◆第67話◆
「高森って、よくハワイに行ったりしてた?」
優子は唐突に訊く。
「ハワイ?」安西は口からカップを放して、眉を潜めた。
「なんでハワイ?」
訊き返す安西に、優子は思わず言葉に詰る。
――居眠りしてたら夢に出て来た。なんて言えないよね。
「いや……何となくさ」
「行った事はあるだろうけど……まさか、海外に行ってないでしょ」
安西は思わず苦笑する。
――な、なによそのバカにしたような笑いは……あたしだって実際そうは思ってないっつうの……
「そ、そうだよね。それは無いよね」
一瞬の沈黙が流れた。
窓の外の景色は白さを増す一方で、図書館の敷地のポプラの枯れ枝も白樺も、既に雪を被っている。
「篠山にも訊いてみたよ」
安西は、再びコーヒーを口にして
「何だかんだ言っても、男同士だからさ。連絡取り易いと思って」
「そ、そうなんだ……」
優子は再びテーブルに視線を下げると
「あたし、篠山に酷い事言っちゃったのかな」
安西は小さく声を出して笑った。
――な、なんでそこで笑うんだよ。あたしだって反省くらいするよ。
相変わらず上目遣いにチラ見する優子に安西は
「大丈夫よ、篠山はそんな事気にしないでしょ」
優子は少しホッとした。
いま篠山に一番近いのは、安西だ。彼女が言うのだから、間違いないような気がして、気持ちが安らぐ。
「篠山の家ってね、自分が干渉を受けない代わりに、親の事に口出しするのもご法度なのよ」
「そ、そうなんだ……」
「でも、さすがにアイツも何か言ったらしいよ」
安西は水の入ったグラスを揺すって氷を鳴らした。
「気付かなかった? あの日、篠山の左の頬に痣があったの」
「き、気付かなかったよ」
「お父さんに利き手で殴られたって、ブツクサ言ってた」
「そうなんだ……ごめんって、言っといて」
優子は再び視線を落とす。
「だから、アイツは優子の事は気にしてないって」
安西は再びグラスの氷を揺らすと「とにかくさ、待つしかないよ」
そう言って水を一口飲む「退学届けは出てないし、学校へ戻る気はあるんだろうから」
「でも、期末試験の半分休んで大丈夫かな……」
優子の心配を他所に、安西は再び笑った。
「ずっとトップだったのよ、彼。追試でも何でも直ぐに受けさせてもらえるよ」
雪は少し小降りになったようだ。
かなり水を含んで、もう時期雨に変わりそうな気配がする。
「転んで怪我しないでよ。あんた、そそっかしいんだから」
傘を広げながら安西が言った。
――そんな事、言われなくたって判ってるよ。変なもの踏んだけど……
安西は雪雲を仰いで「ちゃんと前見て歩きなさい。今のアンタは下ばっかり見てるからさ」
――そ、それって励ましてるのか? でも、下も見た方がよくない?
「うん。ありがと。じゃあ」
優子も傘を広げた。
二人は一緒に喫茶店を出ると、お互い別々の方角に向って歩き出した。
* * *
翌日、優子は一葉と里香の三人で久しぶりに映画を見に行った。
帰りは買い物などもして、少しだけ有意義な一日を過ごす。
安西に会って、何だか心が安堵した。
ちょっと悔しいけど、忍をよく知る安西と話して、彼女の言葉で何となく勇気付けられた気がする。
優子が電車を降りて、駅の階段を下りるとき、外の景色にふと視線を止めた。
階段のロータリーに面した壁面ははめ殺しの窓ガラスになっている。
その先に見える人混みの中に、あまりに待ちわびた姿を見たのだ。
――た、高森だ。
ロータリーを行き交う人波の向こう。その姿は既に国道の横断歩道を渡っていた。
後姿だったが、優子にはひと目で判った。
彼女は反射的に駆け出す。
階段を上って来たサラリーマンと危うくぶつかりそうになって、避けた拍子によろめいた。
体勢を整えながら急いで階段を駆け下りて、駅を出ると彼の姿を探した。
ロータリーを駆けて、国道に出て再び周囲を見渡す。
胸が高鳴っていた。
息切れ以上に、心臓の鼓動は胸を叩いた。
――確かにいたよ。あれは高森だ。絶対彼の姿だった……
優子は白い息を吐きながら、暮色の中で彼の姿を探した。
しかし、それは何処にも見えない。
――錯覚? あまりの思い込みで錯覚だったのか? そうだよ、もしいたとしても暗くて見えるはず無い。あたし、ヤバくない?
優子は肩を落として国道を渡ると、力無い足取りで家に向った。
歩道の隅に残った雪解け跡が凍って、踏みしめるとバリバリと音を立てた。