◆第22話◆
忍もそうだが、安西ひとみも勉強が出来る割に、いかにもガリ弁といった風貌ではない。
確かに清楚で上品な装いだが、スカートはけっこう短いし、どうやらマスカラや色つきリップもこっそり塗っていそうだ。
さすがに髪の毛は黒いが、艶やかなそれを何時も揺らしながら歩く姿は自信に満ちている。
親しい友人は何人かいるようだが、独りでいる事も多い彼女は、あまり誰かと戯れるのは好きではないのかもしれない。
「ご、ごめんね、なんか、お邪魔しちゃって」
外は激しい雨音だけが響いていた。
急に振り出した雨に、安西は仕方なさそうに「入る?」そう言って優子をアパートの自室へ案内した。
赤く錆びきった鉄の階段を上がって通路を進むと、二階の真ん中に安西の表札が出ていた。
安西は優子にタオルを渡すと自分は風呂場で着替え、その後台所から熱い紅茶を持って来てローテーブルの上に乗せる。
六畳の和室が二間と小さな台所。そして小さな風呂場の隣にトイレがあった。
台所の片隅に洗濯機が置いてある。
「家の人は、留守なの?」
優子は髪の毛にタオルを当てながら言った。
「家の人なんていないわ」
「えっ?」
はき捨てるように言った安西に、優子は怪訝な表情を隠せなかった。
「ここは、あたし独りよ」
「ひ、独りで住んでるの?」
優子の問いかけに、安西は小さく頷いてカップの紅茶に口を着ける。
間近で見るメガネの奥の睫毛は、何時もより元気は無い。
――やっぱり普段はマスカラ塗ってるんだ……
優子は思わず関係ない思考が頭を過って、それを振り払う。
――それにしてもどういう事だろう。なんで高校生のあんたがこんなアパートで独りで住んでるわけ?
しかし、優子はそんな疑問を訊く事ができない。
そもそも私立中学に通っていたか安西が、こんな絵に描いたような古いアパートで暮らしている事自体に、大きな訳ありを感じたのだ。
その訳は判らないが、わざわざ不幸話を聞きだそうなんて思わないのだ。
「ひ、ひとり暮らしなんて、すごいね……」
彼女はそう言って苦笑しながら部屋の中を見渡した。
言われて見れば家族で住んでいるにしては家具が少ない。と言うか、家具らしいものなんて無いに等しいのだ。
普通は茶の間に在っていいサイドボードが無い。
在るのは小さな台座に乗ったテレビと、引き出しやカーテンのついた幾つかのカラーBOX。
それと、いま紅茶の入ったカップが乗っているローテーブルだ。
奥の部屋にも、ベッドと小さな鏡台意外は何も見当たらない……
しかし、小さな鏡台には幾つかのコスメと無造作に置かれたコンタクトのケース。それとビューラー。
――こいつビューラー使ってるし……
「目、悪いんだね……普段はコンタクトなんだ」
優子は間が持たないので、話題を変えようと思った。
「今時、普通でしょ」
安西は視線を下げたまま、紅茶を啜る。
――うわぁ、話しの続かないヤツ。だから自分から話しかけるのは苦手なんだよ。
二階の窓にもベランダは無かった。窓際の雨樋を伝う水の音が、やたらと響いていた。
「な、なんだか凄い雨だね……」
「天気予報見てないの? 昼から雨の確立70%よ」
――そういう答を求めて言ってるんじゃないっての。
優子は非情に居心地の悪い思いだったが、今のところ外から聞こえる雨音は止まる気配は無い。
少しの間、沈黙と降り注ぐ雨音だけが部屋の時間を埋め尽くす。
「忍と付き合ってるの?」
唐突に安西が言った。
顔は少し笑っているが、目が全然笑っていない。
優子は大きく首を横に振って、それを否定した。
「そんなんじゃないよ。たまたま会っただけだよ」
「そう……別にいいけど、親衛隊もいるから気をつけるのね」
――親衛隊がいるって、本当なのか? ていうか、お前は違うのか?
「あ、安西は、どうして高森と別れたの?」
安西は静かに紅茶のカップに口をつけると
「そんな事、あんたには関係ないでしょ。男と女の間には、いろいろあるから」
そう言ってフッと笑った。
――な、なんだよ、それ。関係ないならいちいちあたしを睨むなっての。ていうか、あたしをバカにしてんのか? なによ、フッて?
「に、に、妊娠した事、あるの?」
「誰に聞いたの?」
安西の表情が険しく変わった。
優子はつい口から出た言葉に自身で戸惑う。
「え、えと、誰だっけ……」
「舟越ね? そうね? そんな事言うのはアイツしかいないし、学校で知ってるような奴で思い当たるのもアイツだけだわ」
安西は再びカップの紅茶を飲むと、乱雑にそれをテーブルに置き
「あの木偶の坊……友達なんていないようだから油断したわ……あんたと繋がっていたとはね」
――いやいや、全然。あんな男とは何の繋がりもないってば……なんで勝手に繋げちゃうの。
「ほ、本当なの? その話し……」
「あんたはどう思う?」
――し、知るか、そんな事。
「さあ……」
優子は少し俯いて首を傾げる。
すると、安西は少しだけ腰を浮かして
「あっ、そろそろ帰ってくれる? 雨上がったわ」
何時の間にか外の雨音は止んで、雲間から微かに陽が差していた。
玄関先で安西は優子に言った。
「覚えておいてね、これからあなたはあたしの一番の敵だから」
「ど、どうして?」
「決まってるでしょ。三角関係なんだから」
――さ、三角関係? それって、よくドラマや漫画にあるあれか? そうなのか? ていうか、どういうベクトルの三角なのよ……さっきあんた、別にいいけどって言ったじゃん。
優子は言葉が出ないまま外通路に立っていたが、安西は容赦なくドアを閉めた。
バタンッと言う音で、我に帰る。
まるで魔法の国にでも行っていたような気分だった……
――何しに来たんだ、あたし。
結局何の成果も無いまま、後味の悪さだけを残して優子は安西のアパートを後にすると、自転車のペダルを踏んだ。
――何が三角関係よ。冗談じゃないっての、もう。
踏み切りを渡って、元来た国道に沿って駅前に向う。
ついでだから、気晴らしに駅前の本屋へ寄っていこうと思ったのだ。
しかし、横断歩道を渡ってドラックストアーの前まで来た時、彼女は慌てて自販機の並んだ影に自転車ごと身を隠した。
顔を覗かせて本屋の通りを見る。
直樹がいた。しかも、女の子と一緒だ。
黒い髪を肩まで伸ばした、色白で小柄な娘だった。
――何あれ? ま、まさか彼女? もしかして、この前言ってた高森の親戚の娘?
優子がコソコソ覗いている視線の先を、二人は仲良く歩き去って行った。
少しだけ射し込んでいた陽差は陰って、再び雨雲が空を低く覆っていた。
夕方まで降ったり止んだりしていた雨は完全に上がって、雲間には小さな月がくっきりと浮かんでいる。
優子は部屋のベッドに身体を投げ出したまま、天井を見上げていた。
三角関係という言葉が頭を埋め尽くす。
――なんだか超めんどくさい。恋愛ってこういうものなの? ていうか、あたし恋愛してないって。 そうだよ。安西が勝手にどう思おうと知るか。
だいたい誘ってくるのは高森の方なんだから、あたしのせいじゃないじゃん。