◆第68話◆
夕飯の食卓は明るい。
自分の家では何事も無く時間が過ぎてゆく。優子の心を曇らせる全てが、家の外での出来事だ。
「最近ずっと元気ないようだけど、何かあった?」
茶碗を持った母親の杏子が、少し心配そうに優子に訊く。
優子はハッとして笑顔を作ると
「別に。なんで?」
「そう。だったらいいけど」
「なんだ、何か悩み事があったら言いなさい。お父さんたちだって、伊達に親をやってるわけじゃないんだから」
父親の孝之助は少し真顔でそう言うと
「まあ、少しは伊達だけどな」
「かなり伊達じゃねぇの」
直樹が味噌汁を啜りながら言う。
「こら直樹、それは言い過ぎよ。お父さんだって、何かの役に立つかも知れないじゃない」
杏子が笑う。
――何かって、なんだよ……
「大丈夫よ。あたしは別に何でもないんだからさ」
優子はムリにご飯のお代わりを要求した。
直樹はそんな姉の姿をチラ見するが、何も言わずにご飯を口に頬張った。
* * *
冷たい空は澄み切って、窓の外に明るい三日月が大きく浮かんでいた。
小さな星の瞬きが見える。
優子がベッドに身体を投げ出して漫画を読んでいると、部屋のドアを誰かがノックした。
「姉貴、起きてる?」直樹の声だ。
「うん。起きてるよ」
優子は返事と同時にベッドの上に起き上がった。
直樹は静かにドアを開ける。
「どうしたの?」
立ち尽くす直樹に、優子は立ち上がって歩み寄る。
「今、ちょっと出れる?」
「今? 何処に?」
直樹は少し息を呑むと「いいから、出れる?」
「もう、11時だよ」
「とにかく、出れる? ダメ?」
何だか直樹の目が真剣そのものだ。
――な、なによ。あたしを何処に連れて行く気なの? 行き先ぐらい言えよ。
「わ、判ったよ、行くよ」
優子は部屋着のジャージにそのままダウンジャケットを羽織ろうとする。
「あっ、あのさ……着替えた方がよくない?」
「はあ? なんで? そんな遠くに行くの」
優子は動きを止めた。
「いや……そんな遠くじゃないけど。外寒いからさ、ジーパン履けば?」
――言われて見みれば寒いか……そうだよね。ジャージは寒いよね。
「じゃあ、ちょっと待ってて。今着替えるよ」
優子がそう言うと、直樹はドアを静かに閉めた。
「何処行くの?」
「いいから」
優子は直樹について、住宅街を歩く。
夜の冷たい空気が全てを凍りつかせているかのようで、二人の小さな足音だけが響いていた。
暫く歩いて角を曲がる。
そして、再び反対側へ曲がって、また曲がる。
――ん? この辺見覚えある……舞衣ちゃんの家の方角だ。
優子が気づいた時には、既にその家の近所まで来ていた。
逆方向から来たので、気付くのが遅れた。
――ま、まさかコイツ。舞衣ちゃんと喧嘩でもして、あたしに仲裁頼むってんじゃないでしょうね。そんな余裕なんだよ、あたしは。
「ちょっと直樹。あたしそんな余裕ないよ」
「はあ? 何の余裕だよ」
直樹が立ち止まる。
「舞衣ちゃんの家に行くんでしょ」
「ああ。やっと気付いた?」
「ず、ずっと前から気付いてたけど言わなかっただけだよ」
直樹は小さく笑うと、再び歩き出す。
しかし、優子は動かなかった。
振り返った直樹は戻って来て、彼女の腕を引っ張る。
「ちょっと、なんであたしが舞衣ちゃんの家に行くのよ。理由を述べなさいよ」
「いいから。来れば判るって」
直樹はとにかく優子の腕を引っ張って歩いた。
彼は舞衣の家の門扉の少し手前で止まると、携帯を取り出して彼女にコールする。
――何であたしがこの寒空の下、アンタに付き合う筋合いがあるのさ。自分の事でイッパイだっつうの。
優子は両手で冷えた身体を摩って空を見上げる。
この夜は、とにかく星が綺麗だった。
直樹が電話を切るが早いか、門扉の行灯が燈って、誰かの姿が見えた。
優子もその気配に視線を向ける。
舞衣ではない……身長も髪の毛のシルエットも全く違う。
淡い山吹色の明かりに浮かぶ黒いシルエット……一瞬彼の爽やかなライムの香りさえ届いた気がした。
それが優子に懐かしさと安堵をもたらしたのは確かだった。