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娘、甲冑の騎士に餌やりを勧める

 甲冑の騎士リシャールは『海豚とオリーブ亭』の裏手に、時折姿を現す。

 彼の姿を見かけるのは昼下がり、猫の食事時間だ。やはりリシャールは猫を見るために、ここに来ているらしい。


 ネズミはどこからか忍び込んできて蓄えを食い荒らすやっかいな存在だ。そのネズミを退治してくれる猫は、人間にとってありがたい生き物である。

 街に住み着いている猫に対し、ダルジャンの住民たちはおおむね友好的で、目に余るほどの害を及ぼさない限りは、共に暮らしていく存在として受け入れている。


 この界隈にも、半分野良、半分飼い猫のような猫が何匹か住み着いている。『海豚とオリーブ亭』では、亭主やおかみさんが猫好きなこともあって、そういった猫たちに店の残飯を与えていた。


 昼の食事時が終わった頃、セレスティーヌが残飯の入った器を手に裏戸を開けて出てくると、猫たちはいっせいに寄ってきて、その足元にまとわりついて食事をねだる。中には行儀悪く体を伸ばし、スカートに爪を立てるものもいる。

 器を地面に置くと、くぐもった声を洩らしながら懸命に食べ始める。中には押しのけられ、食いはぐれるものもいるが、そんな猫のためには別の器を用意し、なるべく均等に行き渡るように気を配る。

 お腹がいっぱいになった猫はてんでに伸びをしたり、毛づくろいをしたりと、くつろいだ姿を見せた後、三々五々散っていく。たまには喧嘩も起こるが、集まる猫の数がそう多くないこともあり、猫の食事の時間はたいていのどかなひとときとなる。


 こういった猫たちの動きのひとつひとつに、リシャールが目を引かれ、心を動かされているのが、セレスティーヌには手に取るようにわかった。


 リシャールは離れたところからそっと様子を窺っており、近づいてこようとはしない。

 ものものしい甲冑姿があまり人目に触れぬよう、建物の陰に身を寄せ、耳障りな音をうかつに立てぬよう、動作のひとつひとつにも気を配る。

 隠密行動にはまるで不向きな金属の塊が、気配に聡い猫たちに気づかれまいと息を潜めるその様は、はっきり言って滑稽である。滑稽ではあるが、同時に、ほほえましいというか、切ないというか、なんとも言い表しにくい気持ちをかき立てるものでもあった。


 まるで叶わぬ恋の相手を陰から見守っているみたい。

 そんな感想をマノンにもらしたところ、彼女は大笑いしながらも、うんうんと大きく頷いた。

「実際そのとおりだものね。近寄ろうとすれば逃げられるから、触るのすら難しいし。まして抱き上げるなんて夢のまた夢。叶わぬ悲恋よねえ」



 なんとかしてあげられないかな。

 いつの間にか、セレスティーヌはそんなことを考えるようになっていた。


 セレスティーヌも猫が好きだ。

 幼い頃から、いつも身近なところに猫がいた。猫のいない生活を考えるほうが難しいくらいだ。

 あのくにゃりとした柔らかな抱き心地も、手に馴染むなめらかな毛並も、猫ならではの魅力だ。

 陽だまりでうつらうつら昼寝する髭の垂れ下がった年寄り猫も、せわしなく飛び跳ねじゃれあうふわふわの子猫も、見ているだけでこちらを幸せな気持ちにしてくれる。


 だから、触れてみたいのに近寄ることすらできず、距離を取りながらただひたすらにその姿を追いかけるだけなどというのは、ひどくつらい状態のように思われるのだ。



 今日も来てるんだ。

 いつもの場所に、もう馴染みのものとなったその影を見つけたセレスティーヌは、意を決して甲冑の騎士に歩み寄った。

「あの、リシャール様」

 カシャン、と鎧が小さな音を立てる。

「猫に餌をやってみませんか?」

 セレスティーヌは残飯の入った器をリシャールに差し出した。

「私がか?」

「はい、リシャール様が」

「しかし……大丈夫だろうか。猫が怯えて逃げてしまうのではないか」

「あまり派手に動かなければ、たぶん大丈夫です。この子達、お腹を空かせてるだろうし、人には慣れてるはずですから」

「そうだろうか」

「ええ、きっと。駄目だったらわたしが代わります。だからとりあえず一度」

「う、うむ……」


 ためらいながらもリシャールは器を受け取り、通りの中央に歩み出た。

 ガシャンガシャン

 甲冑が大きな音を立てる。

 集まっていた猫たちは動きを止め、耳を伏せてじっとリシャールを見つめる。

 リシャールは手を伸ばし、自分の体からやや離れた場所にそっと器を置いた。

 猫たちはすぐには動き出さず、様子を窺い続ける。

 リシャールは息を詰めて猫を見つめる。


 そのとき、一匹の若い黒猫が立ちがり、軽い足取りで器に歩み寄ってきた。

 餌の前まで来ると、黒猫は足を止め、離れた位置で見守っているリシャールを一瞥した。だが、すぐに興味を失ったかのように器に視線を移し、ふんふんとその匂いを嗅ぐ。

 そしておもむろに口をつけ、はぐはぐと食べ始めた。

 黒猫が食べ始めると、他の猫たちも動き出した。次々と器の周りに集まり、いつもと同じように餌を食べ始める。


 その猫たちの様子を、リシャールは身じろぎもせずに見守っていた。

 ガシャリと音を立てようものなら、猫たちは逃げ出すかもしれない。だから絶対に体は動かせない。その緊張は、リシャールの背後に寄り添うように立つセレスティーヌにも伝わってきた。


 やがて餌の器が空になると、猫たちはいつものように散らばっていき、それぞれの場所に落ち着いた。


 最後の一匹が器から離れるのを見届けると、リシャールは大きく息をつき、緊張を解いた。

「いつもみたいに食べてましたね」

 セレスティーヌは背を屈め、そっと小声で話しかける。

「そうだな」

 振り返らず、前方に目を据えたまま、甲冑の騎士は応えた。

 リシャールは空になった器を持ち上げ、そろりと立ち上がる。そして振り返って器を差し出し、セレスティーヌに声をかけた。

「ありがとう」

(あ……)

 何気ない一言だ。だがその声は、心の底に深く染みわたった。

「たぶんずっとこうしてみたかったのだ。だが叶うとは思ってもいなかった」

「あの……もしよければ、次もまたやってみます?」

 カシャ

 甲冑が軽い音を立てる。

「構わないのか?」

「ぜんぜん構いません。むしろ、こんな雑用をお願いするなんて、失礼にあたるんじゃないかと」

「失礼だなど……感謝する。君は、ええと」

「セレスティーヌです」

「たしか『海豚とオリーブ亭』のファビアンの姪御だったな」

「はい。この春から叔父の世話になってます」

「なるほど。セレスティーヌ殿」

 その呼びかけに、セレスティーヌは、あ、と小さく声をあげた。

「殿、だなんて。あの……どうか呼び捨てにしてください」

「うむ?」

「分不相応な呼ばれ方では、居心地が悪いのです」

「……そうなのか」

「ええ」

 相槌を打ってから、ふとセレスティーヌは思い当たる。今の態度は少しばかり不躾だったのではないだろうか。

「あ、生意気なことを。すみません」

 わたわたと謝罪する娘に、騎士は困惑を滲ませた声で言う。

「いや、私のほうこそ配慮が足りなかった。感謝と敬意を示すつもりが、かえって居心地の悪い思いをさせてしまったとは」

「いえ、そんな」

「改めて礼を言わせて欲しい。感謝している、セレスティーヌ」

 感謝している。

 その言葉は、不思議な温かみをもって、深く、力強く、セレスティーヌの胸に広がっていく。

(ああ、この人はなんて……きれいなんだろう)


 リシャールの顔は隠されていて見えない。声はくぐもっていて鮮明ではない。体つきも、その身を厚く覆う甲冑のせいで、おおよその身長くらいしかわからない。行動に到っては、むしろ奇矯とさえ思える部分がある。

 なのに、セレスティーヌは彼を美しいと感じた。


 リシャールは美しい。

 背筋を凛と伸ばして立つその姿は、静かでありながら力強い。兜にさえぎられてなお、その声は深く、豊かに響く。

「ありがとうございます。リシャール様」


 今しがた感じたものを伝えるにはあまりにも貧弱な言葉だと思った。

 だが、それ以上の言葉を思いつくこともできず、セレスティーヌはただ、素朴な感謝のみを口にした。

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