◆第13話◆
優子の具合がよくなって無事お昼を食べた後二人は、ファーストフード店を出た。
帰り際、もう一度あの女性にお礼をしなくてはと思った優子だったが、さっきの店員が見当たらない。
というか、はっきりと彼女の顔を覚えていないのも確かだった。
朧な記憶にある背格好で探してみるが、やっぱりいない。
休憩にでも入ったのだろうと思い、結局改めて御礼は出来なかった。
二人は駅前の百貨店に入り、展示場で開催されている絵画展を観る。
寄っていこうと言ったのは忍の方だった。どうやら、最初から予定に入っていたらしい。
「絵、好きなの?」
何だか目を輝かせる忍を見て、優子が訊いた。
「ああ、意外か?」
「うん。自分でも描くの?」
運動と勉強のイメージは強いが、絵画のイメージは確かにあまり無いような気がした。
美術の時間彼がどうだったか……クラスの女子の半分はそんな事は知っているのかもしれない。
しかし最近まで忍にも特に興味の無かった優子には判らないのだ。
考えてみると、忍に対しての予備知識が優子にはほとんど無い。
他の女子ならば、ちょっとした好き嫌いの情報くらいは持っているのかもしれないが……
「残念ながら、そっちはからっきしでさ。だから、観るのが好きなのかな」
展示場内はヒロヤマガタや鈴木英人など、見覚えのある巨匠のイラストが原画サイズの版画で沢山飾って在る。
「と言っても、普通のゴッホとかピカソなんかはよく解らないけど」
忍は笑みを浮かべて
「五十嵐は、絵は興味ないの? こういうイラストとか」
「う〜ん。少しは……落書きならするけど。でも、たまにはこうしてみるのもいいかも」
そう言って身体を動かした優子の手が、忍の手に触れた。
――ギャッ! て、手が……何だか一瞬暖かかった気がする。
ハッキリ言って、優子が男性の手に触れたのはかなり久しぶりだ。もちろん意図的に触ったり繋いだりした事はない。
以前に偶然誰かの手に触れたのは何時なのかすら覚えていないのだ。
弟の直樹の手さえ、最近は触れた覚えはない。
ほんの一瞬だったが、彼女は他人の体温に直接触れた感触が妙に生々しくて、相手も自分の体温を直に感じたのだろうかと思うと、とっさに声が出た。
「ご、ごめん……」
「あ、ああ。別にいいさ」
忍はそう言って笑うと
「五十嵐は、あんまり男の人と出歩かないのか?」
――な…そんなこと普通訊くかぁ。あたしって、もしかしてそういうの丸出し? それってヤバくない?
「あ、あんまり……」
――はっきりって中1以来あんたが初めてなんだよ。悪い?
「ま、そのうち慣れるだろ」
忍はそう言って再び笑う。
――何に? 何に慣れるって言うの? 別にあんたになんか慣れなくていいんだよ。それとも慣れて欲しいのか?
二人はぐるりと展示場を歩いて出口まで来ると、フロアのベンチに腰掛けた。
優子はこぶし四つ分空けて忍の隣に腰掛ける。
「この後どうする? 帰る?」
「えっ?」
――もう、帰るの? でもそんなもんか。別に行くとこないし。
「また痛くなると、困るだろ。とりあえず薬はあるけどさ」
忍は優子を心配している様子だった。
身動き取れないほど苦しむ痛みが、あっと言う間に引いてゆく優子の姿に不思議なイメージを抱いていたのは確かだろう。
またあんな風に痛がられても、自分にはどうする事もできないという不安があるのかもしれない。
「もう、大丈夫だと思うけど……」
――な、何言ってるの。まるで、あたしが帰りたくないみたいじゃん。別にそんなんじゃないのよ。高森ともっと一緒にいたいわけじゃないんだからね。
それともあれか? めんどくさい女って思われたのか? 高森がもう帰りたいのだろうか……
「じゃあ、少しブラブラするか。俺も暇だし」
「う、うん……」
優子は忍の言葉に、少しだけ安心する自分を感じていた。
彼が自分を邪魔くさいと思っていないと感じて、ホッと胸を撫で下ろす。
渋谷を暫くぶらついてから新宿へ出て中央線に乗った。
後は家路へ向う一本道だ。
秋空は、火照った夕映えに緋色の雲が波の様に浮かんでいた。
暮色に近づく空を見上げて、優子の中に安堵が込み上げてくる。もう家に帰っていい時間のような気がしたのだ。
やっと今日が終わる……夕暮れまでいれば充分だろう。
そう思うと同時に、何だか短いような長いような不思議な一日が終えようとする景色に、ちょっぴり切なさをも感じる。
電車の中ではあまり二人の会話は無かった
丁度帰宅ラッシュの時間と重なって下り電車は混んでいた為、二人共ドアの近くに並んで立っていた。
優子は隣で窓の外を眺める忍にチラリと視線を向け、それから窓の方を向いた。
ドア窓に映る忍の視線が優子を見つめていて、目が合うと彼は瞳を細めて笑う。
――な、何? その安堵に満ちたような優しい微笑みは。とりあえず何か喋りなさいよ。何だか意味深で分かんないよ。
優子も窓に映る忍に向って、はにかむような笑みを送るだけだ。
ビルの向こうに沈み切る夕陽は何だか物憂げに、ほんのりと優しく雲を照らしていた。