◆第76話◆
「カバン、後に置いて大丈夫だよ」
車が走り出すと、中村が言った。
「あ、大丈夫です」
優子は警戒が完全に取れず、持ち物を手放す気にはなれなかった。
「免許、何時取ったんですか?」
「俺は5月生まれだから、取ってからずいぶん経つよ。夏休みも友達と車で出かけたしね」
優子は話しを聞きながら車内を見渡す。
タン色のスウェード張りのダッシュボードなんて、国産車ではありえない事だ。
「寒くない? ヒーター強くする?」
「あ、大丈夫です」
国道の景色が低い視線で流れてゆく。
何だか不思議な光景だった。
だいたい、走る車の右側に乗っている事自体、妙な気分だ。
「これ、先輩の車なんですか?」
「まあ、一応、オヤジと共用って事になってるけどね」
――何が共用だよ。お金なんて払ってないくせに。
「そ、そうなんですか……」
優子は彼に気付かれないように苦笑する。
甲州街道に出て車線が広くなると、微かに加速Gを感じた。
背中で甲高い独特の乾いた音が唸る。
少し行くと、前方は急に空になった。高速のランプに上がったのだ。
――えっ? ど、何処に連れてくの? 何処行くの?
「あ、あの……どうして高速に乗るんですか?」
「お台場行こうよ。高速の方が速い」
優子は中村の横顔を見る。
合流車線で車は再び加速して、本線に入ると同時に前方の車を追い越した。
「ほ、本当にお台場?」
「ああ」
中村は口角を上げると「それとも、他に行きたい所ある?」
「い、いえ、別に……」
優子はシートバックに背中を着けて、フロントガラスに見える景色を眺めた。
ビルの中腹を潜り抜ける光景は、地上の風景とは違っていた。
高い建物が近くに見えて、蒼い空は小さく見えた。
特に話す事なんて無いし、何を話せばいいのかも判らない。
「静かだね」
中村がチラリと視線をくべる。
「高森とは何時から?」
「何時からって?」
「何時から付き合ってるの?」
「いや、だから付き合ってるとか、そんな感じとはちょっと違っていて……」
「じゃあ、付き合ってないの?」
――なんでそこにこだわるんだよ。アンタには関係ないっつうの。
「いや、そういうわけでも……」
優子は困惑して笑みを零す。
東京タワーが左に見えたが、なんだか中村の陰になってよく見れなかった。
浜崎橋ジャンクションを抜けて海沿いに出ると、左前方に大きなアーチが見えた。レインボーブリッジだ。
優子はそれを見て、密かにホッと息をつく。
「ほら、ちゃんとお台場に向ってるだろ?」
「えっ?」
「心配そうな顔してるからさ。さらわれたどうしよう。みたいな」
「そ、そんな事……無いですけど」
芝浦ジャンクションを抜けて橋に入ると、中村は再び加速する。
どんどん加速して車線変更すると、前方の車をごぼう抜きした。
路面に描かれた文字が、読む間も無く車の下に滑り込んでゆく。
優子は異常な加速度に思わずスピードメーターを覗き込むが、目盛りが細かくてよく見えない。
目を凝らすと、針が180キロを越えている。
「ちょっ、ちょっとスピード出し過ぎじゃないですか?」
「怖い?」
――そういう問題じゃないだろ!
「いや、ちょっと怖い」
中村はアクセルを緩めた。
乾いた唸りを上げて、エンジンブレーキが後ろから身体を引っ張る。
「わりぃ、この時間にしては空いてたからつい」
――つい出すようなスピードか?
優子はただ苦笑して見せた。
しかし、ついアクセルを踏めばあっと言う間にそんなスピード領域に飛び込む車なのは事実だ。
直ぐに景色が開けてゲートが見える。
中村が僅かにハンドルを切ると、車はETCのゲートにノーズを向けた。
減速する車を何台か抜き去った。
ゲートがみるみる迫って来る。
――えっ? あのゲートってそんなアクティブに開くの? スターウォーズの自動ドアみたいに瞬時で開くのか?
「あ、あの……あのゲートって、こんなスピードで通れるんですか?」
「さあ……」
中村はあまりも明るく笑った。スピードが今以上に落ちる気配が無い。
スピードメーターは50キロを指してる。
――さあ……。って何? ていうか、みんな凄くスピード落としてるじゃん。こんなスピードでこの場所走ってる車なんて無いじゃん。
優子は中村の横顔と迫り来るゲートを交互に見た。
ピピッと何かの音がした。
「ちょ、ちょっと?」優子が声を出す。
ETCに感応したゲートが開き始める。が、あっと言う間に車の鼻先はその前方まで出ていた。
優子が想像していたよりは速い動きでゲートは上がったが、どう考えても完全に開き切るタイミングではない。
優子は思わず首をすくめる。
首から上を頭ごと刈り取られる思いだった。
頭上でビュウッと音がした。
車高が低い為に、車のルーフはギリギリで開きかけのゲートの下を抜ける。
「ほらっ、抜けられたろ」
中村が声を上げて高らかに笑った。
――こ、こいつ頭おかしいのか?
優子は首をすくめたまま、彼の横顔を恐る恐る見た。
背中の後ろで、再びエンジンが軽やかに唸った。