◆第82話◆
――はぁ……ついてない。まるで昔のあたしだ……ていうか、昔の自分て何? 昔も今も、あたしはあたしじゃん……
優子は渋々立ち上がって一番手前の自転車に手をかけた。
――痛っ……脚いたい……
自転車にぶつけた脚が痛んだ。
改めて車輪の群れを見つめる。
――こんなにイッパイ直せないよ……ていうか、ひとつはあたしの責任だけど残りはこの自転車の責任よね。ちゃんとスタンドがロックして無かったのが悪いんだよ。
優子はとりあえずひとつ目の自転車だけ引き起こした。
――このまま帰ろうか……超面倒じゃん。普通こんなにイッパイ一気に倒れるか? ありえないよ。ぜったいあたしのせいじゃない……
「大丈夫かい?」
突然直ぐ横で声がした。
優子が慌てて振り返ると、男が一人、隣の自転車に手をかけた。
雪が足音と気配を消したらしい。直ぐ横に来るまで全然気付かなかった。
「あっ……はい……」
優子は苦笑いを浮かべて男を見た。
高校生とかではない。
大学生……いや、そうとは限らないが二十歳前後くらいだろう。
何だか判らないが、そんな大人の香がほんのりと漂っていた。
男は笑顔のまま次々に手際よく自転車を起こしてゆく。そんな彼の姿を見た優子も、慌てて他の自転車を起こし始めた。
「コレで最後だ」
男はそう言って、最後尾で倒れていた自転車を引き起こす。
「しかし、派手に倒したね」
「す、すいません……」
優子は小さく縮こまって首をうな垂れる。
「でも、偉いよ。普通逃げるぜ。こんなに倒しちゃったらさ」
――逃げようか考えてたらあんたが現れたんだよ……
「いえ……はあ……」
彼女の方は言葉が出ない。
「しかし、よく降るなあ。今日は」
男は駐輪場の庇から空を見上げると
「キミ、入院中の彼を見舞いに来た娘だろ?」
優子はハッと顔を上げて男を見つめる。
「お医者さん、ですか?」
彼は声を出して笑った。何だかずいぶんあっけらかんと笑う男だと、優子は思った。
「いや、違うよ。僕は大学のボランティアサークルで、ちょくちょくこの病院へ来るんだ」
「ボランティア? ですか」
「ああ。身障者の子供や、小児ガンの子供に紙芝居や人形劇をみせたり、話し相手になってあげたり」
――こんな若いのに、そんな人いるんだ……
「キミ、先週も見かけたからさ……もっとも、先週は入り口で帰ってたよね」
優子はどう応えていいのか判らずに、降り注ぐ雪を見つめた。
「僕は、杉原一真。よろしく」
――宜しくって言われたって……何をよろしくなの?
杉原は笑って優子を見ると「君の名前は?」
「あ、あたしは、五十嵐優子です」
「あの彼は、顔中包帯巻いてたね」
「見た事あるんですか?」
「ああ、何度かね。治療室でもチラリと姿を見たけど、酷い火傷だね」
「ええ……火事場で子供を助けたんです。でも、自分は焼け落ちた残骸の下敷きになって……」
優子は俯いて、白い地面についた自分の足跡を眺めた。
「そうか……偉いんだな」
杉原は優しく微笑んだ。
「あの怪我……治るんでしょうか……」
優子は思わず第三者である杉原という男に助言を求める。
「整形手術が必要かもね。それに、火傷の治療はかなり辛いって聞いたことあるな」
「辛い……んですか?」
「焼けた皮膚をたわしみたいな物で擦って落とすんだ。新鮮な皮膚が再生し易いようにね」
「たわしで擦る? 患部を?」
「酷い激痛に耐えなきゃいけない……」
彼はそう言ってから、優子を見下ろして
「でも、彼なら大丈夫だろうね。勇敢なんだろ?」
「だといいんだけど……」
その時、離れた場所から声が聞こえた。
「一真、行くぞ。どうしたんだ?」
大学サークルとやらの仲間らしき連中が、駐車場の出口付近で車を停めていた。
杉原は振り返って「ああ、今行く」
優子の肩をポンと叩いた。
「また会うかもしれないね。じゃあ」
彼はそう言って雪の中を軽快に走ると、駐車場の出口に止まっていたミニバンに乗り込んだ。
優子は舟越に借りた傘を玄関の傘立てに置きっぱなしにしていた事を思い出して、慌てて駆け出した。
優子が帰宅すると、弟の直樹も既に帰っていた。台所からはもう直ぐ出来上がる夕飯の匂いがしている。
彼女は二階へ上がると、直樹の部屋のドアを叩く。
優子が彼の部屋に入ると、直樹はチョコレートを口にしていた。舞衣に貰った物だろう。
「あんた、夕ご飯前に食べて大丈夫なの?」
「だ、大丈夫だよ。全部いっぺんには食わないから」
優子は彼に近寄ると大きな包みを渡した。
「何だよ……?」直樹が訝しげに訊く。
彼にも包みの中身は何かが想像はついたが、どう考えても弟用にしては大きさがおかしかった。
「あんたにあげるよ」
優子は座っている直樹の足元に包みを置くと、何も言わずに部屋を出た。
次回◆第82,5話◆
久しぶりに一葉の言葉で綴るお話です。