◆第55話◆
「なあ、夕飯ウチで食わない?」
土曜日、優子と忍は銀座マリオンに映画を観に行った帰り、電車の中で揺られていた。
「えっ? ゆ、夕飯?」
「ああ、たまにはいいだろ? まあ、ウチのお袋の料理は、家庭的な感じはあまりないけど」
中間考査が終わった日、忍は再び優子の家へ来た。彼女は忍にオムライスを作って食べさせた。
それは優子の得意料理の一つだが、ごく一般的なものだ。
それでも手料理と言うのは各家庭で独特の味付けがあったりして、他人には新鮮に感じたりする。
忍の母親の料理はレストランのような安堵な味付けを得意とする。
だから余計、ちょっぴり癖の在る優子の料理に家庭感を感じるのかもしれない。
「で、でも、急にお邪魔しちゃ……」
「大丈夫さ。ウチにはお袋しかいないし、ほとんど顔だって合わせないよ」
――夕飯なのに、顔を合わせないって……ああ、そうか。高森は何時も独りで食べるんだっけ。
「うん……」
優子は小さく頷いた。
既に、緊張から来る動悸が始まっていた。
大きな檜の門を潜ると玄関までの石畳が続いていた。
両脇は綺麗な玉砂利で、その上に突き出た小さなランプが石畳とその周囲を転々と照らしている。
明るい時にこの家の前をあまり通らない優子は、忍の家の詳細な姿を知らなかった。
家の回りは高い垣根と塀で覆われているので、平屋作りの家は外からほとんど見えない。
麻布に在る料亭のような、大きな引き戸を開けて玄関に入る。
靴を脱ぐ上がり口の先に、年配の女性が立っていた。
「いらっしゃい」
そう言って微笑む女性は、十中八九忍の母親だろうと優子は感じながら頭を下げる。
「こ、こんばんは。は、はじめまして」
「こんばんは」
そう返した忍の母親は
「お帰りなさい」と忍の方を向く。
優しそうな笑顔だが、何となく旅館の女将のようだなと、優子は感じた。
「ただいま」
「珍しいのね、忍さんがお友達を連れてくるなんて」
優子は二人の会話を聴きながら、聞こえないふりをした。
――し、忍さん? 親子なのに『さん』付け? 確かに生みの親じゃないけどさ……
優子は忍と一緒にキッチンまで歩く。
洋風のキッチンテーブルに、装飾のある背もたれの高い椅子。
家の造りは純和風だが、所々に洋風の匂いがする大正時代のような雰囲気は、何処かで見覚えがある。
――なんか、はいからさんが通る。みたい……
忍と向かい合わせに座るが、テーブルの幅が広いので妙に彼が遠くにいる。
――と、遠くない? 何だか向かいの高森が遠くない?
「俺、優子の隣にいこうか?」
優子の不安な視線を感じたのか、忍はそう言って笑った。
「あ、大丈夫よ、別に」
――何が大丈夫なんだよ。
母親はどんどん料理を運んでくる。
どうやら今晩は中華のようだ。
――これって、まさかフカヒレ?
優子は最初に運ばれたスープを覗き込む。
「食べよう」
忍に促されて、優子は小さな声で「いただきます」と言った。
その後に運ばれてきたマーボやエビチリは解るが、中央に置かれた大皿に乗る鳥を薄く切った料理に優子は否応無く視線が行く。
――ぺ、北京ダック? これって北京ダックか? 家の夕飯に出るか? 普通。
夕飯の最中、料理を運ぶ以外で忍の母親が顔を出す事は無かったし、もちろん同じテーブルには一度も着く事も無かった。
まるで給仕さんのようだと優子も思ってしまった。
確かに終始笑顔で愛想はいいのだが、やっぱり母親の匂いはしない。
何故そう感じるのか、優子は考えていた。
母性……そう、母性の愛を感じないのかもしれない。義務感やサービス精神から来る類の笑顔なのだと思った。
食事の後、忍に促されて優子は縁側の長い廊下を歩いた。
ガラス戸の向こうには間接照明で照らされる小さな庭園と池がみえる。
廊下の突き当たりのドアを開けて、忍は優子を促す。
彼女は少しだけ躊躇した。
男の子の部屋なんて、弟の直樹の部屋以外に入った事はない。
入った瞬間、予想通り爽やかなライムの香りがした。彼のイメージ通りだ。
――これってお香? コロン? それとも高森本人の匂い?
部屋の中は妙に片付いて、直樹の部屋とは大分雰囲気は違っていた。タバコの臭いもしない。
弟の部屋にもベッドは在るのに、何だかクラスメイトのベッドを目の当たりにするのは不思議な気分だ。
この部屋の中には、高森忍のプライベートがギッシリと詰まっている。
優子はあまりジロジロ見てはいけないと思いながらも、周囲を盗み見る。
「座れば?」
「う、うん」
――ていうか、何処に? テーブルのどっち側に座ろうか……ま、まさかベッドにってわけにはいかないよね。それ、ちょっと危ないゾーン?
優子は小鼻が膨れるのを堪えながら、テーブルを回りこんでとりあえず窓際にペタリと腰を下ろした。
意味も無く、今日着けている下着はどんなものだったか、半ば反射的に記憶を巡らせた。
申し訳ございません…
多忙の為、次回の更新は週明けになると思います。