◆第84話◆
久しぶりに雨が降った。
天気予報では雪に変わりそうだと言っていたが、結局雨のままだった。
凍えそうな大氣から零れ落ちる雨は、氷のように透き通って全てを冷たく呑み込む。
次の日、陽が暮れる頃、優子は久しぶりに佐助を連れて散歩に出た。
前日の雨に濡れて部活をした為か、直樹が熱を出して寝込んでいる為だ。
雨上がりの冷えた路面を、佐助は力強く蹴って爪音を響かせる。
――相変わらずよく走るよ。犬が寒さに強いってのはホントだね。
優子はダウンジャケットに身を包んで犬を追いかけた。
直樹とはどのコースを歩くのか知らないが、優子と佐助は以前と変わりないコースを通った。
佐助はリードを持った相手で、自分が歩くコースを見分けて自然にそちらへ行くらしい。
前日から降り続いた雨が上がったばかりの空はまだ雲がひしめいて、その隙間から微かに月のシルエットが覗いていた。
ぼんやりと浮かぶ銀色の月の上を、薄雲が流れていた。
ぐるりと路地を廻ると、以前高森の住んでいた家の前を通る。
大きな敷地は暗闇に紛れてひっそりと潜むように沈黙していた。
街路灯の明かりを浴びた檜の大きな門扉は、何だかずいぶん古くなった気がした。
――こんなにボロかった? 家も、主を失うと急に古臭くなるのかな……
優子は立ち止まって門柱を見上げた。
佐助が先へ行こうとするので、彼女も再び歩き出す。
先にある公園の中で、優子はポケットから犬用ジャーキーを数本取り出して佐助に食べさせた。
一本を3等分して少しずつ与える。
佐助は指先で摘んだジャーキーを咥える時も、ゼッタイに人の指を噛んだりしない。
正確に言えば、あま噛みして探りながら巧みにジャーキーだけを口にするのだ。
だから、どんな持ち方でおやつを与えても、人を傷つける事はない。
何時だったか、優子がまだ小さい頃、佐助は彼女が指で摘んで差し出したビスケットを咥える時、誤って彼女の指ごと齧ってしまった。
小学生だった優子は痛みと驚きで泣き出した。
佐助は慌てて口を離したが、優子の泣き声は止まらなかった。
血が出るほど噛んだわけではなかったが、鋭い犬歯が当たった恐怖と確かな痛みでとにかく驚いたのだ。
襲われると思ったかもしれない。
佐助は困ったような、申し訳ないような表情で尾をダラリとさせて、彼女の膝の周りをウロウロした。
優子の泣き声に、何時ものん気な母親も足早に縁側へ来た。
「どうしたの? 優子」
「佐助が噛んだぁ」
鼻水を流して優子は泣き叫んだ。
母親は優子が怪我をしていないか確認すると
「佐助は間違っただけだよ。優子に噛み付くはずないじゃない」
彼女の足元にビスケットが落ちていたのを見て、母親はだいたいの状況は予想がついた。
自分も時々間違ってガブリとやられる。
母親は何も言わないから、佐助は自分の失態に気付かなかったのだ。
しかし、それ以来佐助は人の指と食べ物をしっかりと探りながら噛むようになった。
もともと仔犬をあま噛みで運ぶ犬は、かなりの微調整ができる。
人差し指と中指の間に隠すように挟み込んだジャーキーも、佐助は巧みに舌先なども駆使しながら指を傷つける事無く上手に掠め取ってゆく。
優子はジャーキーを与え終わると、最近ホームセンターのペット用品売り場で見つけたペット用スポーツドリンクを取り出して、佐助に与えた。
耳をペタリと寝かせて飲む。
もちろん走ったから喉が渇いているのだろうが、彼が耳を寝せるのは美味い物にありついた証拠だ。
――そんなに美味しいの? これ。
優子は佐助の頭をグルグルと撫でる。耳がピクピクと動いた。
久しぶりの一緒の散歩だから、今日は大サービスだ。
「そろそろ行こうか」
優子の声で、佐助は再び目的を思い出したかのように歩き出す。
彼女は一度だけ振り返って、公園の植木の向こうに見える闇を見つめた。
雨に濡れた雑草の露が、街灯に照らされて微かに白い光を放っていた。
「ああ、疲れたぁ」
散歩を終えた優子は、佐助に餌と水を与えてリビングへ戻った。
「どうしたの、優子。その格好……」
「はあ?」
母親がマジマジと見るので、彼女はその視線を辿るように自分を眺める。
「なんだ、最近はそんな模様が流行ってるのか?」
父親が笑ってお茶を啜った。
優子が履いていたグレーのジャージと上に着た白いダウンには、右半分の肩から足首にかけて、見事なほど綺麗に点線が描かれている。
まるで、ここで切ってください。という感じの切り取り線のようだ。
――うわっ、なにコレ?
「佐助にやられたわね」
母親は、以前雨上がりの散歩に出かけて同じ模様を付けられて帰ってきた直樹を知っていた。
「こうなるって知ってたら、行く前に行ってよ」
ふと髪を触ると、小さな土の塊が指に触れた。
全然気付かなかったが、泥跳ねは髪の毛まで飛んでいた。
犬の跳ね上げた雨上がりの細かい泥水を、後ろを行く優子は全部受けていたのだ。
彼女は愕然として息をつくと
「お母さん、タオル!」
急いでダウンの汚れを濡れタオルで拭き始めた。