◆第72話◆
連日晴天が続く空は、冬凪にさらされたように何処までも澄み渡っていた。
試験休みを含めれば充分長い冬休みも、年が明ければ1週間ほどで終わる。そして明日から始まる3学期は、忍が学校に復帰する日でもある。
忍は直ぐに部活にも復帰すると言うので、優子は彼の弁当作りをかって出た。
――安西なんかに負けてられない。お節なんて作れなくたって、お弁当くらい作れるんだから。
優子は駅前のスーパーに買い物へ行き、ついでに本屋に寄った。
久しぶりの本屋で、彼女はついつい時間を費やしてしまう。ふと顔を上げると、外は暗くなっていた。
――ヤバ、帰らなくちゃ。
慌てるように店を出ると、誰かにぶつかりそうになる。
「あ、すいま……」
優子はその相手を見上げて「舟越……?」
「あぁ、五十嵐か。ビックリした」
「ビックリしたのはこっちだよ。何してるの? こんな所で」
舟越は頭に手を当てると
「いや……高森の居場所を探そうかと……」
――こいつ、まだ探してたの?
「あ、ああ。そうなの……」
――ていうか、高森もかなり外に出歩いてるし、あたしとだって出かけてるのに、それに出くわさない方がおかしくない?
「あ、あのね、舟越……」
優子は何だか舟越が気の毒に思えて、一瞬言葉を呑み込む。
舟越はそんな彼女に気付かず
「このまま高森が出てこなかったら、どうする?」
「はあ?」
「だから、もう二度と彼に会えなかったら……そしたら、俺、待ってるよ」
――いや……待たなくていいから……全然眼中にないから……
「あ、あのね。高森は、明日から学校に来るって」
「連絡あったの?」
舟越は目を丸くして言った。
――散々出かけてるっつうの……
「う、うん。あった。連絡来たよ」
「どこに住んでるって? 家には誰もいなかったぜ」
――家に行ったのかよ……
「あ、なんか、親戚の家に暫くお世話になるって」
「そうか……じゃあ、薗辺って所だなきっと」
――そんな事まで知ってるのに、なんで肝心の事が判んないんだよ……調べ方おかしくない?
「よ、よかったな。じゃあ、俺も安心したよ」
舟越はそう言って、駅の方へ歩き出す。
「あ、舟越」
優子は思わず彼を呼び止めると
「心配してくれて、ありごとうね」
「あ、ああ。いいって」
舟越は店頭の明かりに照らされて頬を紅潮させると「じゃあ」
そう言って、再び足早に歩き出した。
優子は夕飯の仕度とは別に、明日の下ごしらえをする。
――あっ、高森って、嫌いな物あるのかな? 訊いとけばよかったな。
その時、外にサイレンの音が聞こえた。何処か遠くで犬が吼えている。
佐助はサイレンの音に反応しないので安心だが……
優子はフライを揚げながら外の夜気に耳を傾けた。
リビングのテレビの音で最初は気がつかなかったが、しだいにサイレンの数が増えて、しかも何だか近い。
――消防車だ……何だかやたら数が増えてる……近くで火事かな?
そして、救急車やパトカーの音も入り混じって、外はいっそう慌しくなった。
* * *
忍は舞衣のお供で彼女の通う塾へ行って来た。
彼が暫く勉強を見るため、受講する教科を減らしてもらって来たのだ。
駅前の国道を歩いてくると、本屋の向こうの空が紅く染まって真っ黒い煙が立ち昇っているのが見えた。
「すごい……火事じゃない?」
舞衣が言った。
路地に入れない消防車が、本屋の脇に止まっている。風に乗って焦げクサイ臭いがした。
手前の路地を入ったが、ひとつ先の十字路まで行くと燃えている家屋が見えた。
「ちょっと見て行こうよ」
舞衣がそう言って、真っ直ぐ通り過ぎようとする忍を引き止める。
黒々とした煙にオレンジ色の火の粉が、バチバチと音をたてて竜のように紺青へ立ち昇る。
表通りよりも野次馬は少ないが、先には消防車と救急車が停まっていた。
路地から遠巻きに見る野次馬の脇をすり抜けるように、舞衣はどんどん前に進んで行った。
「あんまり近づくと危ないぞ」
先を行く舞衣に忍が声をかける。
そう言いながらも、二人は群がる人垣の方へ歩いた。
全焼は免れない状況だろう。
周囲の消防車は、両隣の家屋に燃え広がらない処置をしているように見えた。
その時野次馬の人波が割れて、救急隊によって担架が運ばれてきた。
呼吸器を着けた婦人が何かを叫んでいる。
「まだ中に……子供が中に……一人いるんです」
救急隊員は「大丈夫です」とだけ言って、彼女を宥める。
もう独り担架で運ばれてきた。
「子供が、まだ下の子がいます。助けてくれ……」
「大丈夫です」救急隊員は同じ言葉の繰り返しだ。
忍は小さな群集を割って前に出た。
消防隊員が慌しく動き回っていて、炎の熱が頬を照りつける。手前にいる警官が野次馬を入れないように、周囲に注意を促していた。
担架が再び運ばれる所で、それが忍の前を通り過ぎる。
薄い毛布で包まれた担架を忍が覗き込むと、どうやら子供らしい事がわかった。
しかし、子供はもう一人いると両親は言っていた。
「もう一人の子供は?」
「ああ?」
救急隊員が言った。
「子供がもう一人いるはずだって」
「判らない。救出したのはこの子で最後だ」
「もう一人子供がいるはずだって」
忍は繰り返した。
「こっちは自分の持ち場で精一杯だ」
その時、二階の柱の一つがガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
警官も振り返って、一瞬固唾を呑む。
「もう一人いるはずなんですけど」
忍は一番近くにいた消防士にも声をかける。
「もう中には入れない」
消防士が放水位置を指示しながら振り返った。
「子供がもう一人いるんですよ」
「無理な物はムリだ。もう倒壊寸前だ」
警官が近づいて身を乗り出す忍を制したが、彼はその制止を振り切って消防士へ近づく。
「忍くん。やめて、危ないよ」
舞衣が後ろで叫んだ。
「危ないから下がりなさい」
消防士が言った「ベストはつくしている」
炎の熱が、全身を照りつけた。
四方から放水する飛沫が跳ね返り、忍の身体を濡らした。
既に家屋は二階建てに満たないものへと化している。
しかし、彼の耳には何かが聞こえた。業火の吠えるような音に混じって、確かに聞こえたのだ。
忍は僅かに家屋に近づいた。
「声が聞こえました」
「あ?」消防士は消火の指示に忙しい中で応える。
「キミ、危ないから下がりなさい」
警官が再び近づいてくる。
「中にいますよ」忍は必死で訴えた。
「無理だ。もう手遅れなんだ」
消防士も彼を野次馬の人垣に押し戻そうとするが、忍はわざと消火放水の飛沫を浴びた。
「やめろ、下がれ。何を考えてる」
忍は家屋に向って後ずさりする「声が聞こえたんだ」
ひとつ息をつくと、彼は狂った業火の中へ向って一気に走り込んで行った。
「停まれ、やめるんだ!」
消防士が叫んだ。
彼を捕まえようとした消防士と警官の手が、上着に掠って同時に空を掴んだ。
――から揚げと、白身フライとハンバーグと……卵焼きは必須だよね。
あんまり多いと、部活で走るしなぁ……
優子は明日の朝使う弁当箱を取り出してレイアウトを思い描き、幸せそうな笑みを零した。