◆第38話◆
優子は通りの角を曲がろうとして思わず足を止めた。
通りの先に二つの影が、薄っすらと街路灯の光を浴びている。
確かにそこは忍が以前寄り道した家だ。
優子が静かに見つめる中で、二つの黒い影は重なった。
――ぎぇ……ち、ち、ちゅーしてる。こ、こんなところでちゅーしてるよ、アイツ。ありえない……
視線の先にいたのは、紛れも無く弟の直樹だ。もちろん相手は苑部舞衣だろう。
二人の影が重なる時間は妙に長く感じて、優子は奇妙な感覚でそれを見ていた。
当たり前の事なのに、弟は男なのだと今更ながらに思った。
二人の影が離れると、舞衣は何事もなかったような素振りで手を振って家の門扉を潜り、それを直樹が見送る。
優子は角を曲がって路地を歩き出していた。
――いかにも慣れてたよね、あれ……けっきょく先越されたんだなぁ……あの二人はきっと、本気でお互いの事が好きなんだ。だからあんなに自然にキスを交わせるんだ。
優子は自分と忍の関係が余計に判らなくなって、それ以上考えるのが苦痛だった。
思わずトトロの歩こうマーチが頭に中に流れ出して、自分の歩調に合わせて何となく口ずさんだ。
夕飯時、優子は直樹を何度もチラ見する。
――あの唇が? あれが既に女の子のそれに吸い付いてる……信じられない。まさかその先も? いやいや、それはないだろ。
でも……考えてみたら安西だって……
「何?」直樹が優子に言った。
「はっ? 何って、何が?」
「なんかやたらとこっち見てるからさ」
「み、見てないよ別に」
「見てたよ」
「見てない」
「はいはい、もう二人共そんな子供みたいな事でいちいち言い争わないで」
母親が穏やかな口調で割って入る。
優子はフンと鼻をならして味噌汁のお椀を手にした。
――ていうか、ウチらまだ子供だと思うんだけど……
直樹は再びご飯を口へ頬張る。
「あんた、舞衣ちゃんと上手くいってんの?」
優子が気を取り直して訊いた。
「な、なんでさ」
「別に。ただ訊いてみただけ」
「姉ちゃんはどうなんだよ」
「あ、あたしは、そんなんじゃないし」
「あんまりボケッとしてると、何時の間にか年とっちゃうぜ」
――なっ、なによコイツ。自分が彼女とラブラブだからって、急に悟ったような事言って。
「ボケッとなんてしてなわよ」
優子はそう言って、味噌汁を啜った。
「母さんお茶くれ」
父親の孝之助がそう言うのが早いか「ハイ」と杏子は湯飲みを差し出す。
――ウチは平和だな。高森はきっと今日も独りでご飯を食べてるんだ。そして、安西も。アイツは自分で料理もするのかな……
優子は自室へ戻ると、パソコンをインターネットに繋いで、再び学校裏サイトを見た。
パソコン用の画面は紫色だった。
濃い紫色の壁紙に、白色の文字で学校名が書かれている。丁寧にダークグレーの影が作ってあった。
BBSをクリックすると、更新記事は特に無かった。
もうあまり記事は読みたくない。しかし、何か投稿者の手掛かりも欲しい。
――安西はこの事知ってるのかな……
ふと見ると、記事が最初に書かれたのは、学園祭の1週間前だった。それから毎日更新されて3日間はモギヰという名が3年生の事を書き込み、その後ヤギヰと言う名で4日間書き込まれている。
安西の事を書いているのはヤギヰで、モギヰは書いていない。
二人は別人なのだろうか。
ただ、どちらも同じ学校の生徒だという可能性は高い。そして、少なくともヤギヰが舟越だという可能性はなお高いだろう。
誰も直ぐには気付かなかっただろう。
しかし今、どれだけの生徒がこの記事を目にしているのだろうか。
ふとトップページの横に設置されたカウンターが目に入る。
――102528! じゅ、じゅうまん? そんなに沢山の人が見てるの?
幾つかリンクは貼って在るようだが、それすら優子には聞き覚えがない。
クリックしてみると、そういった類の噂話や中傷を扱ったホームページが山のように集めてあるサイトだった。
幾つか開いてみると、他に聞き覚えのある学校裏サイトも存在している。
――似たようなヤツって、何処にでもいるんだ。でも、ウチの学校はかなり平穏だったのに……
優子の周りにはそれほどネットにハマるような連中がいないので、安西の事が書かれた記事をどれほどの連中が目にしたか、どうにも計り知れない。
一葉だってそれほどハマってるわけではない。
ノートに書かれた落書きのように、破り捨てたら消えてなくなるものではない……
優子はふと思い立って部屋を出ると、隣に在る直樹の部屋のドアを叩いた。
「何?」部屋の中から、彼の声がする。
「あたし。入っていい?」
「ああ」という声で、優子は弟の部屋のドアを開けた。
『トトロの歩こうマーチ』と記載しておりますが、本当の歌のタイトルは『さんぽ』です。
『歩こうマーチ』の方が、優子が何を口ずさんだのかわかり易いと思ったのでそう書きました。