◆第73話◆
「姉ちゃん、駅前でスゲー火事だぜ」
外から帰って来た直樹が、台所に入って来て優子に声をかけた。
「サイレン凄かったもん。やっぱり近くだったんだ」
「一軒マル焦げ。ていうか骨だけってカンジだね」
直樹はそう言って冷蔵庫からオレンジジュースを取り出すと、グラスにあけて
「この辺まで焦げクサイ臭いがするよ」
「そう言えばそんな臭いがした」
優子はお玉を持ったまま「あんた、わざわざ現場見てきたの?」
「だって、ほんと駅から直ぐ近くだったよ」
「しょうがない野次馬ね」
彼女は弟をチラリと見て肩をすくめた。
直樹はリビングのソファに腰をおろして「ご飯まだでしょ」
「もう少し。あんた、カバン部屋に置いて来な」
「うん……後で」
その時直樹の携帯電話が鳴る。
「おっ、舞衣だ」
直樹はわざと声に出して携帯を開いた。
「まったく……」
優子は溜息混じりでリビングに背を向けると、味噌汁に豆腐を入れた。直樹が舞衣と何を話しているのか、まったく耳に入らなかった。
炊飯器のランプが緑に変わって、ご飯が炊き上がったのが判った。
彼女が後に気配を感じて振り返ると、何時の間にか間近に直樹がいる。
「うわっ、ビックリした……何よ、気配消さないでくれる」
「ね、姉ちゃん……大変だ……」
直樹の顔色は蒼白だった。口から泡でも吹きそうな表情で立っている。
「どうしたの? もしかしていきなり振られた?」
優子の冗談にも彼は反応しない。
「姉ちゃん……」
「な、何よキモイわね。言いたい事あるんならはっきり言いなよ」
直樹は二度続けて息を呑み込んだ。
「高森さんが……」
――なんで……どうして……あたしの生活はもっと平凡だったじゃない。誰にも干渉されず、何も起こらないありふれた日常の繰り返しだったじゃない……
なんでこんなに次々といろんな事が起こるの? どうしてそっとしておいてくれないの……
優子は集中治療室の扉の前で、ドアに爪を立てて首をうな垂れた。
『面会謝絶』その文字が、事の重大さを物語っていた。
優子は忍が運び込まれた救急病院へ、直樹と一緒に来ていた。
「あたしがいけないんだよ。あたしが火事見て行こうなんて言ったから……」
舞衣が自分の両親の前で肩を震わせて泣いていた。
「大丈夫、大丈夫よ……忍君は正義感が強いからね」
母親がそう言って、舞衣の背中を摩った。
「姉ちゃん……いったん戻ろう。治療はまだ大分かかるし、俺たちはここにいても何も出来ないよ」
「うるさい!」
優子は直樹を突き飛ばした。
「姉ちゃん……」
「ごめん……先に帰ってて。少ししたら、あたしも帰るから……」
優子はそう言って、近くの長椅子に腰掛けた。
病院の廊下には、すすり泣く舞衣の声と看護師の足音だけが響いていた。
* * *
擦れた薄雲が、虚空に浮かぶ。
あまりにも澄んだ空は、寒々としていた。
終業式が終わって生徒が教室へ揃うと、担任教師の口から忍の事が告げられる。
「高森は今日から学校へ復帰する予定だったのだが、昨日の夜に大きな怪我を負ってしまった」
担任が生徒を見渡すように言う。
「怪我って?」
誰かが訊いた。
「昨日あった大きな火事は知ってる者もいるかもしれない。取り残された子供を助け出したのは、高森だ」
「スゲーじゃん」
「アイツ、さすがだよ」
「忍くんらしい」
そんな声が教室を満たした。
優子は何も言わずにそれを聞いていた。
――何処が凄いのよ。けっきょく自分は重症で、いったい何が残るの? 人の為に自分を犠牲にまでして……
優子は唇を噛み締めると、耳を塞いだ。
「怪我、酷いんですか?」
質問したのは安西だった。
「かなり酷いらしい……」
担任教師はいたわしい素振りで視線を下げるが、直ぐに顔を上げ
「しかし、命に別状ないそうだ」
ムリに微笑んだ。
「どうして連絡くれなかったの」
安西が言った。
「そうだよ、どうして知らせてくれなかったの?」
一葉も近づいて来た。
ホームルームが終わると、優子の回りに何人かが集まって来た。
「言ってどうなるの……」
「どうなるも何も、こっちにだって知る権利があるわ」
安西が机を叩いた。
「こっちは知りたくなかった。ていうか、そんな知らせなんか来て欲しくなかったよ」
「起きてしまった事をどうこう言っても仕方ないでしょ」
安西の言葉を他所に、優子はカバンを掴むと足早に教室を出て行った。
「琥珀色の風」をお読み頂きありがとうございます。
この作品は、暗さと明るさのギャップが激しいです。
また少し、アップダウンがあります。