◆第79話◆
周囲の景色が、優子には明るく見えていた。
さっきまでの暗たんとした闇に燈る無機質な街路灯も、何だか湾岸に咲くイルミネーションに見える。
「篠山、バイク乗ってたんだ」
「まあ、今時はね」
篠山はそう言って
「親の金だけどな」予備のヘルメットを優子に差し出しす。
「これ、跨ぐの?」
「バイクだからな」
「パンツ見えちゃうじゃん」
「夜だから平気だろ」
「お抱え運転手とか、いないの?」
「なんだよそれ。そんなのいないよ。テレビの見過ぎだって」
篠山は笑って優子を後へ促す。
「安西は?」
「はあ?」
「安西はこの事知ってる?」
「なんで今、安西なんだよ」
優子は一端跨ったバイクを降りた。
篠山は苦笑して「アイツも知ってるよ。言ってきたから」
篠山との事でまで、安西とイガミ合いたくは無い。それ以前に、今の優子には彼女とイガミ合う気力も根性もないのだ。
彼の返事を聞いて、優子はハーレーの小さなシートを再び跨いだ。
「ていうか、このヘルメット……安全第一て書いて在るんだけど……」
優子は手に掴んだ黄色いヘルメットを眺める。
「安全なんだろ」
篠山が振り返る。
「違うでしょ。これってドカヘルじゃん。工事現場のオヤジが被るやつじゃん」
「そうなの? どうりで安いと思った」
そう言って笑う篠山の頭に優子は手を伸ばした。
「それと交換してよ」
「しょうがないな……」
彼は渋々自分のジェットヘルを優子の頭に被せると、自分がドカヘルを被った。
「当たり前じゃん。普通乙女にドカヘル被らせないよ」
優子はぶつぶつと呟くと「なんか寒そう……」
篠山の腰を掴んだ。
「だから、寒いって。ていうか俺、その寒い中往復なんですけど」
「いいじゃん、たまにはさ」
優子は笑って彼の背中を軽く二回叩いた。
古い革の匂いが叩いた数だけ彼女の鼻孔に届いた。
篠山は肩をすくめてバイクをスタートさせると、歩道から降りて反対側の車線にUターンした。
加速すると、冷たい風が頬を叩く。
優子はその冷たい風が、何だか楽しく感じた。
果てしない距離に見えた道路をあっと言う間に駆け抜けて、遠くに見えた水銀灯の淡い光が後へ飛んで行った。
「寒いっ!」
「バイクは風と一帯になる乗り物だからな」
「このバイク、うるさすぎ!」
「ハーレーはこういうもんなんだよ」
交差点を曲がって大通りを走ると、高層ビルの谷間を抜ける。
優子は、まだ明かりの燈るビル郡を見上げた。
「なんかさぁ」
「あぁ?」バイクの爆音で聞き取れない。
「なんかさぁ!」
「なんだよ」
「地面から眺めるビルって、いいよね」
「はあ?」
篠山は少しだけ振り向きながら、アクセルを開けた。
レイブリの連なる照明の下を駆け抜けると、寒さを忘れるほど清々しくて優子は夜空に視線を巡らせる。
右手に東京タワーが煌々と聳えていた。
「篠山、東京タワーだよ」
「別に、珍しくないだろ」
「そういう問題じゃないの!」
優子は少し前かがみになると「ゆっくり行こうね」
「俺は安全運転だから大丈夫だよ」
優子は彼から身体を離すと「ウソばっか」
周囲を走る車との仕切りは無い。
360度の有視界は、光と音を一体化させた。
星は見えないけれど、溢れる光の中で彼女は晴れやかに上空を見つめる。
聳える橋の支柱にゆっくりと点滅する航空警告灯が、幻想的に紅い光を放って優子の瞳に滲んだ。