甲冑の騎士、縞柄の子猫を持ち込む
二ヶ月が過ぎた。
甲冑の騎士リシャールは、相変わらず猫の食事時に『海豚とオリーブ亭』の裏手に姿を見せている。
リシャールは忙しい日々を送っていると、セレスティーヌは人づてに聞いた。代官の補佐役として街の者たちと話し合い、自らも頻繁に『遺跡』の探索に出かけているという。
実際、彼が訪れる回数は決して多くはなかった。
騎士の姿を見かけるたび、セレスティーヌは彼に猫の餌やりを任せた。
最初は見るからに警戒していた猫たちも、次第にリシャールに対する警戒を解いていった。最近では彼が餌の器を手にすると、時間を置かずその傍に寄ってくるようになっている。
そういったささいな変化を、リシャールは心から喜んでいるようだった。
知り合ってからそれなりの時間が経過したものの、リシャールとセレスティーヌは、さほど多くの言葉を交わしてはいない。
ただ一緒に猫に餌をやり、一緒に猫たちの姿を見つめ、ほんのすこし、言葉を交わす。
その会話の内容は、ほとんどが猫のことであった。
たまに、猫とはあまり関係ない話をすることもあった。
昨日の食事の話から、好きな食べ物の話をしたことがあった。
魚の買いつけに港に出かけた話から、故郷の村とこのダルジャンの違いに話が及んだこともあった。
ただ、そういった話題を口にするのは、主にセレスティーヌだった。
リシャールは黙って嬉しそうに話に耳を傾け、たまに問い返してきた。だが、話題がリシャール自身のことに及ぶと、やんわりと話の方向を変え、うやむやにして結局は答えずに済ませるのだった。
そのことを少し不思議に思いながらも、セレスティーヌはそういうものとして受け止めていた。
昼下がりのひと時は、心地よく、なぜかすこしばかり心弾む時間となっていた。
裏戸の近くに生えるオレンジの木には、白く薫り高い花が咲きほころび、間もなく満開を迎えようとしている。
季節は夏に移ろうとしていた。
先ほど降り始めた雨は、次第に激しさを増していた。
猫のための残飯を入れた器を手に、セレスティーヌは裏戸を開け、路地裏に出た。
(今日はさすがに来てないよね)
雨の日でも猫たちは腹を空かせてやって来る。だが、猫の好きなあの甲冑の騎士は、さすがにこんな日にはやって来ないだろう。
激しい雨に視界はかすみ、見通しは極端に悪い。
「おいでおいで」
物陰で雨宿りをしている猫たちに小さな声で呼びかけ、セレスティーヌは屈みこんで器を下に置いた。
「セレスティーヌ」
雨音に混じって、彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げると、目の前に甲冑の騎士が立っていた。
「リシャール様?」
セレスティーヌは慌てて立ち上がり、リシャールと向かい合う。
「どうして……こんな天気なのに」
「屋敷を出たときはまだ降っていなかった。来る途中で降り始めて」
みゃう……
騎士の胸元からかすかな鳴き声が聞こえた。
「それは?」
「雨の中で見つけた」
そう言って、リシャールは胸元に抱えていたものを差し出した。
子猫だ。
籠手をつけた手は、宝物か何かのように、そっと子猫を包み込んでいた。
目は開いているものの、まだ幼い。生まれてひと月半といったところか。
焦げ茶の縞模様の、いわゆる雉虎と呼ばれる毛並の子猫だ。
濡れそぼった子猫は、小さな、だが無視しがたい声で懸命に訴えかけてくる。
「鳴き声が聞こえて、つい姿を探してしまった。拾うべきではないとは思った。だが、置いては来られなかった」
「早く中へ。リシャール様もびしょ濡れじゃないですか」
セレスティーヌは背後の戸を開け、中に入るよう、リシャールを促した。
台所を通り抜け、食堂として使われている広間に騎士を通した。
「セレスティーヌ?」
異変を感じたのだろう。奥で帳簿に目を通していた『海豚とオリーブ亭』の主ファビアンが、広間に移動してきた。
「リシャール様!」
甲冑の騎士の姿を目にして、ファビアンは驚きの声をあげた。
「いったい……」
「途中で雨に降られた。小降りになるまで待たせてはもらえないだろうか」
「この雨の中、外にお出しするわけには参りません。どうぞお留まりを」
「すまない」
リシャールはぎこちなく頭を下げ、言葉を足す。
「よければ屋敷への使いも頼めないだろうか。心配をかけているのではないかと思う」
「承りました」
「セレスティーヌ」
リシャールは向き直り、セレスティーヌに子猫を差し出した。
「すまないが、この猫の面倒を見てやってくれないか。私はこのとおりだから」
籠手に包まれた手を掲げ、リシャールは苦々しげな口調で言う。
「は、はい。でも……」
セレスティーヌはちらりとファビアンに視線を投げかけた。
「リシャール様のお言いつけだ。店の用事はいいから、その猫の面倒を見てやりなさい。
但し、客間には入れないように。台所を使いなさい」
「わかりました、店長」
「今は開店前だ。叔父さんでいい」
「はい、叔父さん」
台所では、ファビアンの妻である料理人のコレットが、夜に出す食事の仕込みを始めていた。
セレスティーヌが胸元に抱いている子猫に気づくと、コレットはもの問いたげなまなざしを向けた。
「叔母さん、すみっこを貸してください」
「かまわないけれど……いったい?」
「リシャール様から預かってるんです」
「ああ、そういえばさっき。でもなぜ?」
「雨の中で拾ったんだそうです」
「そこの椅子を使いなさい。タオルはある?」
「はい」
「しっかり拭いてやらないと。濡れたままにしていたら弱ってしまうから」
コレットに勧められた椅子に座り、セレスティーヌはタオルを拡げ、子猫の体を包み込む。
ミィ……ミィ……
子猫は何かを訴えかけるように、か細い声で鳴き続けている。
「よしよし」
セレスティーヌは呟くように声をかけながら、少しずつ水気を拭きとっていった。
体が乾いて少し落ち着いたのだろう。子猫の声は次第に穏やかなものへと変わっていった。
「お腹を空かせていると思うわ。これを」
コレットが横に来て、ぬるいミルクの入った小皿を差し出した。
「ありがとうございます」
セレスティーヌは皿を受け取り、子猫の口元に寄せる。
だが、子猫はかぶりを振り、皿から頭を離そうとする。
(人間から食べ物をもらったことがないのかな)
セレスティーヌは指先をミルクに浸し、子猫の口元を軽く濡らした。
子猫は小さな赤い舌を出し、口の周りを舐める。
「そうそう……」
セレスティーヌは子猫の口元に皿を寄せたまま、その口元をミルクで濡れた指でなぞり、少しずつ飲ませていった。
そうするうちに、皿にミルクが入っていることに気づいたのだろう。子猫は直接自分で皿からミルクを舐め始めた。
小皿いっぱいのミルクを飲み終えると、子猫はすっかり落ち着き、セレスティーヌの膝の上で丸まって寝息を立て始めた。
すっかり乾いた縞柄の毛並は、ふわふわとして綿毛のように柔らかい。
カシャン
もう耳慣れた金属音が聞こえた。
顔を上げると、リシャールが台所の入り口に立ち、こちらを見ていた。
近づこうとするリシャールに首を振り、そのまま止まるよう伝えると、セレスティーヌは子猫を胸元に抱いて立ち上がり、静かにリシャールに歩み寄った。
「落ち着いたみたいです。眠ってしまいました」
「そうか」
「リシャール様は大丈夫ですか。かなり濡れておられましたけど……」
「大丈夫だ。拭えるだけは拭った」
「でも……」
「雨も小止みになった。じきに屋敷の者が迎えに来ると思う。迷惑をかけた」
「いえ、迷惑だなんて」
「子猫は……」
「乾かしてミルクをやりました。ご覧になられますか」
「いや、寝ているのだろう。起こしたくはない」
リシャールは籠手に包まれた自分の手を持ち上げ、しげしげと眺めて、ため息をついた。
本当は子猫に直接触れたいのだろう。だが、籠手ごしでは子猫のふわふわした感触はわからない。それに、いくらリシャールがうまく力を加減できるとしても、眠っている子猫に籠手をつけた手で触れては、起こさずにはおかないに違いない。
「その籠手は……外すわけにはいかないのですね」
「……ああ」
リシャールは甲冑を脱ぐわけにいかない。理解していたはずだった。
だが、この甲冑でよろい続けるのは、リシャール自身にとってどんな意味を持っているのだろう。日々起こる様々な不都合に耐えねばならず、子猫を撫でてみたいといった、ほんのささやかな望みを叶えることすらままならない。
「リシャール様、お迎えの方が」
ファビアンに伴われて姿を現したのは、従者の少年アランだった。
「リシャール様、心配しました。こんな雨の中、お出かけになるなんて」
「すまなかった。すぐ戻るつもりだったのだ」
「早く戻りましょう。今日中に片付けてしまわないといけない案件がまだ」
「そうだったな」
「あの、リシャール様、この子は……」
「……うむ」
セレスティーヌの問いかけに、リシャールは言葉を詰まらせる。
その様子を見咎め、アランが詰め寄った。
「なんだ、それは?」
だが次の瞬間、アランは顔を背け、激しくくしゃみをし始めた。
何が起こったのだろう。状況が把握できず、ぽかんと眺めていたセレスティーヌに、リシャールがややきつい口調で言った。
「セレスティーヌ、すまない。ちょっと下がってもらえるか」
「は、はい」
「ックシャン……リシャーッル、様ッ、それは……」
「すまない、アラン。猫だ」
「ねっ、猫ッ……」
「大丈夫か。少し向こうに行ってなさい」
「大丈夫ッ……ですっ……」
「いいから、少し下がっていなさい」
いつの間にか姿を現したマノンが、すっと横合いからアランの背に手をかけた。そして近くにあった椅子を引き出し、少年に座るよう促した。
一瞬抵抗しようとしたものの、アランはマノンに従い、椅子に腰を降ろす。
「リシャール様、いったい……」
「アランは猫を受け付けない体質なのだ。
猫に近寄ると、くしゃみが出て止まらなくなってしまう」
「あ……」
合点がいった。
なぜ、リシャールが猫を見に来るときに限って、従者アランを伴っていないのか。
短い付き合いの中でも、セレスティーヌは理解していた。リシャールは他人に心配をかけることを知りながら、自分勝手な行動を取るような人間ではない。
アランはリシャールをひとりにすることを嫌う。リシャールが外出することを知っていたら、たとえ猫を見ることが目的であったとしても、アランはきっと行動をともにしようとしたはずだ。
だが、猫に近づけば、今のような発作に見舞われることになる。だからリシャールは、猫が目的の時は、アランに黙ってひとりで出かけていた。
従者への思いやりと、自分自身の望みとを天秤にかけ、どうにか釣り合いを取ろうとした結果の行動だったのだ。
「では、この子をお屋敷に連れ帰るわけには」
カシャ
軽く金属のこすれあう音がした。
「……ああ。そうだな」
長い沈黙の後、リシャールは首肯した。
セレスティーヌは記憶を辿る。雨の中で、リシャールは何と言っていただろう。
――拾うべきではないとは思った。だが、置いては来られなかった。
結局のところ、自分にはどうすることもできない。最初からリシャールはそのことを承知していた。それでも、降りしきる雨の中に子猫を置き去りにすることができなかった。衝動に駆られ、つい手を差し伸べてしまった。
(ああ、なんて……)
リシャールらしいのだろう。
彼について多くを知っているとは思わない。だけど、この人はそういう人だ。そして恐らくは自分自身も、同じ状況では同じ行動をとったのではないか。
「その猫、うちで引き取らせてもらえませんか」
突然、背後から声をかけてきた者があった。
「コレット?」
「叔母さん……」
料理人のコレットが腰に手を当て、台所から繋がる入り口に立っていた。
「ネズミ除けに、台所に猫を一匹置きたいと思っていたところだったんですよ。
世話なら、セレスティーヌが楽しみながらやってくれるだろうし」
「しかしお前……」
店主のファビアンが反駁した。だが、コレットは首を振り、きっぱりと言った。
「客間には入れさせない。客に出す料理が妙なことになるようなマネも許さない。
それなら問題ないでしょう?」
「お前がそう言うなら……」
いかにもしぶしぶといった調子でファビアンは応えた。
「なら決まった」
「すまない。コレット、ファビアン」
「気になさらないでください。渡りに船というものですから。ねえ」
同意を求められたファビアンは、妻の勢いに押され、こくりと頷いた。
「ではせめて、猫の世話にかかった費用などを、私に求めてくれないか。
拾ってきた猫をただ押し付けたとあっては、気が引けて仕方ないのだ」
「そんなお気遣いは無用です。私どもにとっても、ありがたいことですので」
「しかし……」
「なら、今後もうちをご贔屓にしてくださる、というのではいかがです?
その猫の様子を見がてら、お立ち寄りくださるとか。
私どもも商売人です。損になる話は請け負いませんよ」
「……なるほど」
コレットの提案に、リシャールはゆっくりと頷いた。