◆第12話◆
渋谷で映画を観た後の少し遅いお昼時、ファーストフードの店に入ると、優子の中に不安の兆候が見え始めていた。
朝に薬を飲んでから、既に4時間以上経っている。
――ヤバイ、薬が切れてきた。薬持って来たっけ……?
席について直ぐ、優子はバックの中を漁る。
――やっぱり持って来てない……急いで出たからだ。どうしよう……めちゃくちゃピンチ。
不安の兆候は高まる一方だった。
とりあえずポーチを片手にトイレに立つ。
「ちょっと……」
「ああ」
優子が全てを言わないうちに、忍は声を返してくれた。
――ヤバイよ。薬……
不安と共に、痛みはあっと言う間に身体の奥から湧き出てくる。
優子が席に戻ってくると、忍もトイレに立って行った。
周囲の席を埋め尽くすのは同世代が多い。誰もが楽しそうに話しこんでいるが、今の自分には無理な行為だと思った。
この空間で自分一人が不幸に向かって突き進んでいる気がする。
彼女は既にメニューを見る余裕がなくなっていた。
お腹が痛くてテーブルに突っ伏すしかない。
――どうしよう……お腹痛い……薬がないとヤバ〜イ。
優子は何時も薬で凌ぐタイプだ。それでも何時も以上に痛みが酷いような気がするのは、何時もと違う環境のせいだろう。
数分間がとてつもなく長い気がする。
薬のない不安が、余計に痛みを増幅させているかのようだ。
「おい、大丈夫か? 具合悪いのか?」
トイレから戻って来た忍が優子の様子に気づいて、席に駆け寄ってきた。
「ごめん……ちょっと……」
――どうしよう……生理って言えないよ……
「腹の調子が悪いのか? トイレ行ってきた方がよくないか?」
お腹を抱えるような彼女の姿に、忍は小声で言った。
優子はテーブルに突っ伏したまま頭を小さく振る。
忍はほんの少し思案を巡らせると、再び小さく声を出す。
「もしかして……あ、あれか?……あの日……ってやつか?」
優子は苦しそうにコクリと頷く。
もう何も思考する事は出来なかった。
「どうすればいい? 何時もは……学校ではどうしてるんだ?」
忍はテーブルに顔を近づけて、優子を覗き込むように訊いた。
――ぎゃぁ、そんなに覗き込むな……
「薬飲んでる……」
「薬って、正露丸か?」
――馬っ鹿じゃないの。正露丸でこのお腹痛が治るわけないだろう。それで、本当に成績トップなのか?
「鎮痛剤……」
消え入りそうな声で優子が応える。
「鎮痛剤かぁ。今持ってないのか?」
優子は再び小さく頷くと「買って来て……」
――わぁぁ、もうどうなってもいい。この痛みが止まるなら、どうでもいいや。
「ああ。分かった。ちょっと待ってろよ。さっきマツキヨが在ったから、俺行って来るよ」
忍はそう言って立ち上がると、店を出て行った。
――アイツ、本当に買いに行った? まあ、いいや。早く買って来て……
その時、誰か女性の声が聞こえた。
「何処か具合が悪いのですか?」
優子はやっとの思いで顔を上げると、目の前には赤い帽子にエプロンの女性が立っている。この店の店員だ。
同じ女性なら話しが早い。
「生理痛が酷くて、でも、薬が無くて……」
「鎮痛剤ならどれでも大丈夫ですか?」
女性店員は優しい声で言った。
「と、とりあえずは……」
「ちょっと待っていて下さい」
女性の立ち去る足音が聞こえた。周囲の席が、少しだけざわめいているのが分かったが、優子はもう顔を上げる気力が無い。
少しすると、再び女性店員が近づいて来るのがわかった。
「薬、お持ちしましたよ。お水もありますから、飲んで下さい」
――ああ、なんて優しい店員さん。渋谷の街も捨てたもんじゃないね。
優子はテーブルに手を着いて身体を起こすと、薬を口の中に入れてグラスの水を飲み干した。
「有難う御座います」
店員を見上げて優子は小さくお礼を言った。
周囲の視線を感じて辺りを見渡すのが怖かったので、再びテーブルに突っ伏した。
「少しの間こうしていていいですか?」
「はい、よくならない時は遠慮しないで呼んでくださいね」
「はい……」
――ああ、なんていい人。今度このお店宣伝してあげるよ。
根拠の無い宣言を、心で呟く……
店員の立ち去る足音が聞こえて間も無く、誰かの足音が近づいて来た。
息が荒れているのが分かる。
「買ってきたぞ」
忍の声だった。かなり走ってくれたのだろう、息が上がっている。
しかし優子は、既に薬にありつけた安堵で、危なく忍の存在を忘れかけていた……