◆第54話◆
優子は線路沿いのフェンス横にある物置きの壁に身体を押し付けられた。
どう考えても横に飛び出て逃げ出す隙はなさそうだ。
優子はカバンの中の携帯電話を掴もうとしたが、逆にその右腕を思い切り掴まれた。
――イッタァイッ
しかし、彼女は声に出さなかった。代わりに
「止めて下さい!」
そう言って、男を睨んだ。
――超ヤバイよ。あたし、やられちゃうの?
優子の脳裏に一瞬安西の姿が浮かんだ。
安西もこんな目に遭ったのだろうか……いや、もしかしてもっと恐ろしい目に遭ったのかもしれない。
中学の頃の安西は知らない。それでもあれだけ毅然とした彼女の事だ。何があっても誰にも屈しないだろう。
そう考えると、優子の心にほんの少しだけ勇気が湧いた。
彼女は思い切り男の手を振り払うと、一か八か横に飛び出した。
しかし、残念ながら優子の運動神経はさほどよくは無い。
一瞬だけ男と距離が離れる気がしたが、直ぐに端の男に肩を掴まれると、そのまま物置の影に連れて行かれそうになった。
――やっぱ、ダメじゃん。
その時パッと一瞬、周囲の景色が白い閃光に包まれた。
何かが強く光って三人の男は振り返る。
「ちょっと! あんたたち、そこでなにやってるの?」
優子は何が起こったのか判らなかったが、その声が何処かで聞き覚えのある誰かだという事は判った。
「離しなさいよ。今写メ撮ったよ。警察呼ぶよ」
三人の男が僅かにバラけると、少し離れた場所に声の主が立っている。
優子は正面から光を浴びたので、目が眩んでよく見えなかったが、視線の先には間も無くその姿が浮かんだ。
「あ、安西……」
「優子?」
安西は誰かが絡まれているのを見て止めただけで、それが優子だとは知らなかった。
「おい、携帯取り上げろ」
三人のうち二人が素早く安西に駆け寄って掴みかかった。
「ちょっと、離しなさいよ」
二人がかりでは、安西も身動きとれない。
携帯を取り上げようを腕を掴まれ、もう一人の男は彼女の髪の毛を掴んだ。
「ほら、さっさと携帯離せって」
「やめてよ。離すか、バァカ」
「指折っちまうぜ」
男の一人は、力ずくで安西の指から携帯を剥ぎ取ろうとする。
しかし、安西は携帯を離さなかった。
直ぐ先で安西が揉みくちゃにされながら、堪えている。
「安西!」
優子が駆け寄ろうとするが、残った一人が立ちはだかる。
「彼女は関係ないでしょ」
「写メなんかとられたら、洒落になんねぇし」
男は優子に再び詰め寄ると
「どうせ女二人じゃ、何もできねぇよ」
そう言って気持ちの悪い顔で笑った。
坊主頭で眉は薄く、左耳に二つもピアスをしている。
「何が目的なの?」
「さあね」
再び男は優子に近づく。彼女は反射的に後ろへ下がった。
――これって、やっぱ引き続きピンチ?
「女二人って?」
その時、男の背後で再び聞き覚えのある、誰かの声。
優子が男越しに覗くと、そこには篠山が笑っていた。
見方よっては爽やかだが、優子にとっては何だか気の抜けるような微笑。
さらにその後には、アスファルトに這いつくばってピクピクしている男が二人見えた。
既に篠山にやられたのだ。
その場にしゃがみ込んだ安西は無事のようだった。
「篠山……」
優子は思わず安堵の笑みを零した。
優子の前の男が、不意をつこうと振り返りざまに篠山に飛び掛る。
「てめえ、誰だよ」
優子は篠山の危機を感じて、一瞬息を呑んだ……
が、篠山はスルリとそれをかわし脇腹に容赦の無い蹴りを一発、そのまま顔面を二発。
ボクサーのような綺麗なワン・ツウだ。
そして再びボディーに膝蹴りを喰らわす。
「別に、普通の友達だけど」
篠山が手足を止めると、男は崩れるように倒れた。
――な、なに、コイツ。漫画みたいに強いじゃん。
優子は一瞬篠山に見入るが、直ぐ我に帰ると急いで安西に駆け寄る。
「大丈夫?」
「だから忍に関わるなら気をつけろって言ったじゃん」
――そ、そんなの知るか。こんなリアルな出来事だなんて思わないよ。
「で、でも。コレってそうなの?」
優子は思い出したように、駅の階段入り口にいたはずの女子を探すが、もう何処にも彼女たちの姿は見えなかった。
「何で安西がこんな時間に?」
三人は駅のホームに降りて同時に息をつくと、珍しく優子が先に言葉を発する。
「手芸部の部長になっちゃってさ。今日は引き継ぎがあったのよ。まさか男に絡まれているのが優子とはね」
安西はわざと大きく溜息をつくと
「そうと知ってれば、知らん顔して通り過ぎたのに。ああ、損した」
――なっ、ムカツク。でも、携帯は離さないでくれたじゃん。
「で、でも、ありがとう。証拠の携帯離さないでくれてさ」
「バッカね。落としたら壊れるでしょ。だから離したくなかっただけじゃん」
――む、ムカツク。超ムカツク! マジ、ムカツクっ!
しかし、それが本心でない事は、もちろん優子も判っていた。
「二人共凄いんだな」
二人の横で、篠山が他人事のように言った。
まるで、何も無かったかのような笑顔だ。
――ていうか、あんたが一番凄いと思うんだけど……
「し、篠山はどうしてこんな時間に?」
「ああ、転入試験の補習でさ」
――はあ? そんなの聞いたこと無いんだけど……転入試験に補習なんてあるか? 普通は転入できないんじゃ……
「ところで、この人誰よ? もしかして隣のクラスの?」
安西が怪訝に篠山を見て言った。
優子が紹介しようとするが、篠山は握手を求めるように右手を出して
「俺、B組の篠山雄二郎。B型。ヨロシク」
――なるほど、B型なのね。言われて見ればお気楽か……ていうか、血液型なんて誰も聞いてないって。
安西は篠山の差し出した手を一瞬眺めたが、軽く彼の顔を見上げると
「さっきは有難う、助かったわ。あなた、凄く強いのね」
そう言って、篠山の手を掴む。
――そうだ。篠山ってめちゃくちゃ喧嘩慣れしてるよ。やっぱ、元ヤン?
「まあ、それぐらいしか取り得がないし」
篠山がそう返すと、二人は思わず笑顔を交わした。
優子は、そんな安西の笑顔を始めて見た気がした。
安堵に満ちて、少し照れたような優しい笑顔だった。
――ていうか、安西……あたしが助けてあげた時はお礼が言えなくて、コイツにはそんな笑顔で言えちゃうのね……