土下座その34
カマキリじいさんの哀愁漂う背中が見えなくなってから、俺たちはその場に座り、枝葉の隙間から星を眺めたり、風に漂うきのこの揺動をただぼんやりと見ていた。
俺はなんとなく、無言だった。
「ハクシュウさんは、人の告白を断ったことはありますか?」
クルミさんは揺れるきのこを見ながら、独り言のように呟いた。
「いえ。そもそも、告白されたことがありません」
俺はただ事実を言っただけなのだが、なんだか情けない気持ちになった。
「そうですか。私は何度か経験がありますが……慣れないものですね。人の告白を断るのには、相当な胆力を消費します。どっと、疲れました」
そう言うと、クルミさんは苦笑いをした。苦笑いでさえ、美しかった。
クルミさんはそれ以降、黙ってしまった。自分から喋る気はもうない様子で、三角座りの膝の上にアゴをのせ、疲れた顔でボーッとしている。
俺はこのとき、迷っていた。聞きたいことが二つあった。どちらを聞いたらいいのか、ぐぢぐぢと、狭い脳内で思案していた。
一つは、ツチノコについて。これから俺たちはツチノコを見つけ出さなければならない。そのためには、敵の情報を知っておく必要があるだろう。クルミさんがツチノコについてどれくらいの知識を持っているのか知らないが、情報の共有は必要だろう。
そして、もう一つの質問。
それは――クルミさんの幸せの定義を知りたい――と云うことだ。
これはただの俺の好奇心であり、今この場で聞く必要のない質問だ。でも、聞きたいという気持ちが心の底で燻っている。
結局、好奇心が勝った。
「クルミさんの幸せの定義って……」
――瞬間、きのこ山が凍り付いたかと思った。脳裏には、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの『氷海』の絵が思い浮かんだ。
クルミさんが、道化師の顔で笑ったのだ。
クルミさんの白い顔が仮面のように見え、潤んだ瞳と引き裂かれたような口が不気味に浮かんでいるように見えた。
「私の幸せの定義を知りたければ、それ相応の”覚悟”が必要ですが、あなたにその覚悟はありますか?」
「ありませんすいません」
覚悟などないに決まっている。ただの好奇心で聞いただけなのだから。
俺はすぐに土下座して、許しを請うた。なんだか、パンドラの箱を少しだけ開けてしまった気がして、怖かった。
「あら、そうですか。残念」
クルミさんは本当に残念そうな顔をした。その顔を見て、俺は「儚い」と思った。きっと、俺の脳内にある『儚い』という言葉のイメージと、今のクルミさんの顔から得られる情報が、似ていたのだと思う。『儚い』という言葉の定義を知りたければ、辞書を引いて言語的に説明されるよりも、クルミさんのこの顔を見た方がより正確だと思った。
辞書はいつだって、ずいぶん正しくて、ちょっとだけズレているから。
「あ、ツチノコ。珍しいわ」
クルミさんは宵闇の中で蠢く小さな何かを見つけて、立ち上がり、それを捕まえた。
「え? ツチノコ見つけたんですか? もう?」
俺は目的のツチノコがあっさりと見つかったみたいなので、拍子抜けしてしまった。
クルミさんは振り返り、俺にツチノコを見せてくれた。
それは、直径五センチほどの、小さなトカゲみたいなフォルムをしていた。しかし、手や足はなく、よく見れば、目もない。ただ、口だけがあった。それは、不気味な顔で、生き物のように見えるのだが、生き物だと認めたくない何か異質な雰囲気を携えていた。色は黒色で、皮膚は硬そうだった。
「これがツチノコですか。やりましたね。じゃあ、早速天狗様に献上しにいきましょう」
俺は立ち上がり、天狗様のいるきのこ神社へと向かおうとした。
しかし、クルミさんは不思議な顔で首をかしげて、立ち止まったままだ。
「これは、鉄のツチノコですよ。天狗のおじさまが見つけて来いと言ったのは、金のツチノコですから、この子ではありません。ハクシュウさんは、ツチノコを初めて見たのですか? もしかして、そもそもツチノコが何か知らないのではないですか?」
俺は申し訳ない顔で頷いた。
「ハクシュウさん、あなたはいったい、何者ですか? ツチノコも知らないだなんて……。まあ、いいでしょう。じゃあ、ツチノコについて教えてあげます。実は私、教師なんです。先生に憧れて、私も教師になろうと思ったんです。だから、人に何かを教えるの、好きなんです」
そう言うと、クルミさんは少し嬉しそうに、ツチノコについて教えてくれた。




