娘、思い至り、決意する
リシャールが託していった子猫は、すぐに『海豚とオリーブ亭』での暮らしに馴染んだ。
雨に濡れそぼっていたときにはいかにも弱々しく見えた子猫だったが、飢えを満たし充分に休息を取ってみれば、健康で活発――むしろ活発すぎるほどに元気だった。
最初のうちこそ新しい環境に馴染めず大人しくしていたが、じきに跳ね回り、よじのぼり、潜り込み、様々ないたずらをしでかすようになった。
ファビアンもコレットも猫好きだったので、多少のいたずらは大目に見られていた。だが、宿屋の仕事に差し障りそうな事柄に関しては厳しかった。特に、トイレを定めそそうをさせないようにすることと、上階の客間に勝手に上がらせないこと、という二点に関しては、徹底していた。
子猫の細かい世話は、ほぼセレスティーヌに任されていた。
餌を与え、相手をし、しつける。そういった日常の繰り返しを、セレスティーヌは心から楽しんでいた。
だが、セレスティーヌには気がかりなことがあった。
あの雨の日から、もう五日以上経っている。なのに、あれ以来、一度もリシャールが姿を現さないのだ。
「お前、セレスティーヌだっけ」
いつものように外の猫たちに餌をやり終え、器を片付けて戻ろうとしていたセレスティーヌを呼び止めた者がいた。
「アラン様?」
振り返ると、リシャールの従者アランが、睨みつけるような目でセレスティーヌを見据えていた。
少年は洟をぐずらせ、目を赤くしている。猫が集まる場所に来たせいかもしれない。
「少し話したいことがある。いいかな?」
「あの、これから宿屋の掃除をしないと」
「ああ、時間はとらせない。すぐに終わるはずだから」
少年は有無を言わせぬ強い調子で言い切った。
その表情、その口調からは、強い怒りが感じられる。
「どのような御用でしょうか」
「これ以上、リシャール様を惑わせるな」
「惑わせる? どういうことですか」
なるべく平静を保とうとした。だが、怒りもあらわにぞんざいな言葉を使う少年につられ、どうしてもどこか険を含んだ言い方になってしまう。
「リシャール様は最近、ここでお前に代わって猫の餌やりをなさっていたそうだな。
そしてこの間の子猫の件だ。
ああいったことは、リシャール様のなさるべきことじゃない」
「おっしゃることがわからないわけじゃありません。
でも、何をなさり、何をなさらないかを決めるのは、リシャール様ご自身でしょう?」
「そんなことは言われなくてもわかってる。だけど、余計な誘惑はしないで欲しい。
あの方の身を危うくするようなことなど、僕は見過ごせない。
たとえ、あの方が心の底ではそれを望んでおられようとだ」
「あの方の身を危うくする……?」
「お前はあの方のことなんか何もわかっていない。
お前のような宿屋の小娘に、あの方が生きておられる世界のことなんて、わかるはずがない」
そんなことない。
反駁しかけて、セレスティーヌは言葉を飲み込んだ。
「あの後、リシャール様はお風邪を召された」
あ、とセレスティーヌは小さな声を漏らす。
「そりゃそうだろう? ずぶ濡れに濡れて、でも、すぐには充分に乾かすこともできなかったんだ。
もちろん、そういった不都合にも耐えられるよう、リシャール様は鍛えていらっしゃる。
だけど、それでも体調を崩されるときだってある。
そうなれば、しばらくは人に会うこともままならない。甲冑を身につけても平気でいられるくらいに回復するまでは」
「お元気に……なられたんでしょうか」
「ああ、昨日あたりからは普段と同じようにお過ごしだ。
だけど、今言いたいのはそんなことじゃない。
あの甲冑、あれをリシャール様が酔狂で身につけているとでも思っているのか。
あんな不便なもの、必要がないなら脱いだままでいたいはずだろう。だけどあの方にはあれが必要なんだ。
それほどあの甲冑の持つ力は大きくて、そして、それほど危ういところにあの方はおられる」
彼はなぜいつもあの甲冑を身につけているのか。そのことを疑問に思わなかったわけではない。だが、どうして必要か、などとは考えていなかった。
リシャールははにかみがちなところはあっても、いつもどこか明るくて、翳りのようなものを見せたことはない。だが、様々な不都合に耐えてもあの姿でいなくてはならない背景には、なにかよほど特別な事情があるのか。
「猫にかまうとか、そんなこと、お前からしてみれば、ささいなことだろう。
だけどそんなささいなことが、大きな綻びに繋がるかもしれない。
だから僕は、お前をリシャール様の傍に近寄らせたくない」
「じゃあ、わたしはどうしたら……」
「リシャール様に関わるな。もう、お前からは声をかけるな。猫の餌やりなんてもっての他だ。
宿屋で言いつかった用事以外のことで、あの方の傍に寄りつくな。
もしお前に、あの方の身を案じる気持ちがあるなら」
「そうすることが、あの方を守ることになると?」
「そうだ」
傲慢とも思えるほど強い調子で少年は言った。
「理解しろとは言わない。説明もしない。
したってわかるはずもないし、僕なんかがあの方の大事を明かすわけにはいかないから」
翌日の昼下がり、久々にリシャールが『海豚とオリーブ亭』の裏手に姿を現した。
いつもと同じように、リシャールは少し離れた場所で足を止め、セレスティーヌに向かって軽く手を振った。
いつもなら、セレスティーヌはリシャールの傍に歩み寄り、残飯の器を渡す。
だが、セレスティーヌは会釈もせずに屈みこんで、そのまま器を地面の上に置いた。
猫たちがすぐに駆け寄り、餌を食べ始める。
呆気にとられ、言葉を発することもなくただ立ちつくしているリシャールを視界の隅に収めながら、セレスティーヌは顔を背け、ひたすら猫たちが食べ終えるのを待つ。
リシャールは近づいてこない。猫たちを驚かし、追い散らすことを恐れているのだろう。
最後の一匹が器から顔をあげるのを確認すると、セレスティーヌはすぐに器を持ち上げ、そそくさとその場を立ち去った。
裏戸を開け、台所に入る。手に持っていた器に汲み置きの水を少しかけ、こびりついた汚れをこすり落とす。
涙がこみ上げてきた。
(これでいいんだ。リシャール様のためにも、わたし自身のためにも)
そう懸命に自分自身に言い聞かせ、セレスティーヌはアランに言われた言葉を反芻した。
――お前はあの方のことなんか何もわかっていない。お前のような宿屋の小娘に、あの方が生きておられる世界のことなんて、わかるはずがない。
否定したかった。だが、できなかった。
アランの言うとおりだと、セレスティーヌ自身もわかっていたから。
住んでいる世界が違う。
そんなことは最初からわかっていたはずだ。だが、忘れていた。忘れたままでいたかった。
呆然と立ちつくしていたリシャールの姿が、胸の中から消えない。
何が起こっているのかわからなかっただろう。先日までとはあまりにも異なるセレスティーヌの態度に、ただただ当惑していたのではないか。
せめて理由を話すべきだったのだろうか。
だめだ。そんなことはできない。
口を開けば、きっと余計なことまで話してしまう。距離を置くことなど、できなくなってしまう。
黙っていよう。黙って、ただやりすごそう。
足元に子猫がすり寄り、催促するように鳴いた。
「お腹すいた? もうちょっと待ってね」
外の猫たちの食事が終わったら、子猫に餌をやるつもりだった。忘れていたわけではないが、自分の思いにとらわれ、後回しになっていた。
子猫用に使うことに決めた平皿に、取り置いてあった茹でた鶏肉を載せ、床に置く。
子猫はすぐに駆け寄ると、嬉しそうに食べ始めた。
「ごめんね、ティグル……」
子猫を眺めていると、抑え込もうとしていたものが、またこみ上げてくる。
この子猫のことだって、リシャールに話したかった。
すっかり元気になったこと。思いもつかないいたずらをしでかすので、毎日驚かされていること。やんちゃな性格と縞柄の毛並にちなんでティグルと名づけたこと。
話せばきっと喜んでくれただろう。楽しいと言ってくれただろう。
でも、そんな話をすることはもうないのだ。
なぜ、それがこんなにつらいのか。
ついこの間まではまったく知らない人間だった。今だって、知っていると言えることがどれほどあるというのか。
セレスティーヌは彼の正確な家名も、今まで歩んできた人生も知らない。なぜあの甲冑を着ているのか、着なくてはならないかも知らない。そもそも、その素顔すら知らない。
知らないことばかりだ。
それなのに、リシャールはセレスティーヌにとって、離れがたい存在になっていた。
どうして。いつの間に。
問いかけても詮無いことだ。
理由もかかった時間も関係ない。ただ、今、そういう状態にあるという事実だけが、覆しようもなく存在している。
餌を食べ終わったティグルが、足元にすり寄り、もの問いたげにセレスティーヌを見上げて、小さく鳴いた。
次の日も、その次の日も、リシャールは続けて姿を現した。
その度に、セレスティーヌは前日と同じようにやり過ごした。
そして今日も、リシャールは来ている。
今までにないことだ。
リシャールは忙しいはずだ。毎日ここに通うためには、何かをないがしろにしているか、かなり無理をしているはずだ。
病み上がりだと聞いている。無理はして欲しくないのに。
内面の思いを押し包み、セレスティーヌはリシャールから顔を背け、淡々と手順どおりの動作をこなそうとする。
突然、金属のこすれあう耳障りな音が、辺りに響いた。
リシャールが物陰から歩み出て、まっすぐにセレスティーヌに向かって歩いてくる。
猫たちが驚いて散り散りになるのも気にかけず、リシャールはセレスティーヌの横で足を止め、いきなり肩を掴んだ。
「セレスティーヌ! なぜ!」
「リシャール様……」
「私は何か間違えたのか。なぜ君は……」
「いいえ、何も」
「ならば、なぜ」
「放してください。少し痛い……」
はっとして、リシャールはセレスティーヌの肩から手を離した。
「すまない。つい……」
「リシャール様はなにも悪くありません。わたしが間違っていただけです」
「どういうことだ」
「わたしなんかが、あなたと関わってはいけなかったんです」
「セレスティーヌ?」
「……猫たちに、餌をやらないと」
「あ……」
セレスティーヌが屈みこみ、餌の器を地面に置くと、猫たちが再び集まってきた。
セレスティーヌは屈んだまま地面を見つめる。その背後に、リシャールは彫像と化したように、身じろぎもせず立ちすくむ。
猫たちが食事を終え、去っていくのを確認すると、セレスティーヌは器を手に立ち上がった。
「……リシャール様」
リシャールと顔を合わせず、セレスティーヌは呟くように言った。
「わたしは、ただの宿屋の下働きです。だから」
「そんなことを、なぜ、いまさら」
「お願いです。もう、わたしにはかまわないでください」
リシャールが息を呑む。
「あの子猫は元気です。とても元気で、手を焼いているくらいです」
顔を背けたまま、セレスティーヌは淡々と言葉を続けた。
「名前をつけました。ティグルっていいます。
店長も、おかみさんも、ちゃんとかわいがってくれています。だから心配しないでください」
「セレスティーヌ、私は」
リシャールは抑えた声で、振り絞るように言った。
「私は、君と話がしたい」
セレスティーヌは振り返り、リシャールを見上げた。
「リシャール様」
小さな、だがはっきりとした声で、セレスティーヌは告げた。
「わたしから申し上げることは、もう何もありません」
言葉を失い呆然とするリシャールに一礼すると、セレスティーヌは背を向け、裏戸へと向かった。
その日を境に、昼下がりにリシャールが『海豚とオリーブ亭』の裏手を訪れることはなくなった。