土下座その1
それはある日のこと。
俺はいつもの通りに土下座していた。会社の金を横領していたのがバレたのだ。俺のおでこはかなり後退している。これは土下座のしすぎで額をこすりすぎた後遺症だ。スーツの膝は穴が開いているし、ネクタイは床を拭くぞうきんみたいに汚い。
俺は土下座しながら今日の夕飯何にしようかなぁ、ウナギでも食べたいなぁ。なんて考えていた。
土下座とは”形”であり、それは様式美だ。そこに、謝罪の気持ちは一切必要ない。心まで土下座する必要はないのだ。俺は謝罪するつもりは端からない。土下座とは、謝罪の気持ちを伝える行為ではなく、相手に許しを請う行為なのだ。そこをはき違えてはいけない。
俺は今まで、この土下座だけで生き抜いてきた。俺の土下座には力があるのだ。
しかし、今回ばかりはさすがに雲行きが怪しい。横領は犯罪だ。俺が今まで土下座で突破してきた難局は、犯罪ではなかった。でも、今回は歴とした犯罪だ。さすがに土下座で許されるものではないのかもしれない。
――少し、弱気になった。
でも、俺は土下座の力を信じている。土下座には力がある。世界を平和にできるだけの力だ。信じろ。土下座の力を信じるんだ。俺は自分で自分を鼓舞した。
「コツ、コツ、コツ」
足音が聞こえた。この足音は社長の足音だ。俺は土下座のしすぎで、足音だけでそれが誰なのか判別できる特殊能力を身につけていた。ついに、社長が来てしまった。もう、これで終わりか。俺はあきらめかけた。
「カツ、カツ、カツ」
ん? もう一つ足音が聞こえる。初めて聞く足音だ。この足音は女性だ。ヒールを履いている。身長は百五十センチ前後。髪は肩くらいの長さ。年齢はおそらく三十二、三といったところか。胸のサイズはAかBだ。胸の振動は足音に影響を与える。それは僅かな差でしかないが、何十年も土下座してきた俺なら聞き分けることができる。
「マルーン博士、どうですか?」
社長の声だ。俺の土下座を見下しながら誰かと話している。
「おお! スバラシイしい。まさに”壁画”の通りデスネ」
なまりのある日本語だ。社長の話し相手は外人の女性なのだろうか?
「ほんトウニ、もらっていってもイインデスカ?」
「ええ、どうぞ。こいつは土下座しか能のないクズですから」
そう言うと、社長は俺の頭を踏んづけた。頭を踏む行為を土下座用語では「なでる」と言う。俺は勝手に自分の中で『土下座用語』なるものをつくっている。土下座はときに長時間に及ぶ。何時間も土下座していると暇なので、土下座用語なるものを考えて遊んでいたのだ。
社長は俺の頭を垂直に地面に”押す”のではなく、俺の頭をなでるように足を右に左にシェイクするのだ。俺の顔を地面にこすりつけさせたいのだろう。だから、「踏む」ではなく「なでる」と土下座用語で表現している。
「いやー。とてもイイ”ニエ”が手に入って、ウレシイですネ」
ニエ? なんだ?
「おい、いいか土屋。土下座をやめてもいいと言うまで、ずっと土下座していろ」
社長が俺の名前を呼ぶ。自己紹介遅れました。わたくし名を土屋白秋と申します。
「では、オマエたち、運んデおくレ」
足音が増えた。三人、いや、四人だ。全員男。それも、相当鍛えている。ゴリマッチョだ。足音でわかる。
ゴリマッチョ達は俺を土下座の形のまま持ち上げて、木製の箱の中に入れてふたを閉めた。そして、そのまま会社の階段を降りて、車に乗せた。車は俺の体感で三時間ほど走った。
車が止まり、俺は箱ごと移動させられた。アナウンスが聞こえる。ここは、空港だ。俺はおそらく、飛行機の荷台に詰め込まれた。
飛行機が飛び立ち、俺は土下座の姿勢を維持したまま、日本を離れた。
俺の体感で十五時間くらい経った頃、ようやく飛行機は着陸した様子だった。俺は再び箱ごと持ち上げられて、運ばれた。今度もおそらく車だ。エンジン音が聞こえる。俺は車に乗せられてさらに五、六時間運ばれた。
車が止まり、俺は再び箱ごと持ち上げられて運ばれた。四人の男の疲れた息づかいが聞こえる。四人の男は三十分ほど俺を箱ごと持ち上げながら移動していた。大変だったろう、ご自愛ください。
そしてようやく、俺はマルーン博士の目的地へと到着したらしい。
木箱のふたが開かれ俺は土下座の姿勢のまま外に出された。地面は一面砂だった。砂の上で土下座をするのは初めてではなかったので、俺はとくに驚きもしなかった。砂利の上で土下座をしたこともあるし、雪の上で土下座をしたこともある。砂の上なんて、楽なもんさ。
「あっつ!」
思わず声に出してしまった。これは完全に土下座マナー違反だ。土下座中は自発的に言葉を発してはいけない。謝罪相手に「口を開いていい」と許可をいただくまでは、口を開かないのが土下座マナーなのだ。
俺は土下座マナーを破ってしまったことを恥じながらも、そのあまりの熱さに身の危険を感じた。ここは熱帯地域なのだろうか? このままここで土下座し続けたら、干からびて死んでしまう。汗が頬を伝う。
「♯*○△▲×」
聞き慣れない言葉が聞こえてきた。何語だろうか? 当然日本語ではないし、英語でもない。それは俺の知らない言語だった。声色は女性なので、おそらくマルーン博士が指示を出しているのだろう。
俺は社長の言いつけを守り、土下座の姿勢を崩さない。俺には土下座の美学がある。美学を守るためには、危険なことも耐える必要がある。
「@*%○」
ゴリマッチョの男達が返事をしたようだ。男達は俺を再び持ち上げる。涼しい風が俺の土下座下半身を冷やす。気持ちが良かった。ちなみに土下座下半身とは、土下座の姿勢のときに地面に接する面のことだ。膝や手のひらやおでこ、腹なんかが該当する。これも『土下座用語』の一つだ。
男達は俺を運び、怪しい建物の中に入っていった。土下座姿勢だとどんな建物かわからないが、どうやら洞窟みたいな構造の建物らしい。薄暗くて、たいまつがなければ何も見えない。
建物の中を数分進んだところで、俺は石でできた四角い入れ物の中に入れられた。
「#&&+▲」
マルーン博士がなにやら怪しい呪文を唱えた。何だろうか?
急に、あたりが暗くなった。たいまつの火が消えたのだ。俺は急に心細くなった。深夜から朝日が昇るまで土下座をした経験があったが、そんなときでも月や星の明かりがあった。土下座中に、蛍の僅かな光に励まされたこともある。でも、今は完全な漆黒だ。僅かな光もない。
闇の中、マルーン博士とマッチョボーイズたちの足音が遠のく。俺一人だけおいて帰るつもりらしい。怖い。いったいここはどこなんだ? 俺はいったいどうなるんだ?
そんなことを考えていたとき、俺はふと、マルーン博士のある言葉の意味が思い当たった。
『いやー。とてもイイ”ニエ”が手に入って、ウレシイですネ』
ニエ……もしかして、贄、つまり”生け贄”のことか!
マズイ。このままだと、生け贄にされてしまう。こんなところで土下座をしている場合じゃない。俺はそう思った。しかし、俺は土下座をやめることができなかった。悲しいかな、俺には土下座の遺伝子が組み込まれていて、途中で土下座をやめることなどできなかった。土下座は俺の武器であると同時に、アイデンティティでもあるのだ。土下座を途中放棄したら、俺は俺でなくなる。土下座は俺の人生であり、土下座を途中で投げ出したら、俺は自己否定をしてしまうだろう。
土下座の姿勢のまま、俺はそんなことを考えていた。
――突然、明るくなった。
マルーン博士が戻ってきてくれたのだろうか?
「あの、どうしたんですか? 気分でも悪いんですか?」
誰かの声が聞こえる。日本語だ。マルーン博士の声じゃない。いったい誰だ?
「あの、顔を上げてください」
俺は土下座をやめて、顔を上げた。「顔を上げてください」という言葉は、土下座人間にとって最もウレシイ言葉だ。それはつまり、「もうお前のことは許したから、土下座をやめて良いぞ」という合図だからだ。
俺は土下座をやめさせてくれた恩人の顔を拝んだ。
――そこには、一匹のドラゴンがいた。
ドラゴンにも、土下座は通用するだろうか? 俺はそんなことを考えながら、これは夢であってくれと願った。
……続く。