◆最終話◆
最終話です。
おそらく、いままで全話を読み重ねて下さった方と、飛び飛びで読んで下さった方は、全く感じるものが違うかもしれません。
ラストの感じ方は、優子の積み重ねた生活を知る分量に比例いたします。たぶん……
病院へ戻った忍の怪我は、順調に快復した。
忍が子供を助けた火災現場の家は、シノテックの子会社の幹部社員宅だった。
忍の高額な治療費は、彼が救った子供の親が全面的に負担する事になり、二度の形成手術が無事行われた。
そして、三度目は今までの術後の傷を消す手術だったそうだ。
篠山の父親が何かをしたか誰にも判らないし、篠山も何も言わない。
ただ、深謝の意を表す為に一度だけ顔を出したきりの両親が、急に息子の命の恩人を敬い出したのは確かだ。
治療の経過の合間を縫う様に、忍は春休みの学校へ通って補習を受けた。
出席日数はギリギリだったようだが、こんな時、日頃の成績がモノをいうらしい。
ほとんどの生徒が新しいクラスに馴染んだ4月の終わり、忍はみんなに遅れて新学期を迎える。
彼は新しい携帯電話を持つと、真っ先に優子にメルアドと番号を教えた。
優子は彼の識別着メロに、トトロの挿入歌『さんぽ』を選んだ。
ずっと『歩こうマーチ』とか勝手に名前を付けていたが、少し前に一葉が無料着メロサイトからダウンロードしてくれてよこしたのだ。
「歩こうマーチって名前じゃないんだね」
「そうらしい……」
一葉も優子につられて、勝手な名前で覚えていた。
忍が進級して初登校した朝、優子は後ろから彼を見ていた。
彼がその日から登校すると判っていたから早めに家を出たら、同じ電車だったのだ。
しかし、彼女は忍に声をかけなかった。
校庭の端に植えられた小さな桜並木は満開で、風に舞う花びらが何処か果敢なく優子の目には映った。
忍の左の眉はまだ少し無くて、左右の長さを調整して眉ペンシルで描いていた。
一部の髪は焦げて無くなったが、頭皮は火傷していなかったので、綺麗に短くカットしてそろえると、なかなか見栄えがイイ。
短髪にすると、綺麗に通った鼻筋が際立つ。
頬には微かに傷跡が残っているが、時期それも消えるようだ。
何だか新宿にいそうなホストっぽい。なんて言う連中もいたが、それがまた彼の人気を引き立てた。
傷を負った悲しい過去を持つホスト。そんな哀愁漂うイメージだろうか。
* * *
ゴールデンウイークも過ぎ去って、三年生最初の中間考査が始まる頃、抜けるような青空に吹く風は、もう充分に初夏の香りがした。
連休後に始まった高校総体に沸き立つ中で、忍は完全に学校へ溶け込み、部活最後の大会でスターティングメンバーとして試合に出場した。
何事も無かったかのよに、彼のまわりには他校の女子が群れを成す。
――遠い……あの人は遠くにいる。きっとコレが正確な距離なんだよ。
試合会場の片隅で、優子はゲルマニュウム灯の淡い光源を見上げる。
時間は確実に流れて、高校生活の新しいページは捲られた。
「優子、最近高森と全然会ってないんじゃないの?」
帰りの駅で、一葉が言った。
里香は失恋一ヶ月で新しい男を見つけ、ゴールデンウイークは幸せ満開だった。
「うん……なんかさ、やっぱクラスが違うと距離は離れるのかな……」
優子は少し伸ばして明るく染め直した髪をかき上げる。
三年生になった優子は、忍とは別のクラスになった。
安西とも離れて、彼女とはもう全く会話を交わす機会はない。
篠山は相変わらずで、クラスが違っても廊下で会うと声をかけてくるが……
暫く前まで一緒に過ごした連中も少しずつ距離は離れて、別々の時間を過ごす事が当たり前になった。
強風に煽られて制止したゴンドラの匂いも、寒空の下で観た花火の果敢なげな彩りも
ハーレーで走り抜けたレイブリの降り注ぐイルミネーションも……
今は蒼い虚空の果てに霞む、幻想的な白い月のようだ。
それでも一葉との仲は、まったく変わらない。
再びクラスも同じになった。
――やっぱり、教室が同じっていうのは特別なんだ……何時も同じ空気を共有する事は、何にも変えられない貴重な事なんだ。
最近優子はそんな事を思う。
自分から忍にキスをした時に、彼への思いは完結したのかもしれない。
もちろん入院中は何度も見舞いに行ったが、退院してからは逆に一緒にいる時間は減っていった。
忍は部活にも復帰し、ペースを戻すのに大変そうだった。
光る汗を迸らせて自分を取り戻そうとしている彼に、優子はあえて近づかなかった。
彼の邪魔にはなりたくなかった……
限られた高校生活の時間は、瞬く間に進化を遂げる。
そして、人の縁というのは必ずしも明確な境界線が在るとは限らない。
同調して交わって、もう離れられないと思っていても、気付いたら何時の間にか遠く手の届かない場所へ離れている場合もある。
「まぁ、春は別れの季節って言うしね」
一葉はわざとおどけて、でも優しく笑った。
「そうなの?」
「前に、そんな歌なかった?」
「しらなぁい」
なんだかわけも判らず、二人同時に声を出して笑う。
どうでもよかった。
どうでもいい事に頭を使って、笑いたかった。
そうしないと、何時でも心は萎れて泪が零れそうだった。
「ねえ、どっかでお茶して行こうか」
電車に乗り込んだ時、一葉が言った。
二人は隣の駅にあるミスドに寄り道して時間を費やす。
定期を持っているから、途中何処で何度乗降を繰り返しても平気なのだ。
目先の持て余す時間はいくらでもあった。
「優子は進路どうするの?」
「映画の字幕とかやりたい」
「あんた、英語全然ダメじゃん」
「やっぱ、ダメかぁ……」
優子は想像できた彼女のリアクションに苦笑した。
「でもあんた、意外と奇跡とか起こせる素質があるのかもね」
一葉は少し真面目な顔で言うと、ショコラドーナツを片手に笑いを零す。
――なんだよ、奇跡って……高森忍か?
「じゃあ、一葉は? どうすんの?」
「あたしは……どうしようかなぁ」
一葉は窓の外を遠く見つめた。
そんな現実的な会話が、どこか仕方なしに口から出てしまう時期に入っていた。
再び電車に乗って帰路につくと、先に降りる優子に一葉は何時ものありふれた風景に囲まれて手を振る。
「じゃあね」
何時ものありふれた笑顔だ。
でもそれは、いかにも穏やかな日常を象徴するものに他ならない。
優子も何時もと変わらない、ありふれた笑顔を返す。
時間は通り過ぎるものなのか……それとも訪れるものなのか。
今の時間を貴重だと……だったと、彼女たちが感じるのはまだまだ先の事だろう。
今はただ、次々に迫り来る時間の波を掻い潜るのが精一杯だ。
時にはぶつかって溺れかける事もあるけれど……
夕陽が紅色に雲を染め上げて、それが街並全てを淡く照らしていた。
走り去る電車を振り返らずに、優子は駅のくすんだ階段に右脚を乗せる。
琥珀色に染まる暖かい風は、プラットホームを吹き抜けて優子の後ろ髪を揺らすと、そのまま遠くへ飛んでいった。
電車のノイズが遠ざかると、辺りには人波の残像とごく僅かな雑踏だけが残っていた。
優子はふと気付く。
カバンに入れたままの携帯電話が、お気に入りの曲を奏でいることに……
―END―
最後まで読んでくださった方に、大変感謝いたします。
かなりコメディー色の強い前半で喰い付いた読者の方は、思わぬ暗い展開に驚いて離れてしまったかもしれません(苦笑。
コレはラブコメではありません。
ただ、個人に降りかかる苦悩の分量を、上手く書けたか自信はありません。
後半は次第に描写文が増えて、慌てて減らしたりする事も、しばしば(苦笑。
中盤、安西の家庭やその他について、あえて深入りしない部分もありました。
とにかく、少しでも覗いていただいた方、最初から最後まで読んでくださった方々全てに感謝いたします。
有難う御座いました。
tokujirou