き捨てた。
そして、俺は土下座の姿勢のまま、まるでゴキブリのようにカサカサ動きながら、森へと進んだ。
「うしゅしゅしゅしゅ。オイデ、オイデ」