◆第69話◆
住宅街の時間は止まっていた。
いや、優子は今まで止まっていた自分の時間が動き出すのを感じた。だから、周囲の時間が止まってるように感じたのだろう。
それと同時に、胸の奥から熱い何かが沸き立ち、溢れてきた。
しかし彼女の足は前に踏み出せない。
黒い影がゆっくり近づいてくる。
「姉貴、貸しだぜ」
小さくそう囁いた直樹は静かに後ずさりして、路地を曲がった陰に消えた。
「こ、こんな所にいたの?」
やっと言えた言葉だった。
――どうして、どうしてこんな近くにいて、教えてくれなかったの?
言いたかった言葉が溢れて、喉元で渋滞を起こしていた。
「ああ……ちょっと家がごたごたしてたから。連絡取れなくてごめん」
忍の笑顔は変わらなかった。
自分の誕生日の夜に見た、あの笑顔。
それまでも何度も見てきた、ムカつくほど綺麗で優しい笑顔だった。
優子は何も訊けないまま、立ち竦んでいた。
心の奥から湧き出たような熱い涙が、頬を伝うのだけは判った。
――恥ずかしい……人前で泣いた事なんて、小学校の時にプールで転んで頭から血を吹いた時以来無いのに……
優子は無言で頬に伝う涙を右手で拭った。
忍は自分の手を差し出すと、彼女の左頬の雫を拭う。
――飛び込んでいいの? 彼の胸に飛び込むんだよね、こんな時って。
しかし優子の足は動かなかった。
ただ、黙って彼に頬を撫でられた。
「よかった……無事で……」呟くように優子は言った。
「ごめん、心配かけたね」
「ハワイに行ったのかと思った……」
「ハワイ?」
「ううん、何でもない」
優子は大きく首を振って、涙目のまま笑った。
「期末試験は?」
「昨日、受けてきたよ」
忍はそう言って髪をかき上げると「さすがに今回の1番は安西かな」
二人は街路灯の在るところまで歩くと、並んで塀に寄りかかっていた。
お互いに顔をよく見たいという気持ちに変わりは無かった。
「じゃあ、明日の終業式は来る?」
「それはちょっと……」
「どうして?」
「まだ、ちょっとね。でも、冬休み開けには学校へ行くよ」
「そう……」
優子は少し俯いた。
それを見た忍は「デートは出来るよ。イヴは出かけよう」
「ほんと?」
「行き場所決めた?」
「何処でもいいよ。丸井の屋上でも」
優子は真剣に言ったつもりだったが、それを聞いた忍が笑い出して、彼女もつられて笑った。
冷たい空気は苦にならなくなっていた。たぶん心の中が火照ったせいだ。
「お父さんは?」
優子は落ち着いて、やっとまともな事を訊く。
忍は小さく首を振ると
「わかんないよ。俺の方が先に家を出た。後の事はわかんない」
彼は空を仰いだ。
「でも、心配するなって言ってた。だから、大丈夫だと思うよ」
「そうなんだ……」
優子は眉を潜めて再び俯いた。
「お前が落ち込む事ないだろ」
「でも……」
「俺はオヤジと離れる事も、あの家から出る事も何とも思ってないよ。母さんと離れる事もね」
忍は優子に気を使うように明るく笑って見せた。
「暫くはここで厄介になるよ。舞衣に勉強も教えられるしね」
そう言って、舞衣の家の塀を見上げる。
弱い風が辺りを通り過ぎてゆく。
優子は小さく肩をすくめた。
「寒くない?」
「うん、平気。でも……直樹のやつ、何も言わずにいきなり引っ張ってくるからマフラー忘れた……」
彼女の不平な呟きに、忍は再び笑った。
優子は今のこの瞬間が夢では無い事を祈った。
少しでも長く、時間がゆっくり過ぎればいいと願った。
三日月の囁くような明かりと星の瞬きが、今夜は彼女の為にほんの少しだけ時間を止めてくれるような気がした。
「琥珀色の風」をお読み頂き、有難うございます。
現在、春企画参加作品「放課後のプリズム」を連載中です!
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