プロローグ〜◆第1話◆
本作は意図的に情景描写を減らしてセリフや思考での表現を多くしています。
誰にでも読み易い趣向と、早いテンポを意識しています。
ダッシュ(―)で始まるのは、全て主人公である優子の思考です。
校舎の窓から午後の淡い陽差が注いでいた。
昼休みの喧騒が校舎内に響き渡り、行き交う生徒たちの隙間を満たしてゆく。
階段の踊場の窓から注ぐ光は、二日前にワックスをかけたばかりの床を虚ろに照らしていた。
キュッという音が微かに響いた。リノリウムの床に上履きの靴底が擦れた音だった。
「きゃっ」
五十嵐優子は階段の踊場から廊下へ出る角で、誰かとぶつかった。
人影が微かに見えて身をかわそうと身体を捻ったが、相手は余所見をしていたのか、彼女はまともに相手の肩の辺りに顔をぶつけて、手に持っていたものを床に落っことした。
――ちょっと何処見てんのよ、まったく。ちゃんと前見て歩けっての。だいたいこっちは身体半分避けてんだから、あんたが残りの半分避けなかったらぶつかるに決まってるじゃないの。
お陰で、次の授業で使う教材、床に落としちゃったじゃないの。もう、どうしてくれるのよ。
しかし、彼女はそんな言葉を口には出さない。
優子は眉根を寄せて一瞬顔をしかめた。
それはほんの一瞬で、相手がその表情に気付く間もない。
「ごめん、大丈夫だった?」
ぶつかった相手は同じクラスの高森忍。学年イチの秀才にしてスポーツ万能。当然、モテ男度も学年、いや校内TOPレベルだった。
同級生に限らず、上級生や下級生からも憧れの的だ。
バスケ部では並外れた運動神経を駆使して、172センチの身長ながら周囲のノッポ連中を当惑させる。
忍は優子が落とした教材を拾う為に身体を屈めた。
「ううん。平気よ。あたしこそボーっと歩いていて……」
かがんだ忍を見下ろすように彼女が言った。
彼は拾い上げた教材を優子の手の上に乗せると
「はい。何処も壊れていないようだね。よかった」
そう言って目を細め微笑んだ。
スポーツをやっているにしては少し細い首筋……それに程よく尖った顎先。
笑うと出来る目尻の小さなシワ。たいした光源も無いのに輝く白い歯。
鼻の上で長い前髪がサラリと揺れる。
――そんな笑顔があたしに通用するかっつうの。それで何時でも乗り越えられると思ったら大間違いなんだよ。
「あ、ありがとう……」
優子は小さく俯きながら、小声で応えた。
「五十嵐は偉いな。何時も教材とか運んで、真面目だよ。うん」
「……クラス委員…だから……」
――そう思うんだったら、少しは手伝えっての。だいたいあんたに褒めてもらったり哀れんでもらう筋合いはないんだよ。
「おい、忍、早く来いよ」
廊下の向こうで声がした。クラスの男子が忍を呼んでいた。
「じゃあ、頑張って」
忍は小さく手を上げると、小走りに仲間のところへ去っていく。
優子は一瞬彼を目で追うと、直ぐに視聴覚室へ向って歩き出した。
【1】
五十嵐優子16歳。
高校二年生の彼女は可もなく不可もないような普通の生徒だ。
親しい友達があまりいないのは、彼女の存在感が薄いせいかもしれない。
話し声が小さい為、あまり人と話す事は得意ではない。いや、人と話すのが得意でない為に声が小さくなるのか……
そんな彼女がクラス委員なのは、他薦による投票結果で、つまりどうでもいい奴がクラス委員になったというわけだ。
当然のように男子のクラス委員もどうでもいいような奴だから、ほとんど話もしたことが無い。
しかも優子から見てもドン臭くて手際が悪いので、用事はほとんど彼女が一人でこなしていた。
もう一人のクラス委員である舟越を見ると、いつも優子は思ってしまう。
――ったく、使えない奴。いっつもあたしが用事をこなしてるのに、お礼すら言った事が無い。
6時間目が終わった時、世界史の教師は宿題のレポートを集めて後で職員室へ持って来るようにクラス委員に言った。
レポートを集める優子は、結局男子の分も集めるはめになりながら自分の席でボケッとしている舟越を見る。
――なにあいつ。どういう思考回路で生きてんの? 自分がクラス委員だって事解ってないのか?
優子はひと通りみんなの分を集めると、舟越に近づいて手を差し出した。
「レポートは……?」
「ああ、俺忘れちゃってさ……」
舟越は完全に顔を上げようとはせず、少し太い声で言った。
優子に視線を向ける事は無く、正面の壁の辺りを見ている感じだ。
――つうか、あんたも集める係りなんだよ。気付けよウスラボケ。クラス委員が二人いるのに、あたしだけがせっせと働いてるのが不自然だと思わないのか?
「そ、そう」
優子はそれだけ声に出すと、彼から離れて職員室へ向った。
優子は学校帰りも一人の事が多い。
もちろん全く友達がいないわけではないが……
「優子、先に行っちゃうんだもん。軽く探しちゃったよ」
「ああ、一葉」
「ああ、じゃないよ。どうしてそうやって一人で帰っちゃうかな。優子は」
「だって、ぱっと見たらいなかったし」
「もう……」
一葉は息をついて肩をすくめる。
こんな具合に優子は一人でいる事に抵抗がないのか、自分から友達に声をかけて一緒に帰るような事もあまりしない。
「今日、お昼休みに高森とぶつかったんだって」
「な、なんで知ってるの?」
「男子が言ってたよ、優子が高森の肩にキスしたって」
「だ、誰よそんな事いうのは」
優子の身長は156センチしかないので、あの時忍の胸板というか、肩に顔がぶつかったのは確かだ。
ただ、キスというよりは、顔がめり込んだという感じだが……
――ざけんじゃねぇよ。誰があんなすかした男の肩にキスなんてするか。だいたい、何で一葉まで楽しそうにしてんの? 全然わかんない。
「ちょ、ちょっとぶつかっただけよ」
「でもさ、高森っていいニオイするよねぇ」
優子のいいわけには興味が無いように、一葉は遠くの空を見上げて言った。
「そ、そう? 別に何も匂わなかったけど」
――そりゃ、あんたの思い込みだよ。なんでアイツだけいいニオイなわけ? もしそうだとしたら、こじゃれた香水でも着けてるんでしょ。そんなの、アイツの匂いでも何でも無いじゃん。香水の匂いじゃん。
「あんた鈍感だから、匂わなかったんじゃないの?」
一葉はそう言って、あははっと声を上げて笑った。
もちろん、本気で馬鹿にしているわけでは無いのだが……
――なんで? なんであんたにそこまで言われなくちゃいけないの? この色ボケ女。
「あはは……そ、そうかな」
優子は困惑した表情を隠すように、軽く声を出して笑って見せた。