◆第81話◆
白い床と壁は寒々と続いていた。
優子は形成外科病棟の階段をゆっくり上がって行った。
エレベーターであっと言う間にそこへ到達する事が怖かった。
ナースステーションの横を通り過ぎてすぐの四人部屋。高森忍は1週間前、一人部屋からそこへ移ったのだ。
一人部屋と違ってドアが開放された四人部屋は、入り易いと思った。
しかし、優子は病室の手前で立ち止まったまま、そこから先に行けない。
看護師の足音がパタパタと横を通り過ぎてゆく。
息を呑んで足を踏み出した。
頭だけを病室に入れて中を覗き込む。四人部屋といっても使っているベッドは二つらしいのは先週来た時と変わらなかった。
手前の二つは空きベッドになったままで、その奥に年配の男性が見えた。
彼女は以前にも一度ここまで足を運んでいる。
しかし、その時はこの場所で引き返しているのだ。
奥のベッドに身体を起こしていた男が、優子の気配に気付いて軽い会釈をくれたので、彼女も慌てて頭を下げた。
問題は、もうひとつのベッドだ。周囲をカーテンが囲んでいた。
優子はゆっくりと病室に入ると、閉ざされたベッドへ近づいた。
カーテン越しにベッドサイドに立つ。
「た……高森……」
少しの沈黙があった。
「優子か?」
近づく気配を感じていたのか、彼は静かに応える。
「うん……」
「来なくていいって伝えたけど、聞いてない?」
冷たく刺々しい声だった。
優子は忍の容態の経過を舞衣に訊いた時、当分病院には来ないで欲しいと言う彼の言葉も一緒に聞いていた。
だから、以前の病室から数えて病院にも病室の前にも何度か来たが、結局途中で引き返しているので、忍と言葉を交わすのは彼が入院してから初めてになる。
「聞いてたけど……来ちゃったよ。気になってさ……」
「気にしなくていいよ。」
忍はサラリと言った。
「気にするよ……」
優子は小さい声で呟くように言った。
「ねえ、カーテン開けてくれない?」
出来るだけ笑顔の声を無理に発する。
再び沈黙があった。
「……それは出来ない」
「ど、どうして?」
「どうしても……」
優子はもう何を話していいのか判らなくなっていた。
「お花買ってきたよ。外は雪でさ。超寒かったよ」
「じゃあ、早く帰ったほうがいい」
「……そ、そういうつもりじゃ……」
優子は一瞬俯いた顔をあげると、ベッドサイドの棚に置かれた花瓶を掴んで
「お花替えてくるね」
花瓶に水を入れながら、優子は小さな溜息をついた。
――やっぱり来ない方がよかったのかな……ダメダメ、せっかく来たんだからちゃんと対面しなくちゃ。
優子は再び病室に入ると、花を生けた花瓶をベッドサイドの棚に置いた。
自分のカバンの中に手を入れて、リボンのかかった包みに触れる。
――と、とりあえず渡さなきゃ……
「優子……」
「な、なに?」
「俺の顔が見たいか?」
「う、うん。見たい……かな」
「ほんとうに?」
「う、うん。もちろん……」
忍は勢いをつけてカーテンを開けた。
上から注ぐ蛍光灯の明かりに、彼の姿はぽっかりと、しかしはっきりと浮かんでいた。
しかし優子は彼の顔を見て、思わず後にたじろいでしまう。
――し、しまった……反射的に驚いてしまった……そんなつもりじゃないのに……
忍は、顔の包帯を半分以上はほどいていた。
ほどいた長い包帯が、彼の身体を伝うように膝元へ零れている。
左の眉も、睫毛も無かった……もちろん左半分は髪の毛も無い。
そして、頬が赤い牛肉のように光沢を発していた。
怖くはなかった……しかし、優子は思わず両手を口に当てて、後へ下がってしまったのだ。
持っていたスクールバッグが落ちて床に音を立てた。
想像以上の怪我の酷さに驚いたのだ。
忍は直ぐにカーテンを閉めると吐き捨てるように
「帰ってくれ……」
「ご、ごめん……ちょっと驚いただけだよ。べつに……」
「別に、なんだ?」
優子は言葉を呑み込んだ。
――こんなんじゃ、チョコ食べられないじゃん……
「別に怖くないって? 気持ち悪くないって、言いたいんだろ?」
カーテン越しの向こう側が、彼女には遠く感じた。
「そ、そんな……そんな事思ってないよ」
「帰れっ!」
「高森……」
優子はカーテンに手を触れた。
「帰れ! もう来るなっ!」
彼女はビクリと身体を震わせて、カーテンから手を放した。
忍が怒鳴ったのを初めて聞いた気がした。
怖かったわけじゃない……なのに、優子の瞳からは何故か涙が零れ落ちた。
忍に気付かれないように、優子はカーテンから少し下がって口を塞いだ。
落ちたカバンをそっと拾い上げる。
白い床に、沈黙した雫が滴り落ちた。
「もう、来ない方がいいよ」
忍は何時もの落ち着いた声で言った。
それが逆に優子には決定的な言葉に聞こえて、気づいた時には階段を駆け下りていた。
大きなロビーを駆け抜けて正面玄関からイッキに外へ出ると、駐輪場の庇の中に入って立ち止る。
外は再び降り出した雪で、真っ白に染まっていた。
陽射しのない夕暮れは夜のように暗く、雪山のように全ての景色は荒涼として蔭っている。
音もなく降り注ぐ雪は、雪女の呪いに呑み込まれたかのように全てを覆い尽くして沈黙させた。
――あたしの心みたいだ……
優子は透明なアクリルの屋根越しに空を見上げる。
しかし、大半は積もった雪で屋根は覆われて、まるで雪崩に埋もれた遭難者のような気分だった。
――やっぱり来るんじゃなかった……
カバンの開いた口から手をいれて、リボンのかかったチョコレートを掴む。
優子は大きな溜息と共に、手前の自転車に寄りかかる。か……
何だか安定が悪かったのか、その自転車は彼女の体重に負けて奥側に向って倒れた。
――うわっ、なんだ、なんだ? ナニナニ、何で?
優子は慌てて自転車を押さえようとするが間に合わなかった。
既に体重は後方にかかりきって、持ち直す事はできない。
こんな暗たんとした気分の中で、俊敏な行動が取れるわけも無い。
自転車は奥の自転車をなぎ倒すように倒れた。
すると、その隣の自転車も倒れる。
――ぎぇっ、ヤバイ! ダメダメ、とまってっ!
自転車はみるみる将棋倒しに隣の自転車に折り重なった。
ドミノ崩しのように連鎖の波を広げると、10数メートルある駐輪場に並んだ自転車は見事なくらい全て倒れた。
――ありえない……なんでだよ……もう……
優子は最初に倒れた自転車の上にひっくり返ったまま、横たわる車輪の群れを眺めていた。