◆第42話◆
優子は我に帰るように、顔を後へ引いて自分に起こった事を認識すると、顔中が熱くなった。
全身を駆け巡った電気が、頭の中でショートしたようだ。
――な、な、なんでこんないきなりなの? しかもこんな拍子に?
「な、な、な……」
「ご、ごめん。なんか咄嗟の事で俺もよく判んないんだ」
忍は優子を抱かかえたまま言った。
優子が忍に抱きついた拍子に唇が重なってしまったわけではない。
顔の角度が違っていたにも関わらず、忍は彼女を支えた直後、故意に唇を押し当てて来た。
しかし、まるで自分の意に反してついやってしまったという感じだ。
優子は彼に支えられた状態で、何処を向いたらいいのか判らなくてただ俯く。
身体の力が抜けて、忍が支えていないと崩れ落ちそうになっていた。
ひっくり返った湯飲み茶碗から、残っていたお茶がひたひたと床に零れている。
「お、お茶、こぼれてるよ」
忍の声で優子は慌てて身体の向きを変えると忍から離れてテーブルの布巾を掴む。
頭の中が真っ白になっていた。
何だかとにかく違う何かの動作をしようと思った。
優子は床より先にテーブルの上を拭いている。
「絨毯を拭いた方が、よくない?」
忍に指摘されて、慌てて布巾を絨毯に置く。
そんなに多い量ではなかったので、直ぐに水滴はふき取ったが、その後も何だか訳が判らず優子は絨毯を布巾で軽く叩いていた。
「だ、大丈夫?」
「えっ、う、うん。平気よ。別に、そんな…も、もう高校生だしね。全然大丈夫」
「いや…絨毯のお茶……」
「えっ? お茶? そう言えば、の、のど渇いたよね」
「いや、零れたお茶で濡れた絨毯……」
「あ、ああ。絨毯は平気よ。どうせ安物だし」
優子は完全に舞い上がっていた……
* * *
「じ、じゃあ、気をつけて帰ってね」
「ああ、じゃあ……な」
玄関を出て門扉の所で振り返る忍に、優子は再び笑顔で手を振った。
見送りが終わると、玄関ドアを閉めて急いで洗面所へ向う。
――ど、どうしよう。あれってどうなの? どうって何が?
思わず意味不明の自問自答をしていた。
優子は洗面所の鏡に向かって前かがみになり、何も変わりないその姿を見つめる。
そっと唇に触れてみるが、別に朝見たものと何も変わっていない。
なんの変哲も無い、何時もの自分の顔とそこに在る唇。
――なんか、あっという間だったけど、こんなモノなの? これが、あたしのファーストキスなんだよね……
あんないきなり不意をつくような、そんなんでいいの?
自分が想像していたものとはかけ離れていた。
彼女はもっとムードに溢れて酔いしれた中で、お互いの瞳を見つめながらそっと交わされるのが初めてのそれだと思っていた。
しかし実際は気付いた時にはもう、彼の唇は自分の唇にくっ付いていた。
そのインパクトの瞬間がよく判らないまま事が運ばれて、それが無念で仕方がないのだ。
――こんな事なら、この前の観覧車の方がムードあったよね……
それでもリビングのでの出来事は現実だ。しかも、これで弟に肩を並べた気がする。
優子は鏡に向って一息つくと
「ま、いいか」と、声に出して言ってみた。
その時家の電話が鳴り出す。
リビングまで小走りに戻って電話を取った。
「ああ、優子いた」
それは母親だった。パート先からかけて来たのだろう。
「どうしたの?」
「洗濯もの外に干してきちゃったから、取り込んで置いてくれる?」
優子はコードレスの電話機を持ったまま、和室の縁側を覗いた。
物干しはその前に在るのだ。
玄関ドアを開けると、物干しが在る場所は死角になるから、優子は気付かなかったのだ。
しかし、門から出入りした忍の視界にはしっかりと映っただろう……
――ぎゃぁ、あたしの下着外に干してあるっ。いっつも中に干してって言ってるのにぃ……ていうか、高森にモロ見られてるじゃん……
優子は思わず受話器を掴みなおすと
「お、おかあぁぁあぁさん……」
優子は安西の事を忍に言えなかった。
彼が裏サイトの事を知っているかは判らない。
しかし、彼に言った所でどうにもならない事は明らかだ。
モンモンとしたやり切れなさが、忍との行為に浮ついた気持ちをかき消す。
その夜、一葉から電話が来た。
「ああ、舟越ってあたしと一緒の駅だったよ。全然気付かなかったけど」
たまたま見つけたのか調べてくれたのか、彼女はそんな情報をくれた。
「あ、うん。あたしも昨日の帰りにあいつ見かけた。やっぱりあの辺に住んでるんだ」
――そうだ、そう言えば一葉が使ってる駅じゃん。
「ねえ、あんた本当は安西の何か、知ってるんじゃないの?」
「ど、どうして?」
「うん……別に」
優子は自分の知っている一部を話そうと思った。
「実はさ、安西の家に前に行った事あるんだ」
「ああ、安西って優子のウチに近いんだっけ?」
「うん…駅向こう」
安西の住んでいる様子くらい、一葉に話してもいいだろうと思った。他にも知っている人がいるかもしれない。
いや、もしかして学校にだって独りというのは内緒なのかも……
優子は一瞬の戸惑いを感じた。
「それで? 何を知ってるの?」
再び躊躇する優子は、一葉の問いに促されて言葉を発した。
「うん、たいした事じゃないんだけど。安西って、独りで暮らしてるの知ってた?」
「独りで? 初めて聞いたよ。独り暮らしなんだ」
「なんかさ……この前駅でお母さんみたいな人と揉めてて、やっぱ訳ありっぽい」
「ふ〜ん。あたしなら、大喜びで独り暮らしするけど」
一葉は明るく言った。
確かに高校生の独り暮らしなんて、誰でも一度は思い描くかもしれない。
全てが自由で誰にも束縛されない生活。
気ままな時に好きなものを食べて、夜更かししようが外泊しようが誰にも咎められないし、自由に友達も異性も呼べる。
「でもさ、いっつも独りなんだよ」
「いいじゃん。友達呼べばさ。でもあいつ、本当の友達いないのかな?」
「何時でもは無理でしょ? みんなだってそれぞれ用事だってあるし。夜とか毎日独りでご飯食べるんだよ。夜中体調悪くても熱があってフラフラしても、独りで乗り切るんだよ。洗濯だって掃除だって……」
「判った、判った。確かに本当に独りだと、いろいろ大変なのは確かかな」
一葉は一息つくと
「だから、優子は安西に同情してるんだ」
「別に同情とかはしてないけど……」
「うそ、だから安西に何か言われても黙って我慢してるんでしょ」
――いや……それは、言い返せないだけっていうか、基本アイツ苦手なだけ。
「そう言うわけじゃないけど……」
「だから、裏サイトの犯人を捕まえたいんだ」
一葉が言う事は、少しだけ当たっているような気もした。
しかし、あのサイトを見た時の不快感は、もっと違う何かのような感じも優子はするのだ。
それが正義感だとか誰かを思いやる心だとか、そんな偽善っぽい表現では表せない何かだと思った。
「なんかさ、卑怯じゃん。ああいうのって」
一葉は電話の向こうで大きく息をついた。
「まあ、確かにね。じゃあ、明日舟越捕まえてみる?」
「えっ? 明日?」
「また学校来なかったら、放課後アイツの家に行ってみようよ」
一葉は何だか急にやる気まんまんで、電話を切った。
――大丈夫なのかな……でも、一人より一葉がいてくれた方がいいかな。