◆第2話◆
優子は自宅玄関のドアを開けると、静かにローファーを脱いだ。
小さい頃から共働きなので「ただいま」を言う習慣はない。
彼女の家はごく普通の小さな二階建ての一軒家で、さほど大きくない庭もついている。
父親は某乳製品メーカーで働き、母親は隣駅のスーパーでパートとして働いている。
「姉ちゃん、今晩は精のつくもの頼むぜ。俺、明日はガッチリ決めなくちゃならないからさ」
茶の間、いやこの家族はリビングと呼んでいるが……そこから弟の直樹が顔を出した。
――き、決めるって、なによ……まさか……まさか、あたしがまだちゃんと手も繋いだ事無いって言うのに、こんな弟に先を越されるっていうの。
だって、ち、中学生よ、まだ。いや、今時の中学生は進んでるって言うし……えぇぇ! そうなのぉ。あたし、弟に先越されちゃうのぉ?
「あ、あんた何言ってるの? 気色悪いこと言わないでよね」
「何が気色悪いんだよ。俺、明日はシュート2本決めるってみんなに誓ってきたんだぞ」
「し、シュート?」
「明日は新人戦の初戦だからな。気合入るぜ」
「なあんだ、サッカーの試合か」
――紛らわしい言い方すんなよ、このガキ。
「他に何があるんだよ。ん? 姉ちゃん、顔赤いぞ」
「うっさいわね」
優子は鼻を鳴らす勢いで直樹をひと睨みすると、階段を上がった。
彼女が内気なのは家の外での事なので、家族の前ではそんな素振りは一片のかけらもない。
弟の直樹は中学2年生。つまり、優子の家族は全部で4人だ。それと、小さな庭に黒毛の柴犬が一匹いるが、最近妙に太ってきた為、だれもそれが柴犬だと気付かない。
優子は制服を脱いでジャージの上下に着替えると、ベッドの上に横になった。
「はあ……」
訳も無く深い溜息をつくと、一葉が言った言葉を思い出した。
高森忍とぶつかった時の事を思い出してみる。
やっぱり何か匂いがした記憶はない。心の何処かが舞い上がって、匂いを感じる事が出来なかったのだろうか……
思えばあんなに男子に接近する事なんて滅多に在ることではない。
胸板と肩のゴツゴツした感触が蘇える。
――ぜったい気のせいだよ。何にも匂わなかったよ。
しかしその時、脳裏にほんのりとライムの香りがした。
穂のかに汗ばんだように火照った爽やかで微かに甘い香り……
――こ、これか? これがアイツの匂いか?
優子は思わずベッドの上に飛び起きた。
「もう、どうでもいいや、そんな事」
大きく首を振った彼女の頬に、肩につかないほどの髪の毛が暴れてまとわり着いた。
窓の外が暮色に染まる頃、優子は夕飯の支度を始める。
母親の帰りが遅い時は、夕飯の仕度は彼女の仕事だ。中学の頃から自然にそういう役割になった。
何となく何時の間にかそうなったので、優子は文句をいうタイミングも外してしまった。
ちょうどその時間になると、弟の直樹は佐助を連れて散歩に出かける。
部活のある日はもう少し遅い日もあるが、彼は夕飯前に必ず佐助を連れて散歩に行くのだ。
佐助とは、黒毛の太った柴犬の名前だ。
小学校の頃はろくに散歩をしなかった直樹だったが、中学に入って本格的に部活でサッカーを始めると、体力維持の為とか言って佐助の散歩をするようになった。
しかし、仕方無しに優子が散歩をしていた時に比べても走らせているはずなのに、どうして佐助が太るのかは家族全員の謎でもある。
母親は普段六時過ぎには帰ってくるが、父親が帰るのが八時頃なので、五十嵐家の夕食は自然にその時間になる。
「そうか、明日から中学総体の新人戦か」
父親の孝之助がビールを片手に機嫌よさそうに言う。といっても、彼の場合年がら年中機嫌はよく、のんびりしている。
「直ぐにレギュラーなんてすごいじゃないの」
母親の杏子はそう言って笑うと「頑張って、ホームラン打ってね」
「母さん、直樹はサッカー部だよ」
父親が思わず笑う。
「あら、だって前にグローブ買ってあげなかったかしら」
直樹が箸を口に入れたまま、呆れた顔で「そりゃ、小3の時だろ」
五十嵐家の会話はだいたいこんなものだ。
「ま、恥かかない程度に頑張るのね」
優子は味噌汁を啜りながら、ポツリと言った。