◆第21話◆
車中の窓ガラスは、映りこんだ人混みでイッパイだった。
優子は焦点を遠くへ合わせて、外に浮かぶ住宅街の明かりに視線を移動させる。
その時電車が少し揺れ、優子の前方にいたサラリーマンがバランスを崩して彼女にもたれかかった
――うわっ、オヤジ、ちゃんとつり革掴んどけよ! こっちはつり革に届かない位置なんだからさぁ……
優子はサラリーマンがぶつかった反動で、後に身体を振られるが掴まるものが何も無かった。
が、しかし、後から腰に何かが当たって彼女を支えた。
「大丈夫か?」
優子を支えたのは忍の手だった。
――きゃっ、高森の手があたしの、こ、こ、こ、腰に……
「こ、こ、こ、混んでるね……」
何時もの下校時間に比べて、会社帰りなどの客で車内は混雑していた。
「そうか、俺はこの時間に慣れてるからな」
忍は優子に笑いかけると
「俺に掴まれよ」
―――えぇぇぇ、そ、そんなラブラブ恋人同士みたいな事できないよ。
再び電車が揺れて、腰に添えられた忍の手に身体を支えられる。
――今日の電車はやけに揺れない? スピード出し過ぎなんじゃないの? でも、ずっと高森に支えられてるのもなんだし……ていうか、これじゃ腰に意識が集中しちゃう。
優子は仕方なく忍の腕に掴まった。
――うわ、意外と硬いかも……ていうか、超ハズカシィ。
優子は周囲の客に埋もれるように電車に揺られながら、彼の腕が身体に当たる度、頬を紅潮させた。
駅に着いて電車を降りた時、優子は思わず大きく息を吸った。
混み合った電車の中は何時もより暑く感じたが、それは自分が火照っていたせいでもある。
「大丈夫?」
忍が優子の肩をポンと叩いた。
「う、うん。ありがとう、大丈夫」
そう言った彼女だったが、目の前の光景に思わず驚愕する。
一瞬頭の中がトリップして、何も考えられなかった。
――超ヤバイじゃん。なんでこんな最悪のタイミングなの?
目の前に安西ひとみが立っていたのだ。
忍と優子が並ぶ姿を無言で見つめている。
長い髪が風に漂い、こっそりマスカラでも着けているような彼女の長い睫毛は微動だにしない。
その姿は、優子に得たいの知れないプレッシャーを与えた。
一瞬遅れて、忍も安西の姿に気付く。
「よう、ひとみ、何処か行くのか?」
彼は優子が思っていたよりも、ずっと気さくに声をかけた。
「塾よ。あたしはあなたみたいに優秀じゃないから」
ひとみはポツリと呟くように言って、引き攣った笑みを浮かべると
「ふたりでずいぶん楽しそうね」
忍に向って言った後、鋭い視線が優子を貫く。
――あんたその視線、怖すぎなんだよ……
「帰りにたまたま五十嵐とあってさ」
忍は何時もと変わらない素振りで安西に言った。昔の彼女という雰囲気は全く感じない。
「そう、ずいぶん都合のいい、たまたまね」
再び安西の視線は優子に刺さる。
――本当に偶然なんだってば。しかも声をかけて来たのは彼なんだよ……その敵意剥き出しの目は止めなさいよ。
「ほ、ほんとうに偶然だよ……」
優子は彼女の視線に圧倒されながら、力なく声を発した。
「別に、どっちでもいいだろ。俺たちが一緒に帰ったって、ひとみには関係ないんだし」
――な、なんでそう言う言い方するかな。誤解を大きくしちゃうじゃないの。
優子は思わず忍の顔を見上げて困惑する。
「行こう」
忍は優子の手を取って歩き出す。
――ぎゃあぁ、手ぇ、繋いでる……あたし。
優子は忍に引っ張られるように歩き出すと、ホームの階段を上る。
「じゃ、じゃあね」
何とか声を発して安西に小さく手を振った優子だったが、当然のように彼女は手を振り返したりはせず、刺さるような視線に変化は無かった。
忍は優子の手を掴んだまま、駅を出て通りを渡る。
ちょうど横断歩道を渡り終えた所で、優子はさり気なく彼の手を振り解いた。
「あ、安西って、高森と何かあったの?」
「どうして?」
「う……べ、別に、何となく……」
――誰がみたって、どう考えたってあの視線は異常でしょ。何か限度を越えてるっていうかさ。
忍は何も言わなかった。しかし、優子はそれ以上訊く事ができずに、ただ忍と肩を並べて家までの道を歩いた。
家に着いて優子はふと思った。
忍と繋いだ手の温もりを、思い出せなかった……
低い空には雲が多く、その合間から時々薄っすらと青空が覗いている。
10月に入って雲はどんどん高くなる気がしたが、昨日と同じく曇り空は別だった。
翌日の土曜日、優子は自転車に乗って駅の反対側へ来ていた。
クラス名簿の住所を頼りに、安西ひとみの家を訪ねてみようと思ったのだ。
いや、実際に彼女に会って話をしようとは思っていないが、とにかく彼女の住んでいる場所を把握しておこうと思った。
もはや、彼女の存在を意識しない事は不可能だ。
国道を少し走って、駅に一番近い踏み切りを渡ると、見慣れない住宅街が広がっている。
駅の反対側は、商店街の開発もあまりないので滅多に来た事が無い。
中学の頃は何人か友達がいたが、みんな違う高校へ行ってしまい、今では行く用事が無いのだ。
安西の住所は駅から少し離れた場所だ。
少し広い通りから路地へ入ると、一軒家の合間にアパートや小規模マンションが目立つ。
住宅街としては、優子が住んでいる場所より古いのだろう。
かなり寂れたアパートも所々に目に付いた。
――住所だとこの辺りなんだけど。なんかぼろい家が多いような……
ふと辺りを見回した時、後に立っている人影に驚いて振り返った優子は、思わず声を失った。
――あ、安西? な、なんでメガネしてるの?
「な、何してんのあんた」
安西は黒い上下のジャージを来て、買い物袋を手に持っていた。そして、学校ではかけていない黒縁のメガネ。
黒い雲が低く空を覆いつくしていた。僅かに見えた青い空は何処にも無い。
「あ、あの……き、昨日の事は、ほんとに偶然っていうかさ……」
「そんな事言う為にあたしの住んでる家をわざわざ探してたってわけ?」
メガネ越しの安西の目は、いつも異常に険しく感じた。
「べ、別に探してたわけじゃないけど……」
空からポツポツと小さな雨粒が落ちてきた。
それはバタバタという民家の屋根を叩く音と共に、あっと言う間に周囲の景色を飲み込む。
安西の立ち止まっている横に立つオンボロのアパートの石の門柱には、住所録に載っていたコーポ飛鳥という小さな札が掲げられていた。