◆第7話◆
「おい、姉貴……何時まで豆腐もったままボーっとしてんだ?」
夕食時、直樹が言った。
優子が味噌汁に入っていた豆腐を箸の上に乗せたきりピクリともせずに、正面とも天井ともつかない何処かを見つめていたからだ。
優子は直樹に言われて慌てるようにその小さな豆腐の欠片を口へ運び込む。
「どうした、体調でも悪いのか?」
母親の杏子と話していた父親が、直樹の声に彼女を見た。
「えっ? べ、別に」
「姉ちゃんが体調悪いなんて無いよ。きっと頭の具合が……」
そこで直樹の後頭部は優子の手で叩かれた。
「痛ってぇ、危ないだろ。箸が刺さったらどうするんだよ」
「なんなら、グサッと刺そうか?」
「こらこら、優子もいい加減にしなさい」
父親が見かねてそう言うと、母親は
「そうよ、その箸漆塗りでけっこうイイヤツなんだから、壊さないでよ」
思わず直樹が箸で掴んだ肉じゃがの芋を落っことして
「か、母さんそっちかよ?」
夜布団に入っても眠れるわけは無かった。
今まで何とも思っていなかった高森忍……
どれだけモテようが、どんな噂が立とうが、別に眼中に無かった。
それは学校中の男子全てが優子にとっては同じで、興味を抱く異性などいなかった。
それなのに、昨晩からこの胸の高鳴りが静まらない。
――おやすみって言ったよ。あいつ。どういうつもりだろう……いや、あたしの言葉にただ返しただけだよ。きっと、律儀なんだよ。
でも……学校中であいつに「おやすみ」って言われた女は他にいるのだろうか……もしかして、あたしだけ?
優子は益々興奮して鼓動が高鳴ると、いくら目を閉じても全く眠れる気配は無かった。
* * *
「もう、何で起こしてくれないの?」
朝、ギリギリに起きた優子は階段を駆け下りて台所へ行くと、荒い物をしている母親に言った。
「起こしたわよ。あんたが今起きるって言うから……」
母親の杏子は苦笑した。
「姉ちゃん寝言でもそう言うからな」
「ウルサイ!」
優子に睨まれた直樹は、そそくさと鞄を持って玄関に向った。
「ごはん食べる?」
母親はのん気にそう言って直樹の食器を片付ける。
「もう、そんな暇在るわけないでしょ」
優子はテーブルの上の牛乳をグラスに注ぐと、それを一気に飲み干して
「じゃあ、行くね」
「急ぐのはいいけど、気をつけてね。あんた、マヌケな所あるから」
玄関へ向う優子の背中に、穏やかな杏子の声が聞こえた。
――マヌケじゃない。せめてドジって言ってよ!
優子は仕方なく自転車を取り出して駅までペダルを踏んだ。
駐輪所は有料だが仕方が無い。周辺に適当に置く連中も多いが何時撤去されるか判らないし、盗まれる可能性も非情に高い。
頬を撫でる乾いた風がちょっとだけ心地よかったが、今の彼女にはそれを堪能する余裕など無い。
久しぶりに乗った自転車はさすがに早かった。
何時もは急いでも5分ちょっと掛かる道のりをあっと言う間に駆け抜ける。
ロータリーの入り口に在るプレハブで作った倉庫のような建物が駐輪場だ。
有料だけあってなかなかハイテクな装置を用いており、上下二段に自転車が停められるようになっている。
優子は自転車を停めると、係りの窓口で105円を払ってチケットを貰う。
その時線路沿いに電車が来るのが見えて、優子は全力で駅の階段を駆け上がる。
スカートが捲くれるのなんて気にしちゃいられない。
改札を抜けて今度は階段を駆け降りると、ホームに着いた電車が見えてドアが開いたところだった。
――よし、ギリギリ間に合うぞ。偉いぞあたし。よく頑張った。
階段はほとんど人がいなかった。
優子は階段を下りる足を速めた……が、その時。
革が伸びて少し緩くなったローファーの左が、突然足から脱げて宙に舞った。
――ギャャャ――ッ、なんでぇぇぇぇ?!
急に止まれない優子は、左足は靴下のまま階段を数段進んでから立ち止まる。
見事な弧を描いき、階段の傾斜に沿って下まで飛んでいくローファーを、彼女は呆然と見つめていた。