チヨとルーノと暗がり森の魔女
ありまさんの月餅企画に捧ぐ作品です!
素敵な企画をありがとうございます(*´∀`*)
むかしむかし。
この国には、とても賢い王様と、心優しいお妃様がいました。
そんな、2人の間に生まれた王子は、それはそれは美しく、賢く、優しい子供でした。
民も皆、そんな王様たちが大好きで、国は喜びと幸せに包まれていました。
けれども、突然の流行病が国に襲いかかりました。
咳が止まらなくなり、血を吐いて死んでしまう、恐ろしい病気でした。
民が病に苦しめられる姿に心を痛めた王様は、薬を探しに出掛けます。
大空が広がる大草原、荒れ狂う波が立つ大海原、切り立った崖の縁、濁流が襲いかかる大河川。
あちこちを探して回りましたが、どれだけ手を尽くしても薬は見つかりません。
そして、ついに、病の魔の手が、お妃様と王子様にも伸びてしまったのです。
最早、一刻の猶予もありませんでした。
王様は決意を固めると、対価と引き換えに、たった一度だけ何でも願いを叶えてくれるという魔女の元へと向かいます。
暗く深い森の中。
昼間でも、太陽の光の一片すら届かない場所に、魔女は住んでいました。
王様が皆を苦しめる病を鎮めてくれと懇願すると、魔女はあるものを望みました。
それは、世界で一つしか無い、失われたら二度と戻らないもの。
王様の「命」でした。
ダイヤモンドやルビー、サファイアが嵌めこまれた豪華な王冠でもなく、きらきら輝く重たい金貨でもありません。
王様は魔女の要望に息を呑みましたが、すぐに頷きました。
賢いだけでなく、勇敢だった王様は、民と自分の愛する妻と子供のためにその命を差し出したのです!
こうして、王様の命と引き換えに、病はすっかり消えてなくなりました。
民は王様の勇気と決意に感謝すると同時に、その尊い命を失ったことに、たくさん、たくさん涙を流しました。
そして、お妃様と王子様は…
王様の犠牲も虚しく、すでにこの世を去った後でした。
◆
青々とした若葉が大地を覆い、土臭い独特の匂いが鼻腔を擽る。
空は吹き抜けのように高く、雲ひとつ無い完璧な晴天だった。
どれだけ頑張って手を伸ばしても、届きそうにない。
そんな、見渡す限り一面に広がる大自然の中、ぽつんと一つの小屋が建っていた。
丸太で組まれただけの、質素なものだ。
赤い屋根が印象的な、見ようによっては、可愛いと言える形をしている。
庭先ではロープに干された真っ白なシーツが風にはためいており、その下で一人の少女と、一羽のうさぎが駆けずり回っていた。
「こっちよ、ルーノ!」
甲高い笑い声を上げながら、少女がしゃがみ、両手を広げて、うさぎを呼ぶ。
毬のようにまん丸で、夏の雲のように真っ白なうさぎは、すんすんと鼻を鳴らして少女に駆け寄った。
そんなルーノを腕の中に収めるのかと思いきや、少女は一歩手前で手を引っ込め、逃げるように地面にうつ伏せに転がる。
そのまま、ごろりと仰向けになれば、シーツと同じくらい真っ白なワンピースの裾がめくれ、膝上まで露わになった。
焦げ茶色の髪に葉が絡みつき、土が手と服を汚す。
髪色と同じ焦げ茶色の瞳が悪戯っぽく笑った。
腕の中に飛び込もうと意気込んでいたルーノは、からかわれたことに腹を立て、短い足で少女の胴を叩いて抗議する。
それでも一向に少女が反省した態度を見せないことに、うさぎは業を煮やしたのか、白い手足で土を掘り返し、容赦無く浴びせかけた。
服はもちろん、身体中が泥だらけになる。
土を掘り返したルーノも、手足だけ見れば茶うさぎかと見まごう程に汚れてしまった。
「チヨ!それに、ルーノも!もう子供じゃないんだから、土遊びなんかしないで頂戴!」
小屋の中から、その様子を見ていた母親が、怒気も露わに窓際から声を投げる。
チヨとルーノは顔を見合わせると、くすりと微笑んだ。
「ごめんなさーい。でも、もう汚れちゃったから、今日はどれだけ転がっても一緒よ!」
「屁理屈ばっかり!そんなに暇なら、野いちごでも摘んでいらっしゃい!」
「はーい。行こう、ルーノ」
庭先に置いてあるバスケットを掠め取ると、チヨは軽やかに走り出す。
ルーノも負けじと足を動かし、一人と一羽は一緒に野いちご摘みに出掛けたのだった。
大自然の他には何もない、けれども満ち足りた場所。
母親と、少女と、うさぎは毎日を幸せに暮らしていた。
朝日と共に目を覚まし、洗濯に掃除に精を出す。
食卓に並ぶのは、チヨとルーノがとってきた果物や野菜に、母親が手を加えた優しい味のするご馳走。
暇になれば、父親が遺した山程の本に目を通したり、母娘で編み物をする。
ルーノが時折毛糸を転がして悪戯をするが、結局は身体中に糸が巻きついてチヨと母親に笑われるだけだった。
夜になれば、庭先で毛布に包まり、星を眺めながらマシュマロを入れたとろりとした温かいココアで喉を潤す。
「けど、それじゃぁ、つまらないのよ」
ね、とルーノに同意を求めれば、うさぎはその通りだとばかりに鼻をひくつかせた。
チヨは手元を見もせずに野いちごを摘み、バスケットに放り込みながら、頬を膨らませる。
「毎日、毎日、同じことばっかり!お母さんは退屈じゃないのかしら」
チヨは草原の地平線の彼方を見つめる。
目に映るのは、代わり映えのしない大地と空だけだったが、その奥にはまだ知らない世界が広がっているに違いない。
父親の遺した本に載っていた、魚が住んでいる海や、熊や狼が出るという山、それにたくさんの人が住んでいる街があるはずなのだ。
「ねぇ、ルーノ。草原のずーっと向こうまで駆けていけば、素敵なことが私達を待ってると思わない?」
うさぎは真っ赤に熟れた野いちごを選別して、バスケットに放ってから、チヨの目線の先を追う。
見たこともない世界を想像して、自然と尻尾がぴこぴこと動いた。
「行ってみたいなぁ」
バスケットから溢れた野いちごが一つ、地面に転がり落ちる。
「明日はおじさんが来るの?!」
スプーンですくい上げた人参をそのままに、チヨが手を止める。
すかさずルーノがそれを口の中に放り込むが、母親からの厳しい叱責の視線に居心地悪そうに、こそこそとチヨの膝元に身体を隠した。
チヨは消えた人参に全く頓着せず、母親に詰め寄る。
「それなら、リンゴが欲しい!アップルパイが食べたいの!」
「そう言うと思ったわ。それに、靴下がいつもより上手く編み上がったから、きっとシナモンとも交換できるわよ」
「やった!シナモンアップルパイ大好き!」
おじさん、というのは月に数回やってくる行商人のことだ。
日に焼けた肌に、大柄な体躯の、チヨが唯一知っている家族以外の人間である。
父親と旧知の仲だったらしく、残されたチヨたちの面倒を甲斐甲斐しく見てくれる人物だった。
「ね、お母さん。明日はレイモンドに乗せてもらえるかな?」
真っ黒で、しなやかな身体つきの馬が瞼の裏に浮かぶ。
すぐに悪戯仕出かすチヨとルーノを、しっかりと見守りつつ、一緒になって遊んでくれる兄のような存在だ。
それこそ、四つん這いで床を歩き回ってた頃からレイモンドはチヨとルーノのお目付役だった。
「きっとお天気だから、おじさんも良いって言うと思うわよ」
「やった!ルーノ、楽しみだね」
食べ終わったお皿を台所へと運び、水へと浸す。
食器の片付けは、いつもチヨとルーノの仕事だった。
一つでも多く靴下を編もうと、暖炉の前のロッキングチェアで編み棒を動かしている母親を尻目に、チヨはごしごしと、毛糸で編んだスポンジでお皿を擦る。
さっと水に通して綺麗に磨かれた食器をルーノに手渡せば、尻尾に載せた布巾で器用に水分を拭きとってくれた。
「ね、レイモンドに頼んだら、草原の向こう側に連れて行ってくれないかな?」
こっそりと、ルーノにしか聞こえない声でチヨが呟く。
うさぎは真っ赤な目を瞬かせた。
「レイモンドなら、私達より走るのも早いし、遠くへ行っても、すぐに帰って来れると思わない?」
ばさ、とルーノの尻尾から布巾が落ちる。
興奮したように、ぴくぴくと耳を忙しなく動かして、全面的に同意を示しているルーノに、チヨは勇気づけられた。
「私は街に行ければいいわ。おじさんが言ってた、お城が見たいの。ルーノは?」
両手を広げて必死に自分の見たいものを伝え、ルーノは飛び跳ねる。
チヨは可笑しそうに笑った。
「海がいいの?でも、そうね。私も一度は泳いでみたいわ。じゃ、明日、レイモンドに頼んでみましょう」
最後のお皿を水に通す。
それをルーノに手渡し、チヨはこそっと耳元で呟いた。
「お母さんとおじさんには内緒で出掛けるのよ」
当たり前だ、とばかりにルーノは胸を反らし、尻尾に乗せ直した布巾でお皿の水気を払った。
朝日が昇れば、目覚めの時間だ。
窓から差し込む光が、瞼を閉じていても感じられる。
目を瞑ったまま大きく伸びをすれば、お腹の上で寝ていたらしいルーノがバランスを崩してベッドの上に転がり落ちた。
「ごめん、ルーノ」
気付かなかった、と笑えば、まだ眠そうなウサギはチヨに尻尾を向けて、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
その様子に苦笑しながら、いつもと同じ真っ白なワンピースへと着替えた。
母親の手作りである洋服は、草原を走り回るのに、とてもお誂え向きで、どれもチヨのお気に入りだ。
ベッドの上でふて寝しているルーノを放って、チヨは母親の寝室へと赴く。
当たり前のように、部屋はもぬけの殻だった。
台所にもその姿は無い。
きっと、おじさんが来るので、引き換える品物の準備をしているのだろう。
家の裏にある倉庫にいるに違いない。
チヨは戸棚からジャム瓶と、スカーフに包んだパンを取り出す。
朝ごはんはきっと、母親が作ってくれるはずなので、チヨが用意するのはお昼に食べるお弁当だ。
昨日、摘んだばかりの野いちごは立派なジャムとなって、瓶に詰まっている。
蓋を開けて、少しだけ舐めてみれば、甘酸っぱい爽やかな味が口いっぱいに広がった。
「さすが、お母さん」
ジャムの美味しさに満足して頷いた後、ルーノとレイモンドのために人参を数本手に取る。
パンと一緒にスカーフに包んで、チヨは部屋へと駆け戻るとピクニック用の鞄に突っ込んだ。
ジャム瓶の蓋がしっかり閉まっているか確認し、準備は万端である。
「ルーノ、用意できたよ」
お尻を向けて眠っていたルーノの片耳がぴくりと動く。
緩慢な動作で振り返り、中身を見せろとチヨに示した。
「ジャムでしょ、パンでしょ、あとは人参」
とろんとしていた目が、訝しげに顰められる。
それだけか、とばかりにルーノの口元が歪んだ。
「他に何かいる?」
ルーノはベッドから飛び降りると、台所へと駆けて行く。
棚の下にある引き戸を器用に前足で開けて、その中から革袋の水筒を引っ張りだした。
それから、いつもお風呂から上がった時に使うタオルと、チヨの着替えの一式を咥えて持ってくる。
「そっか。海に行くなら、水に入るんだもんね。水筒はすっかり忘れてた」
しっかりしてくれとばかりにルーノがため息をつく。
「ルーノが私の代わりにしっかりしてくれてるから、いいの」
調子の良いことを言って、笑っておく。
頼られるのが満更でもないルーノは、不機嫌な顔をしているものの、尻尾は喜びを隠せずにぴこぴこと小さく動いていた。
そこに、玄関口から声がかかる。
「ハルミさーん!こんにちわー!リョウジですけどー!」
野太い声が、母親の名を呼んでいる。
チヨとルーノは顔を見合わせると、全速力で玄関口に向かった。
そして、思い切り扉を開く。
「うおっ?!」
乱暴に開けられた扉が鼻先を掠め、リョウジが被っていた中折れの帽子が風圧で飛んだ。
「おう、チヨちゃん。随分と熱烈な歓迎だな」
日に焼けた顔をくしゃりと笑顔で潰し、リョウジが一人と一羽の頭を撫でようと手を伸ばす。
それをするりと抜けて、チヨはその手をがっしりと掴み、ルーノはズボンの裾を咥えると、家の中へ入ろうとしていたリョウジを外へ引っ張り出した。
「おじさん!今日はね、レイモンドと一緒にピクニックに行きたいの!」
「俺は構わないけど、行く気があるかどうかは、あいつに聞いてくれよ」
「レイモンド!」
チヨとルーノが引いていた手を放し、玄関前に佇んでいた黒馬に駆け寄る。
その様子に、リョウジはやれやれと肩を竦めた。
駆け寄ってきたチヨたちに、レイモンドは久しぶりとばかりに顔を寄せる。
足元を跳ねまわるルーノを踏まないように、ぴくりとも動かないように気を付けていた。
「ね、どう?私達とピクニック!」
構わないよ、とばかりにレイモンドが一声鳴く。
その途端、やった!と声を上げてはしゃぎ回る一人と一羽に、後ろから声が掛かった。
「チヨ!ルーノ!行くなら朝ごはん食べてからにしなさい!」
腕いっぱいに、編んだ靴下やらセーターを抱えた母親の登場にチヨは首を竦める。
「それに、おじさんが来たらすぐに呼んでっていつも言ってるでしょ!」
「まぁまぁ、ハルミさん。子供は元気が一番ですよ」
「全く。遠い所、疲れたでしょう。今、朝食を作りますから。どうぞ中に入ってください」
「ありがとうございます」
注意をするだけして、そのまま中に入ってしまった大人たちを目で追いかける。
すぐにでも出発したかったが、きゅるる、と鳴ったお腹がその気持ちを押しとどめた。
「ごはん食べてからでも、遅くないよね?レイモンドも疲れてるだろうし」
ね、と同意を求めれば、早く中に入って朝食をとってこいとばかりにレイモンドが背中を押す。
その腕にルーノを抱きかかえると、チヨは食卓までまっしぐらに駆けた。
「新しい王様になってから、税がどんどん跳ね上がってねぇ。最近じゃぁ、治安も悪くて夜は出歩けないよ」
「嫌ねぇ。昔は、とても良いところだったのに」
「魔女も酷いことをしてくれたもんだ。病を食い止めるとは言え、王様の…」
「おじさん!魔女って?魔法使いのおばあさんのこと?!」
世間話をしていた大人たちの間に、チヨが口を挟む。
リョウジは目をぱちくりさせた後、楽しそうに口角を上げた。
「そうだ。暗がり森に住んでる、こわーい婆さんのことだよ」
「どうして怖いの?」
「悪い子を丸々と太らせて、かまどで焼いて食っちまうんだ」
「えぇ!?」
チヨは腕の中にいるルーノを見下ろす。
なぜこちらを見るんだとばかりに、赤い目が細められた。
「あんまり悪戯ばっかりしてると、ルーノはシチューにされて、チヨちゃんはパイに詰められるかもしれないな」
「やだ!私は食べても美味しくないもん!」
「魔女は人間も食べちまうんだよ」
にひひ、と意地悪く笑ったリョウジに、チヨが身体を震わせる。
絶対に、暗がり森には近づかないようにしよう、と心に決めた。
「二人共、魔女に食べられたくなかったら、早く手を洗ってきなさい。ごはんよ」
食卓に並べられた目玉焼きを見て、チヨとルーノは顔を見合わせる。
そして、先を争うように手洗い場へと走った。
朝食を終えて、ついにチヨはピクニックへ行く許可をもらった。
母親としては、交換するための商品で遊ぼうとするチヨとルーノの面倒をレイモンドに見てもらえるのならば、万々歳といったところだろう。
リョウジも悪戯好きの一人と一羽をそのまま放るのは不安で仕方ないが、愛馬が見張っているとなれば、安心して任せられると思っているに違いない。
着替えと食糧を詰めたバッグを肩にかけて、ルーノと共に玄関から飛び出す。
ピクニックへ行くとは言ったが、もちろん、目指すのはお城のある街と海だ。
「いい?レイモンドの背中に乗って、家から離れたら、今日の計画を話すのよ」
心得た、とばかりにルーノが鼻をひくつかせる。
「出発前に言ったら、レイモンドはきっとおじさんに告げ口しちゃうわ」
暇そうに草を食んでいた黒馬が、こそこそと打ち合わせをしている一人と一羽を盗み見る。
今日はどんな悪いことを企てているのか探ろうと、耳をそば立てた。
「行こう!今日は、お弁当も持ってきたの!」
目敏く気付いたチヨは、大声を張り上げて誤魔化すと、背中に乗せてとせがむ。
レイモンドは尻尾を一振りすると、膝を折って、チヨたちが乗りやすいように身体を下げた。
鞄とルーノを抱えて、チヨはそこによじ登る。
背中に跨がり、たてがみを両手で掴めば準備は万端だ。
「しゅっぱーつ!」
チヨの声に合わせて、レイモンドが嘶く。
ルーノも鼻をつんと天に向けて、出発の合図をした。
背中に乗ったチヨたちを振り落とさないように、レイモンドが走りだす。
風を全身に受けて、チヨは歓声を上げた。
「もっと早く!もっと早く!」
調子に乗って、一人と一羽がはしゃぎ回る。
レイモンドはほんの少しスピードを上げたが、それでも、リョウジと一緒に走る時よりはずっと遅い。
幼い時より、リョウジと共に成長を見守ってきたチヨとルーノを落として怪我をさせるなんて、以ての外だ。
ハルミの子供たちだが、リョウジとレイモンドにとっても、自分の子供、もしくは妹や弟のようなものだった。
爽やかな風に、どこまでも続く青い空。
地平線の彼方まで見渡せる大草原を駆け抜けるのは、いつでも心が踊る。
ピクニックに行きたいというのであれば、草原の先にある川にでも連れて行こうかとレイモンドが思案していたところで、チヨが声を掛けた。
「あのね、レイモンド。お願いがあるの」
後ろを振り返り、チヨは自分の家が見えなくなったのを確認する。
ルーノはお願いが聞き入れてもらえるか心配なのか、その身をじっと固くしていた。
レイモンドは、走りながら、視線をちらりと背中に向ける。
「えっとね、その、えーっと…」
チヨは言い淀み、口を噤んでしまう。
頑張れ、とルーノが前足でチヨの太ももを叩いた。
それに後押しされたのか、意を決したように少女の顔が上がる。
「あのね、街と海に連れて行って欲しいの」
何を言い出すんだ、とばかりにレイモンドの足が止まった。
あれだけ気持ちよかった風は止み、景色もいつもと代わり映えのしないつまらないものへと急変する。
チヨは連れ戻されないように、必死に言い募った。
「お願い!少しだけでいいの!お城を見て、海で泳いだら帰るから!」
そうは言われても、城がある街は、川を抜けたずっと先にある。
海に至っては、街を更に越えて一晩中走り続けないと辿り着くことができない。
街に行って城を見るくらいならば可能だが、大事なチヨとルーノを治安の良くない場所に連れて行きたくはなかった。
無理だ、と首を横に振れば、ショックを受けたようにチヨの目が見開かれる。
「そっか…レイモンドと一緒なら、きっと見れると思ったのに…」
てっきり泣き喚くかと思いきや、しゅんと項垂れて肩を落とすだけのチヨにレイモンドは慌てる。
我儘放題に言ってくれれば諫めて怒ることもできるが、こうも聞き分けよく落ち込まれては、可哀想に思うだけだ。
ルーノまでが耳と尻尾を落として丸まったので、黒馬は必死に考える。
海は無理だ。
行くなら、街に行くしか無い。
お城を見たいだけならば、背中に乗せて回れば大丈夫だろう。
チヨたちを地面に下ろしさえしなければ、いくら治安が悪くとも、逃げることができる。
人間の足に負けるほど、弱くはない。
しっかり見張っていれば、チヨもルーノも大丈夫だろう。
瞬時にそこまで考えて、レイモンドは一声啼くと、チヨに了承を示した。
ただし、海は無理だと付け加えて。
「お城、見れるの?!」
途端に元気になったチヨに、レイモンドは頷く。
やった!と、ルーノを抱き上げて喜ぶ姿に、ほっと尻尾を一振りした。
お城は、街の中心部に位置していた。
周囲に広がる城下町、そして、街を取り囲む高い外壁に守られている。
川を越えて、先程よりも飛ばして走れば、太陽が頭の天辺から少し傾き始めた頃には辿りつけた。
レイモンドにとったら、今朝方、リョウジと共に出発してきた何も珍しくない場所だ。
けれども、チヨとルーノにとってはそうではない。
「すごい!すごいよ、レイモンド!人がいっぱいいる!あ、ねぇ、あれは何?!」
指し示された先を見て、果物屋だ、とレイモンドが教える。
大はしゃぎをして、完全にお上りさん状態になってしまったせいか、周囲の注目を嫌という程集めていた。
「果物って、野いちごとか、リンゴだけじゃないのね。変な黄色の果物もあるわ」
整備された石畳に、窓に飾られる可愛らしい小さな花々。
色とりどりのテントの下には、果物だけでなく、新鮮な野菜の山や腕に一抱えほどもあるチーズ、未だに生きているのか元気良く跳ねる魚など、様々な食糧が並んでいる。
チヨとルーノはあちこちに目を走らせて、落ち着きなくレイモンドの背を叩いた。
「お城は、どこにあるの?まだ見えない?」
高い建物に囲まれた商店街を抜ければ、城を一望できる広場に出る。
そこまで我慢しなさい、とチヨに言えば、うん、と元気よく頷いた。
「街ってすごいわ。お母さんにも見せてあげたい。おみやげに、あの黄色の果物を持って帰れないかなぁ?」
耳を忙しなく動かして、ルーノが後ろ足で立ち上がる。
興奮醒めやらぬ様子に、チヨが笑った時だった。
「そいつを捕まえろ!逃げ出した奴隷だ!」
甲高い女性の悲鳴と共に、怒声が響き渡る。
木箱がひっくり返されて、中に入っていたリンゴが全て、地面に転がり落ちた。
その影から、ボロ切れを纏い、首に鉄の首輪を嵌めた青年が飛び出してくる。
首輪の先には、中途半端に千切れた鎖がぶらぶらと揺れていた。
その姿にびっくりしたのはチヨだけでは無い。
慌ててたたらを踏んだレイモンドが、尻もちをついてしまった。
当然、上に乗っていたチヨとルーノももんどり打って転がり落ちる。
「痛い!」
草原で遊ぶための白いワンピースでは、街の石畳から肌を守ることはできない。
チヨの膝は擦り剥けて、血が滲んでしまった。
丸くなって転がったルーノが心配して、鼻をふんふん言わせる。
レイモンドは慌てて膝を折ると、謝ってから、チヨに早く乗れと促した。
「大丈夫よ、ちょっと擦り剥いただけだから」
心配する一羽と一頭にそう告げて、背中によじ登る。
しっかりとたてがみを掴み、立ち上がっても大丈夫だと告げようとした直後、チヨは違和感を感じた。
「え?」
背中にぴったりとくっつく、生暖かい感触。
少し沈み込む、レイモンドの背。
そして、チヨを挟むように前に伸びてきた、擦り傷や切り傷、痣だらけの枝のように細い腕。
仰天して振り返れば、先程飛び出してきた、奴隷と呼ばれていた青年が座っていた。
「きゃー!」
「危ない」
砂や埃で汚れてぼさぼさの髪の隙間から澄んだ青い瞳が垣間見える。
青年は、驚いて転げ落ちそうになったチヨの首根っこを捕まえると、レイモンドに走るよう促した。
正体不明の男を背中から振り落としたいが、暴れれば、チヨとルーノまで巻き添えを食らってしまう。
レイモンドはお玉やフライパンを手にこちらを睨んでくる商店街の男たちに素早く視線を走らせ、背中の上の不愉快なみすぼらしい男と見比べた。
そして、即座に判断を下して立ち上がる。
言いなりになるのは癪だったが、武器を手にした人間よりは、落ちそうになったチヨを助けた人間の方がまだ危険が少ないように思えたのだ。
大混乱する市場を駆け抜け、広場とは反対へ向かう。
レイモンドが駆けるたびに、悲鳴が上がり、人々がさっと道の脇へと身体を寄せた。
チヨの支えを失ったルーノが背中の上でぽんぽんと毬のように跳ねるが、落ちるまいと必死にたてがみを咥えている。
「この子は怪我をしている。街の北に出れば、川があるはずだから、そこに向ってくれ」
言われなくても、そのつもりだった。
レイモンドは鼻息を荒く返し、川に着いた時こそ、背中の上の青年を振り落としてやろうと心に決めた。
街の北側には、海へと続く道がある。
その途中には、魔女が住んでいるという暗がり森があるのだ。
あまり、チヨとルーノを森に近づけたくはないが、怪我をそのままにしておくわけにはいかない。
石畳がぷっつりと途絶え、土で踏み固められた道に切り替わる。
街の出入口を守っている騎士を無視して突っ切れば、川まであと少しだ。
振り返れば、唖然としている騎士の姿と、分厚い外壁に囲まれた街が見える。
「痛むか?」
首根っこを掴まれたまま青年にそう問われて、チヨは小さく首を横に振る。
本当に人間なのかと不安になるほどやせ細り、体中に傷跡のある背後の青年が怖くないと言えば嘘になるが、怪我を心配してくれる様子に恐怖は少しだけ和らいだ。
さらさらと、水の流れる涼しげな音が聞こえてきた。
すぐ隣には、暗がり森が広がっている。
まだ日が高いにも関わらず、奥は真っ暗で、何があるのか全く見えない。
流れがゆるやかな場所を探し、レイモンドはすぐに膝を折ってチヨを下ろす。
この時、残念ながら青年も一緒に降りてしまったので、振り落とすことは適わなかった。
チヨは後ろに青年の気配を感じながら、そろそろと膝の怪我を川の水で洗う。
冷たい水が、怪我にしみて、思わず目をぎゅっと瞑ってしまった。
ルーノが手伝おうと前足で必死に水を引っ掛けるせいで、ワンピースの裾までびしょびしょになる。
「ルーノ、自分で出来るよ」
心配してくれているのに、無闇に怒るのも申し訳ないと思ったチヨはそう辞退したが、ルーノは全く耳を貸さない。
鞄からタオルを引きずり出すと、思い切りそれを膝に押し付けた。
当然走る痛みに顔を顰めたが、チヨは何も言わずに受け止める。
傍からそのやりとりを見ていた青年は、怪我がしっかり洗われたのを見届けると、そのままくるりと背を向けた。
何も言わずに立ち去ろうとするその姿に気付いたチヨは、思わず声を掛ける。
「行っちゃうの?」
ルーノとレイモンドも、じっと青年を見つめる。
煤けてボサボサに伸びた髪の間から、青い瞳がちらりと覗いた。
チヨが座っているせいかもしれないが、随分と長身である。
擦り切れて引き裂かれた衣服の隙間、青年の鎖骨の下あたりに、焼かれたような痕がついていた。
それが何なのかチヨとルーノには分からなかったが、レイモンドは奴隷の焼印だと気付く。
「驚かせて悪かった。僕は、もう行くよ」
「でも、お洋服がボロボロ」
「奴隷に服を与える主人なんかいないさ」
「お兄さんは、奴隷なの?」
本の中でしか知らなかった存在に、チヨは目を見張る。
青年は自嘲するように口の端を歪めた。
「あぁ、そうだ。奴隷だ。主人を出し抜いて逃げてきた」
「じゃぁ、このまま逃げて行くのね」
「いいや、逃げない。僕をこんな目に合わせた奴らに仕返しをする」
ガリガリに痩せた細腕で、どうやったら仕返しが出来るのかとチヨとルーノは顔を見合わせた。
レイモンドまでが、訝しげに顔を揺らしている。
そんな格好で行っても、主人とやらに返り討ちにされてしまうだろう。
心配になったチヨは、引きとめようと必死に話しかけた。
「あの、私の洋服で良かったら、着る?替えがあるの」
「女の子の洋服は着れないよ」
「じゃぁ、せめて、水浴びしたら?お兄さんも傷だらけだから、ちゃんと洗った方が良いよ」
「そうかもしれないね」
同意をしたものの、そのまま立ち去ってしまいそうな青年に、チヨは途方にくれる。
怖いという気持ちは、いつの間にか綺麗さっぱり消え去っていた。
今はただ、心配だけが胸の内を占めている。
「じゃぁね」
「待って!」
話すことはもう無い、とばかりに青年が踵を返す。
チヨは真っ直ぐに手を伸ばした。
「あの、その、一緒にごはん食べよう?」
咄嗟に出てきた言葉は、あまりにも場にそぐわない。
けれども、その時、図ったように青年の腹の虫が大きく鳴り響いた。
「私はチヨ。こっちがうさぎのルーノで、こっちはリョウジおじさんの馬のレイモンド」
よろしくね、と言いながらチヨは手を差し出す。
けれど、青年は握り返すことはしなかった。
虚しく空を掴んだ手を、チヨはしょんぼりとしながら引き戻す。
慰めるように、ルーノが頭をぐりぐりとお腹に押し付けた。
「お兄さんの名前は?」
「…無いよ」
「どうして?」
「そこのお前、とかゴミクズ、って呼ばれてたから」
「じゃぁ、お兄さんって呼んでいい?」
「勝手にして」
随分と投げやりだった。
チヨはスカーフから取り出した人参をルーノとレイモンドに渡してやる。
一羽と一頭は、青年の方を伺いながら、ゆっくりと食べ始めた。
バリバリ、と景気の良い音が響く。
「あのね、このジャムね。昨日、ルーノと一緒に摘んだ野いちごで作ったジャムなのよ。とっても美味しいの。ルーノは熟れた野いちごを見つけるのが得意なのよ」
ジャム瓶を取り出して、チヨは得意気にそう告げる。
蓋を開けようと瓶を抑えこみ、必死に回すが、きつく閉めすぎたのか、一向に開く気配が無い。
「うぐぐぐ」
「…貸して」
額に汗を浮かべて必死になる姿を見兼ねたのか、青年が手を出す。
けれども、チヨは首を横に振った。
「お兄さんより、きっと私の方が力持ちよ」
「そうかな?」
「だって、ガリガリなんだもの。こんなの開けようとしたら、腕が折れちゃうわ」
「さすがにそれは無いよ」
初めて、青年の口に微笑が浮かぶ。
ボサボサの髪の下から覗く目は、随分と優しい色をしているのだとチヨは気付いた。
「開けてあげる」
「無理しちゃダメよ」
はい、と瓶を渡すが、きっと開かないだろう。
そう高を括ってチヨは見つめていたが、意外なことに、あれだけびくともしなかった蓋は、ぽんっと軽快な音を立てて簡単に開いた。
「どうぞ」
「お兄さん、すごいのね」
開いたジャム瓶を受け取って、チヨはパンに塗りたくる。
果肉が零れそうなほどに乗った大きな切れ端をはい、と青年に手渡した。
「絶対の絶対に美味しいから。なんと言っても、お母さんが作ったジャムなんだもの」
けれども、受け取ったパンを青年はじっと見つめたまま、一向に手をつける様子がない。
唇を真横に引き結んだまま、微動だにしないのだ。
もしかしたら、甘いものが嫌いだったのかもしれない、とチヨが不安に眉根を寄せた時、青年はふいに、ぱくりと一口かぶりついた。
「ね、どう?美味し…」
そこまでしか、言葉は出なかった。
呆気に取られたチヨは、自分の食べるパンを手に持ったまま、固まる。
ほろほろと、音もなく零れる小さな雫。
パンにかぶりついた青年の頬を、それらが滑るように転がり落ちている。
ルーノとレイモンドも人参を食べる口を止めて、気遣わしげに目を瞬かせた。
「泣いてるの?」
「うん…ごめん」
「そんなに不味かった?」
「ううん、違うんだ。とっても美味しいよ。本当に。すごく美味しい」
ぐす、と鼻をすする音がする。
それでも涙は止まらないのか、青年は空いている腕で目を擦った。
「こんなに美味しいものを食べたの、何年ぶりだろう」
「いつもは、何を食べていたの?」
「干からびた野菜の屑とか、卵の殻とか。何も貰えない時は、土とか石ころを食べてた」
「それって…そんなの…」
絶句するしかなかった。
毎日、母親の美味しい手料理を食べていた自分が、どうしようもなく贅沢に思える。
チヨはかぶりつこうとしたパンに目を落として、そして、青年に差し出した。
「これも食べる?」
「いいよ。それは、君の分だから」
「でも、お兄さん…」
「何でも分けあった方が、幸せでしょう?」
髪に隠れた目は見えないが、青年が笑っているのがはっきりとチヨには分かった。
「ありがとう。良い思い出が出来たよ」
最後の一口をゆっくりと咀嚼し、青年が立ち上がる。
このまま一緒にいると思っていたチヨは慌てて、ボロボロになった服の裾を掴んだ。
「どこに行くの?」
「暗がり森に行くんだ」
「魔女のいる?!」
こくりと頷いた青年に、ルーノまでが必死に引き止める。
ガリガリに痩せた青年は、きっと沢山のご馳走を詰め込まれて、丸々と太った後に食べられてしまうだろう。
「ハンバーグにされちゃうよ!」
「…なんのこと?」
「だって、魔女は悪い子を食べちゃうっておじさんが…あれ、お兄さんは悪い子じゃないから食べられないのかな?」
チヨはルーノに尋ねるが、首を振って分からないという答えを貰っただけだった。
青年はあぁ、と納得したように笑い、慌てふためく少女の頭をそっと撫でる。
チヨが言っているのは、親が悪戯する子供を諌めるための作り話なのだ。
「僕は悪い子じゃないから、大丈夫。ありがとう。きっと、君のこと忘れないよ」
ばいばい、と手が離れていく。
そして、今度こそ青年は森の中へと入ってしまった。
「どうしよう、レイモンド」
悪巧みならルーノに相談するチヨだが、この時ばかりは側に立つ黒馬を頼る。
暗がり森の闇に飲まれて見えなくなってしまった背中を、目で追い続けた。
「お兄さん、大丈夫かな。魔女に食べられない?」
しゅん、とレイモンドの尻尾が垂れ下がっている。
青年が悪い人間では無いと分かった今、黒馬は素直に心配をしていた。
ルーノが追いかけようよ、と前足でチヨの脛をたしたしと叩く。
「でも、暗がり森には…」
決して自分でも良い子だとは思っていないチヨは尻込みをする。
魔女に会ったら、絶対に食べられてしまう。
そんな変な確信がチヨにはあった。
レイモンドが慰めようと顔を寄せる。
じっと暗がり森を見つめていれば、ぎゃあぎゃあとカラスたちが喚きながら飛び立った。
その声に、チヨはびっくりして側にあった黒馬の顔に抱きつく。
「お兄さん、怖がってないかな?」
レイモンドとルーノがいるから、こうして森の側に立っていられるのだ。
もし、チヨ一人だったならば、すぐにでも回れ右をして逃げ帰っているだろう。
それに、どこへ行くにしても、人間の足で歩くよりも、レイモンドに乗せてもらった方が早いに決まっている。
加えて、あの青年は今にも折れそうなほど痩せ細っていたのだ。
チヨは恐怖をぐっと押し込めると、顔を上げる。
「行こう」
膝が、ふるりと震えた。
暗がり森は、その名の通り、昼間でも夜のように暗かった。
頭上ではカラスが飛び交い、木の上からは蜘蛛や毛虫が落ちてくる。
チヨはルーノを胸に抱き、震えながらレイモンドのたてがみにしがみついた。
青年を探すのは任せたとばかりに、顔を埋めて縮こまっている。
レイモンドも草の根を分けて歩きながら、茨を踏まないように慎重になっていた。
そして、少し進んだところで目的の姿を見つける。
「お兄さん!」
青年が振り返った先で見つけた姿に驚いたのか、動きが止まる。
ボサボサの髪の下で、青い目が見開かれた。
「なんで着いて来たんだい?」
「だって、お兄さん一人じゃ怖いよね?それに、レイモンドに連れて行ってもらった方が早いよ」
「いいんだ。僕が行くところは、遠いところじゃないから」
「どこに行くの?暗がり森を抜けるなら、魔女に見つかる前に…」
「違う。僕が行きたいのは、その魔女のところだよ」
ルーノがその言葉に息を詰めたのが分かった。
黒いローブを羽織った皺くちゃの魔女を想像したのか、ふわふわの白い毛が逆立つ。
青年はこれでもうチヨたちはついて来ないだろうとばかりに、再び足を進め始めた。
「ま、待って!どうして魔女のところに行くの?お兄さん、悪い人たちに仕返しするんでしょう?」
「そうだよ。だから、魔女の元へ行く」
「魔女に、悪い人たちを食べてもらうの?」
小さく、青年が笑った。
優しい青い目が、チヨを見る。
「願いを叶えてもらうんだ。魔女は、対価と引き換えに、望みを叶えてくれるから」
深い暗闇が広がったような気がした。
日が傾いてきたのかもしれない。
「仕返しをしたい。生きているのが苦しいと思うほどの。けれど、今の僕の力じゃ無理なんだ。だから、魔女を頼るんだよ。はっきり言おう。僕がやろうとしていることは、人殺しよりも酷いことだ。それでも、君は僕と一緒に行くのかい?」
「一緒に行く」
迷いは無かった。
青年の言い分は最もだとチヨは思ったのだ。
酷いことをされたなら、仕返しをしたいと思うのが当然だ。
青年の言葉をしっかりと理解していたレイモンドだけが、戸惑ったように前足で地面を掻いたが、ただ仕返しをしたいのだと考えたチヨとルーノは手を差し出した。
「こんなところ、一人で行くのはきっと怖いわ」
手を伸ばしたまま、微動だにしない一人と一羽に、諦めたようなため息が、青年から零れ落ちる。
観念したようにレイモンドに近づくと、その背を叩いた。
「苦労をかけるね。魔女のところまで、よろしく頼むよ」
そして、レイモンドが屈むまでもなく、器用にその背に飛び乗ると、チヨを抱き込むように、両手を伸ばして、たてがみを握る。
黒馬は一声上げて、ゆっくりと歩みを進めた。
「チヨちゃん…だっけ?」
「うん」
「あの街に住んでいるの?」
「ううん。草原にある家に住んでるのよ」
「随分と遠いところから来たんだね」
「レイモンドに、お城を見るために連れて来てもらったの。でも、まだ見れていないから、お兄さんがお願いを叶えた後、家に帰る時にまた街に寄って行くわ」
深い闇の中を、レイモンドは果敢に進んでいく。
黒い肢体は森に紛れ込み、溶けるように色を失う。
真っ白な毛のルーノだけが、異様に浮いて見えた。
「魔女はどこに住んでるの?」
「森の奥深く。昼間ですら、太陽の光が届かない場所」
カラスの声が次第に減っていく。
枯れて葉を落とした木々が、襲いかかるように枝を伸ばしていた。
恐ろしくなったチヨは、ルーノをしっかりと胸に抱き、背中をぴったりと青年にくっつける。
「怖い?」
「とっても怖い」
「ここからは、僕一人で行くから、チヨちゃんは帰っても良いんだよ」
「…お兄さんと一緒じゃなきゃ、きっと、怖くて帰れない」
レイモンドが足元を、ルーノが前を守ってくれている。
けれども、青年がいなくなれば、誰も背中を守ってくれないのだ。
背後から魔女に襲い掛かられたら堪らない、とチヨは身震いした。
暗闇が更に深くなり、ついには生き物の気配すら無くなった。
チヨはもうどちらが前だか見当が付かなくなっていたし、ルーノには最早何も見えていない。
頼みの綱のレイモンドは、探り探り足を進めるしかなかった。
チヨと青年の口数も減り、聞こえるのは枝がパキリと折れる音や、落ち葉の擦れる音だけ。
「見つけた」
このまま一生さまよい続けるのではと思い始めた時、青年が弾んだ声で前方を指さした。
チヨとルーノ、そしてレイモンドはゆっくりと視線を向ける。
そこに、確かに明かりが灯っていた。
あまりにも周りが暗いせいで、窓が切り取られて浮かんでいるように見える。
深い闇の奥でひっそりと佇む、小さな家だった。
「これが、魔女の家?」
想像していたような、一面をツタに覆われたおどろおどろしい屋敷などではなかった。
どちらかと言えば、草原にあるチヨの家に似ている。
「なんだか可愛いのね」
「家の中はどうか分からないよ」
人間を食べるための、大きな釜戸があるかもね、と脅す。
当然のように震え出したチヨとルーノを見て、青年は笑った。
「どうする?チヨちゃんも中に入る?」
「こんな真っ暗な外で待つくらいなら、中に行くわ」
背後を守る青年がいなくなるのは心もとない。
少なくとも、明かりのある小屋の中の方がましに思えた。
「レイモンドはどうしよう?中に入れるかしら」
小さなドアを見つめて、チヨが眉尻をさげる。
レイモンドは、気にするなと一声啼いた。
「外で待ってるの?!」
チヨは驚きの声を上げたが、当然だとばかりにレイモンドは頷く。
「あなたって、私が思ってたより随分と勇敢なのね。さすが、リョウジおじさんの相棒」
心の底から敬服しているチヨに、黒馬は得意気に胸を反らした。
小屋の前で膝を折り、二人と一羽を地面に下ろす。
そして、立ち上がると、その鼻面でチヨの背中を撫でてやった。
青年はドアの前に立つと、こんこんと控えめにノックをする。
静かな森の中に、音が響き渡った。
「ごめんください」
小屋の中では、何の物音もしない。
明かりだけつけっぱなしで、魔女は出掛けているのだろうか。
チヨがそう思った時、ギギギ、と不吉な音を立てて、扉が独りでに開いた。
入って来い、とばかりに口を開けて、来訪者を待っている。
青年は迷いなく足を踏み入れ、部屋の中央まで進む。
チヨもそれに恐る恐る続いたが、いつでも逃げられるように、開け放した扉の側からは離れなかった。
魔女の小屋だというから、きっとトカゲや蜘蛛の死体がそこら中に転がっているだろうと想像していたが、それは見事に裏切られた。
赤と茶色の柔らかい色合いの、毛長のカーペットが敷かれ、その上には毛糸が転がっている。
毛糸の先をたどれば、テーブルの上に花飾りのついた可愛らしい白のニット帽が置いてあった。
壁に掛けられた絵は、チヨの知っている草原の景色に似ているし、マントルピースの上の置き時計はガラス細工の綺麗なものだ。
「いらっしゃい。何用だい?」
ふいに、しわがれた、カサカサの声が右側から聞こえた。
驚いて目を向ければ、全く気配がしなかったにも関わらず、そこに老婆が佇んでいる。
ルーノと同じように真っ白な髪に、たくさんの笑い皺のある小柄な姿だった。
「あなたが、魔女のおばあさん?」
青年よりも先に、チヨが口を開く。
どう見ても、うさぎをシチューにしたり、人間をパイに詰めたりしそうには見えない。
老婆は、あらあらと嬉しそうな声を上げた。
「随分、可愛らしいお客様ね。森で道に迷ったのかい?」
大変だったろう、と座るように勧める老婆にチヨとルーノは顔を見合わせる。
青年はあっけにとられたように、その姿を見つめていた。
「あの、あなたが暗がり森の魔女なのでしょうか?」
「えぇ、えぇ。そうですとも。可哀想に、あなたは傷だらけでガリガリじゃない。どうしましょう。男の子が好きそうな食べ物はあったかしら」
わたわたと忙しなく動き回る老婆に、青年は慌てて首を横に振った。
「どうぞお構いなく。今日は、頼みがあってここに来たのです」
その言葉に、老婆の動きが止まる。
ゆっくりと肩を落とすと、悲しそうな目で、青年を見つめた。
「頼みってことは、あたしの魔法かい?」
「えぇ。どうぞ、僕の願いを聞いて頂けますか?」
老婆は黙り込んだ後、大きくため息をついた。
その身体をどっかりと椅子に沈めて、億劫そうに顔を横に振る。
「魔法!魔法!魔法!あたしゃ、自分の魔法が大嫌いだよ」
両手で顔を覆うと、嘆くように俯く。
「最後に王様が来てから、二度と魔法はごめんだと思ってたんだけどねぇ」
「その王は、私の父です」
ハッとして顔を上げたのは、老婆だけではなかった。
チヨとルーノも唖然として青年を見つめる。
「じゃぁ、あんた…あんたが、ユウ王子だっていうのかい?あたしゃ、てっきり、てっきり死んじまったのかと…!」
「数年前、父の命と引き換えに、私は病から救われました。けれども、強欲な大臣どもの手によって、母上を殺され、私自身は奴隷として売り払われたのです。そして、病で死んだことにされました」
ボサボサの髪から、青い瞳が覗く。
青年、ユウは真っ直ぐに老婆を見つめた。
「端的に申し上げます。私は、私の身を貶めた大臣共に復讐をしたいのです。死で贖わせようとは思いません。地獄の責め苦を生きながらに負わせたい。そのために、あなたを頼りに来ました」
ユウの声が力強く響き渡る。
声音には熱が篭っているにも関わらず、何て冷たい言葉なんだろうとチヨは身を震わせた。
「必要とあらば、この命も差し出しましょう」
「ユウ王子、あんたはそれで良いのかい?」
老婆が弱々しく呟く。
小さく肩が震えていて、どうにも涙を流しているようだった。
「あんたの父上が、せっかく命と引換えに救ってくださったのに。それを、無駄にするのかい」
「お言葉ですが、父の願いの対価に命を選んだのはあなたでは?」
「あぁ、違う。違うんだよ。魔法はあたしの好き勝手に使えるわけじゃないんだよ」
だから、魔法はごめんなんだ。と老婆は呟いた。
「対価を選ぶのは、魔法だ。王様の時は、あまりにも願い事が大きかったんだ。だから、魔法は一番大切な命を選んだ。あたしゃね、何度も止めたよ。薬は中々見つからないかもしれないけど、じきに病は収まるはずだって。でもね、あんたの父上はこれ以上、民が苦しむ姿を見たくはないし、後のことは優秀な息子が妻と一緒に力を合わせてやってくれるだろうと信じて、対価を差し出したんだ」
老婆は懐からハンカチを取り出すと、大きな音を立てて鼻をかむ。
そして、そっと己の胸に手を当てた。
「あんたが言う、復讐の魔法はね、対価に魂を寄越せと言っているよ」
「魂?」
反芻したユウに、老婆が頷く。
「あぁ。命を奪うより、酷い話さ。魂の無い身体は、意思も無く生き続ける。生き人形になっちまうのさ。魔法が願いを叶えてくれるのは、一人一回だけ。本当の本当に、その願い事でいいんだね?」
「構いません」
ユウの返事は早かった。
一片の迷いすら感じさせない声に、怒りと、憎しみの強さが感じ取れた。
「それで、大臣共を苦しめることが出来るなら、私は魂を差し出す」
最早、説得の余地は無い。
老婆は息を詰まらせた後、諦めたように俯いた。
「月の出る頃に、また戻っておいで。魔法は夜じゃなきゃ、使えないんだ。それに、あたしも準備をしないと」
「ありがとうございます」
随分と、晴れやかな表情だった。
チヨがこの短い間に見た、どの顔よりもユウは嬉しそうに見えた。
老婆はのっそりと立ち上がり、背を向ける。
あまりにも小さく丸まった背中に、チヨは声を掛けずにいられなかった。
「あの、おばあさん」
「なんだい?」
老婆が振り向く。
目が真っ赤に腫れていた。
「また、遊びに来てもいい?」
きっと、ユウの願いを叶えた後、老婆はもっと泣くのだろう。
悲しい時、母親がチヨの頭を撫でてくれるように、チヨも老婆の側にいてやりたかった。
老婆は弱々しく微笑むと、大きく頷く。
「いつでもおいで。お嬢ちゃん」
ばいばい、とチヨはルーノと一緒に手を振る。
ユウはお辞儀をすると、扉をくぐって外に出た。
レイモンドが出迎えて、尻尾を一振りする。
小屋の中の声は、チヨが扉を開け放していたせいで外に筒抜けだった。
事情を理解している黒馬は、困ったように足を上げ下げしている。
「お兄さん、王子様だったんだね」
「昔の話だよ」
「ユウって呼んでいい?」
「どうぞお好きに」
会話が途切れて、静寂があたりを包む。
ルーノが気まずそうにチヨの腕の中で身動ぎした。
「チヨちゃん、君はもうお家にお帰り。僕は、ここで月が出るまで待つことにするから」
「私も一緒にいるよ」
「ダメだ。僕は、君に魂を抜かれた姿なんて見せたくない」
さぁ、と有無を言わせず背中を押される。
そのまま抱き上げられ、レイモンドの背に乗せられた。
「さよなら。少しの間だったけど、とても楽しかったよ。ありがとう」
ユウの手が、チヨの頭を撫で、ルーノの背中を撫で、レイモンドの顔を撫でる。
お別れの挨拶は済んだとばかりに手を引けば、賢い黒馬はユウに背を向けて歩き出した。
たてがみに掴まりながら、チヨは何度も後ろを振り返る。
ルーノは、チヨの肩に乗り上げて、悲しそうに鼻を鳴らした。
やがて、小屋の明かりが見えなくなり、ユウの姿も闇に紛れてしまう。
「魔女のおばあさん、優しい人だったね」
ルーノがひとつ頷いて同意する。
背中を撫でる森の空気が、とても冷たいとチヨは感じた。
森の出口まで無事に辿り着いた時、空は夕焼け色に染まっていた。
きっと、数刻もしない内に、月が顔を出すだろう。
そうすれば、ユウの願いが叶うのだ。
「帰ろう、レイモンド」
お城を見る気分では無かった。
このまま、家に帰ってルーノと一緒にベッドに丸まって、消えてしまいたいと思った。
堪らなくなったチヨは、レイモンドのたてがみに顔を埋める。
その時、複数人の話し声が耳に飛び込んできた。
ルーノもレイモンドももちろん、それに気付く。
そして、森の中へと後退りし、姿が見えないように闇に隠れた。
「探し出して、殺せ!いいか、何としても魔女のところへ行かせてはならない!」
「しかし、陛下。この暗がり森の中へ入るのは…」
「いいか、あいつが魔女の元へ行ってみろ。我々は殺されるに決まっている!」
「だから言ったんです、小さいときに始末すれば良かったと」
「あの時の儲けを貰っておいて、何を今更」
チヨとルーノには、ピンと来なかったが、レイモンドには彼らが何者なのかはっきりと分かった。
音を立てないように森の中へと方向転換する黒馬に、チヨは訳が分からず眉を顰めるが、異様な雰囲気を感じ取り、沈黙を守り続ける。
「黒い馬に乗って逃げたのでしょう?小さい女の子とうさぎも一緒だったという話ですが」
「一部始終を見てた連中の話しじゃ、どっかの田舎娘らしいし、そのガキ捕まえて吐かせる方が楽かもしれないな」
「魔女に頼んで、居場所を見つけてもらうのはいかがでしょうか、陛下?」
「対価が小さいものなら、それでも構わん」
さすがのチヨにも、彼らの言いたいことが分かった。
ルーノも身体を震わせて、真っ赤な目を見開いている。
彼らは、ユウを探しているのだ。
そして、殺してしまえと言っている。
彼らがこのまま、魔女の元へ向かうのだとすれば、日没前には辿り着くだろう。
月が昇っていないなら、ユウの願いは叶えられない。
「教えてあげなきゃ」
戻ろう、とチヨはレイモンドの背中を叩く。
言うまでもなく、黒馬は身を翻し、駆け出した。
蹄が地面に落ちた小枝を踏み折り、森を駆け抜ける音が響き渡る。
話し声が途端に止み、焦ったような叫び声が上がった。
「そこにいるのは誰ですか!?」
「追いかけろ!早く!」
チヨはルーノを抱いて、必死にたてがみにしがみつく。
暗い森の中は、昼間に入った時よりも、一層暗かった。
カラスたちも昼間に騒ぎすぎて疲れたのか、随分と大人しく、蜘蛛や毛虫は暗すぎて姿を見ることが出来ない。
背後から、馬の走る音が聞こえてくる。
もちろん、レイモンドの足音ではない。
振り返れば、明かりを持った人間が馬で追いかけて来ていた。
「レイモンド!急いで!」
距離が詰められる。
圧倒的に、明かりを持っている方が早かった。
足元をまともに見ることの出来ない状況では、優秀なレイモンドと言えど、本領を発揮することは難しい。
ついには、横に並ばれてしまった。
「黒い馬に、うさぎに、ガキ!ビンゴだ!」
髭面の男の手が、にゅ、と伸ばされる。
首根っこを掴まれる、とチヨが身を竦めたとき、ルーノが腕から飛び出した。
うさぎは華麗にジャンプして、隣の馬に飛び移ると、思い切り男の腕に齧りつく。
「痛てぇ!」
ルーノは、悲鳴を上げた男の手から飛び上がり、顔面に強力な後ろ足キックを繰り出して、再びチヨの元に舞い戻った。
蹴られた男は悶絶し、鼻を抑えて無様に馬の上で顔を伏せて止まっている。
「ルーノ、かっこいい!」
腕に飛び込んできたうさぎを、ぎゅっと抱きしめて、チヨが歓声を上げる。
照れくさそうにルーノは、鼻面でチヨの頬にキスをした。
これで振り切れたかと思ったが、追いかけてきているのは一人だけでは無かった。
真っ青になったチヨは、レイモンドに状況を伝える。
間違いなく、追いつかれるのは時間の問題だった。
このままユウの元に向かえば、敵に居所を教えてしまうことになる。
「このまま森を抜けて、逃げよう」
レイモンドは、力強く声を上げて嘶いた。
近くで聞こえた馬の嘶きに、ユウはハッとして顔を上げる。
「チヨちゃん…?」
落ち着けていた腰を上げて、じっと耳を澄ます。
間違いなく、最初の嘶きはレイモンドの声だった。
けれども、にわかに聞こえる蹄の音はひとつではない。
複数の音がした。
ユウは小屋を振り返る。
まだ、月が出るまでは時間があるはずだ。
ユウは暗闇の中、一歩踏み出す。
音だけを頼りに、やせ細った身体に鞭打ち駆け出した。
闇の中に、ぽつりぽつりと複数の明かりが見える。
もちろん、魔女の小屋の光ではない。
明らかに、炎の灯った松明だ。
「痛い、痛い!離して!」
「静かにしろ、このクソガキ!何なら、このうさぎを丸焼きにして目の前で食ってやってもいいんだぞ!」
「やめて!ルーノに酷いことしないでよ!この髭!」
「髭じゃねぇ、陛下だって言ってんだろ!おら、さっさと奴隷の居場所を教えろ!」
「だから、奴隷なんて知らないって言ってるでしょ!」
相手は三人いた。
一人はチヨを抑えつけ、もう一人はルーノの耳を鷲掴みにして吊るしあげている。
うさぎを捕まえている髭面の男が乗っているのは、王だけに許された馬具を纏ったしなやかな身体つきの白馬。
チヨを捕まえていたもう一人は、宰相の証である緋色の衣服を纏い、茶色の馬に乗っていた。
そのどちらの顔にも、見覚えがある。
最後の一人は、暴れるレイモンドを抑えていたが、振り解かれるのは時間の問題だろう。
残念ながら、この男の顔に見覚えはなかった。
ユウは、すぐにでも飛び出して行きたかったが、どう見ても分が悪い。
少し走っただけで息切れが止まらない身体に、やせ細った枯れ枝のような腕。
誰が見ても、勝敗は明らかだ。
ユウは悔しさに歯噛みする。
そして、必死に知恵を絞り、周囲に目を走らせた。
「ほら、さっさと吐かないと、うさぎの前にあなたが丸焼けになりますよ」
「熱い!熱いからやめて!」
ユウはその時、木にウロがあるのを見つけた。
迷わずそこに腕を突っ込み、何かいないかと手探りで探す。
手の平が、ひんやりとした鱗に触れた。
ごめんね、と心の中で謝りつつ、噛まれる前に素早く引っ張りだすと、それをレイモンドを抑えていた男に投げつける。
ぼとり、と見事にそれは男の頭の上に落ちた。
突然、鷲掴みにされ、眠りを妨げられた蛇は怒り狂って、男の目前で牙を剥く。
「ぎゃああああ!」
醜い悲鳴が上がると同時に、レイモンドを抑えていた手綱が手放される。
自由を得た黒馬はチヨとルーノを抑えている男たちに跳びかかり、踏みつぶさんばかりに前足を振り上げた。
当然、馬の上にいるとは言え、怯まないはずがない。
慌てた髭面の男はルーノを放り投げ馬から転げ落ちたが、もう一人は舌打ちをしてチヨの首根っこを片手で抑えこんで自身の馬を後退させる。
レイモンドは地面に落ちる前にルーノを背中で受け止め、髭面の男が乗っていた馬へともう一度襲い掛かる。
主人を投げ出した白馬は一目散に逃げ出し、振り返る素振りすら見せなかった。
大混乱に陥った場に、ユウは素早く滑り込む。
その際に、松明の光に寄ってきた虫を数匹、手の中に握った。
そして、馬の高さまで木に登って、チヨを未だに抑えている男の服の背中側を引っ張り、中へと落とす。
「うわあああああああ!」
背中を這いまわる虫の感触に、男はチヨを抑えていた手を放す。
レイモンドを抑えていた男は、すでに蛇に追い立てられて森の闇の中へと消えてしまった。
背中に虫を入れられた男は、主人と一緒にパニックになって暴れだした馬と共に、やたらめったら走り回り、そのまま姿が見えなくなる。
松明が投げ捨てられ、森には再び暗闇が戻って来た。
ユウは木からするりと滑り降りると、レイモンドにワンピースの背中を咥えられて、受け止められたチヨへと駆け寄る。
「良かった、間に合って」
「ユウ!どうして!」
「騒がしかったから、気になって」
ぜぇぜぇと、過呼吸になりそうな息をユウは必死に整える。
最後、木を登り降りしたのが随分と身体に負担をかけたようだ。
視界が周り、頭がくらくらとしてきた。
チヨはレイモンドに下ろして貰い、ユウの背中を擦ってあげようと近寄る。
その時、闇の中に銀色に煌めくものを垣間見た。
「危ない!」
咄嗟にチヨは守るように、ユウの背中に抱きつく。
振り下ろされた銀の刃が、容赦なくチヨの背中に食い込んだ。
痛みと熱さに意識を飛ばし、そのままずるずると身体が落ちていく。
「チヨちゃん!」
ユウの叫び声が上がると同時に、ルーノがレイモンドの背中から飛び出す。
ナイフを持った腕に襲いかかり、そのまま食い千切らんばかりに噛み付いた。
「離せ!この毛玉!」
髭面の男が、半狂乱になりながら、腕を振り回す。
それでも、ルーノは喰らいついて離さない。
大事な友達のチヨを傷つけられ、怒りで全身の毛が逆立っていた。
そこにレイモンドも迷わず参戦する。
相手が小さなうさぎならいざ知らず、自分の体躯の何倍もある馬に襲われればひとたまりもない。
髭面の男は情けない声を上げると、ナイフを手放し、すぐに回れ右をして逃げて行った。
ふん、と鼻息も荒くレイモンドとルーノが髭面の男を威嚇して追い立てる。
もう戻って来ないと確信したところで、すぐにチヨの周りに集まった。
「チヨちゃん、しっかり!」
ユウが必死にチヨを抱きしめ、呼吸を確かめる。
背中がぐっしょりと濡れていたが、それが何であるかなど考えたくもなかった。
「あぁ、ダメだ!そんな!こんなことって!」
このまま見ていれば、確実にチヨの命は失われる。
ルーノはユウの服の裾に噛み付くと、思い切り引っ張った。
そして、レイモンドの背に乗れと促す。
「でも、こんな怪我してるのに揺らしたりしたら!」
黙れとばかりにレイモンドが嘶いて膝を折る。
そして、魔女の家の方向へと首を振った。
一羽と一頭の顔を見て、ユウは気がつく。
「そうか!願い事!」
ユウはチヨを抱きかかえて、レイモンドによじ登る。
疲労が溜まりきった身体では、とてもではないが飛び乗ることなど出来なかった。
ルーノが少しでも手伝おうと、小さな身体を使ってユウを押し上げる。
二人と一羽が背中に落ち着いたところで、レイモンドが立ち上がり、走りだした。
最早、一刻の猶予も無い。
急激に下がっていくチヨの体温に、ユウは両目に涙を貯めた。
「レイモンド、急いで!」
言われなくとも、と黒馬は首を上げて返事をする。
ルーノは少しでもチヨを温めようと、身体を丸めて腹に抱きついた。
切り取られたような窓の光が目に飛び込んでくる。
ここまで来れば、あと一歩だった。
ユウはそっとチヨの口元に手を近づける。
弱々しい吐息が、まだあった。
滑るようにレイモンドが膝を折って、魔女の家の前に到着する。
飛び降りたのはルーノだけで、ユウはチヨを抱えて慎重に足を下ろした。
登る時に比べれば、随分と楽だったが、地面に降りた時の衝撃に膝が痺れる。
歯を食い縛って、それを我慢し、狂ったように扉を蹴りつけているルーノの頭上で、扉を押し開いた。
「おばあさん!」
ノックも挨拶も無い突然の来訪に、絨毯の上で魔法の準備をしていた老婆が飛び上がる。
「なんだい!?狂ったように扉を殴りつけたと思ったら、突然入ってきて!」
「助けてください!チヨちゃんが!チヨちゃんが!」
ユウはその場に座り込むと、そっとチヨを膝の上に横たえる。
明らかにその背中から滴っている血に、老婆が息を呑んだ。
「お嬢ちゃんに何があったんだい!?」
「あの大臣の奴が、彼女を!あぁ、でも、今は、そんなことはいいんです。チヨちゃんの怪我を、治してあげてください」
ユウは顔を上げて、下唇を強く噛む。
「復讐の願い事は取り消してください。代わりに、チヨちゃんを助けて欲しいんです」
「…いいのかい?願い事が叶うのは一度きりなんだよ?」
「チヨちゃんが助かるなら、構いません」
ボサボサの髪から覗く、青い瞳が強く輝く。
ユウはこの時、父親の気持ちを強く理解した。
大切な人のことは、自分の全てを投げ打ってでも助けたいと思うのだ。
それこそ、命を、魂を差し出してでも。
「チヨちゃんは、僕に優しくしてくれました。だから、僕もこの子に優しさを返したい」
大臣に陥れられて、奴隷の身分となってから、ユウはずっと復讐することだけを考えて生きてきた。
数年間、ずっと胸に秘めていた暗い感情。
それが、たった一日、一緒に過ごしただけの少女に塗り替えられていく。
乾いてひび割れた大地に、一滴の水が染みこむように、チヨの優しさがユウの心を潤したのだ。
「お願いします。チヨちゃんを、助けてください」
部屋に転がり込んでいたルーノが、自分も同じ願いを叶えて欲しいと飛び跳ねて訴える。
扉から顔を覗かせていたレイモンドも同じように嘶いた。
老婆は一人と一羽、そして一頭の顔を順番に見つめる。
そして、自分の胸に手を当てて、唖然として呟いた。
「あぁ、あんたたち。一人一回の願い事だけど、三人で一緒に叶えるなら、魔法が対価を小さくしようと言っているよ」
「魔法は何を欲しがっているんですか?」
「ユウ王子、あんたからはその髪の毛を。それから、うさぎちゃん。あんたからは、お腹の毛を。お馬ちゃん、あんたからは尻尾の毛だと」
「そんなものならいくらでも!」
ユウはボサボサの頭を老婆に向け、ルーノは床に仰向けに転がった。
レイモンドは部屋に突っ込んでいた首を引っ込めると、代わりに尻尾を向ける。
老婆は裁縫用のハサミを手に取ると、順番に一人と一羽と一頭の毛を少しずつ切り取った。
「なんでだろうねぇ。魔法がいつになく素直なんだよ。あんたたちの必死の思いに答えてくれたのかねぇ」
目をうるませながら、老婆が絨毯の上に置いてある紙にそれぞれの毛を乗せる。
そして、ユウの膝の上で息も絶え絶えなチヨの身体を絨毯に横たえると、そっと額に手を翳した。
「魔法よ、魔法。彼らの願いを叶えておくれ。代わりに対価を差し出そう」
老婆が、低い声で訴えかける。
すると、不思議なことに捧げた毛の束が光となって弾け、チヨの身体へと向かっていった。
ユウにルーノ、レイモンドは息を止めて見守る。
全身を光に包まれたチヨだったが、やがて荒く浅かった息は整い、ゆっくりとした呼吸に変わった。
そして、光が完全に消え去る頃には、真っ白だった顔には赤みが差し、ぴくりと瞼が震える。
「チヨちゃん?」
ユウがそっと呼びかける。
ぱちぱち、と何度か目を瞬かせた後、チヨは囲んで自分を見つめている友人たちを不思議そうに眺めた。
「みんな、どうしたの?」
「チヨちゃんっ!」
良かった、とユウが抱きつく。
ルーノも遅れをとるまいとばかりに、チヨの背中から飛びついた。
レイモンドも突進しそうなばかりに前足で部屋の床を踏み鳴らしていたが、良識のある黒馬なので喜びの表現はそれだけに留めている。
老婆はその様子を見て、にっこりと微笑んだ。
「あたしゃ、初めて自分の魔法が好きになれそうだよ」
そして、賑やかな客人たちをもてなそうと、踊り足で台所に向かった。
結局、チヨたちが家に帰ったのは随分と月が高く昇った頃だった。
老婆の美味しい手料理をお腹いっぱい食べて、機嫌の良い二人と一羽と一頭は、大草原の風を全身に受け止めて幸せな気分に浸っていた。
ルーノの毛が薄くなったお腹を撫でながら、チヨがクスクスと笑う。
「リョウジおじさん、レイモンドが帰ってこないから、きっと困ってるわ」
「なんだか、悪いことしたね」
「いいのよ。おじさん、うちに良く泊まるから。ユウも、好きなだけ泊まって大丈夫よ」
「ありがとう。けど、なるべく早く準備を整えて、出て行かなくちゃ」
「王子様に戻るの?」
チヨはちらりと後ろを振り返った。
ルーノも興味深そうに、耳をぴくぴくと動かしている。
たっぷり沈黙をおいた後、ユウは深く頷いた。
「父上の思いを無駄にしないためにも、僕は…いや、私は戻らないと。あの大臣を追い出して、困っている人たちを助けなければ」
「そっか。ね、ユウが王子様になったら、ルーノとレイモンドと一緒にお城を見に行ってもいい?」
今回の一番の目的だったはずなのに、結局チヨたちがお城を見ることは叶わなかったのだ。
ユウはそんな些細な願い事に、小さく笑う。
短くなった前髪のおかげで、優しい青い目がしっかりと見えた。
「もちろん。いつでも遊びにおいで」
「やった!ルーノ、お城が見れるよ!」
お城も良いけど、海が見たい、と腕の中のうさぎが訴える。
ユウはチヨの後ろから手を伸ばして、ルーノの背中をそっと撫でた。
「海にも連れて行ってあげよう。少し遠いけど、みんなで旅行するのは、きっと楽しい」
「約束だよ?」
「あぁ、約束だ」
見ようによっては可愛らしい、赤い屋根の家が、見えてきた。
いつもなら明かりは消えているはずの時間だが、窓の奥は未だに火が灯っている。
チヨは腕の中のうさぎを抱きかかえて、その背中に頬を寄せた。
「お母さん、絶対怒ってるわ」
ルーノがひくひくと鼻を動かして、身を震わせる。
雷が落ちると分かっていても、それでも、チヨはとても嬉しかった。
どれだけ怒られようとも、最後はその胸に抱きしめて、心配したんだからね、と額にキスしてくれる母親が恋しくて仕方がない。
「お母さんとおじさんに、暗がり森の魔女はとっても良い人だったって教えてあげなきゃ」
魔女は、うさぎをシチューにしたり、人間をパイに詰めたりしない。
ほくほくのじゃがいもと、とろけるように甘いカボチャの入ったシチューに、チヨの大好きなリンゴをたっぷり詰めたパイをご馳走してくれる、素敵なおばあちゃんだ。
レイモンドが膝を折って、チヨたちを背中から下ろしてやる。
いつもなら、そのまま眠り込んでしまうのだが、今回は一緒に怒られるのを覚悟して、黒馬は立ったままチヨが扉を開けるのを待っていた。
チヨは抱きかかえていたルーノを地面に下ろし、後ろにいるユウを振り返る。
覚悟はいい?と問えば、皆、鷹揚に頷いた。
ひとつ深呼吸をして、ドアノブに手を掛ける。
「ただいま!」
開け放った玄関の扉から、柔らかな光が溢れた。
◆
むかしむかし。
この国には、とても賢い王様と、心優しいお妃様がいました。
そんな、2人の間に生まれた王子は、それはそれは美しく、賢く、優しい子供でした。
民も皆、そんな王様たちが大好きで、国は喜びと幸せに包まれていました。
けれども、突然の流行病が国に襲いかかりました。
咳が止まらなくなり、血を吐いて死んでしまう、恐ろしい病気でした。
民が病に苦しめられる姿に心を痛めた王様は、薬を探しに出掛けます。
大空が広がる大草原、荒れ狂う波が立つ大海原、切り立った崖の縁、濁流が襲いかかる大河川。
あちこちを探して回りましたが、どれだけ手を尽くしても薬は見つかりません。
そして、ついに、病の魔の手が、お妃様と王子様にも伸びてしまったのです。
最早、一刻の猶予もありませんでした。
王様は決意を固めると、対価と引き換えに、たった一度だけ何でも願いを叶えてくれるという魔女の元へと向かいます。
暗く深い森の中。
昼間でも、太陽の光の一片すら届かない場所に、魔女は住んでいました。
王様が皆を苦しめる病を鎮めてくれと懇願すると、魔女はあるものを望みました。
それは、世界で一つしか無い、失われたら二度と戻らないもの。
王様の「命」でした。
ダイヤモンドやルビー、サファイアが嵌めこまれた豪華な王冠でもなく、きらきら輝く重たい金貨でもありません。
王様は魔女の要望に息を呑みましたが、すぐに頷きました。
賢いだけでなく、勇敢だった王様は、民と自分の愛する妻と子供のためにその命を差し出したのです!
こうして、王様の命と引き換えに、病はすっかり消えてなくなりました。
民は王様の勇気と決意に感謝すると同時に、その尊い命を失ったことに、たくさん、たくさん涙を流しました。
そして、お妃様と王子様も、すっかり元気になり、王様がいなくなってしまった分、二人で手を取り合って、国を導こうと、助けられた命に誓ったのでした。
けれども、幸せは長くは続きません。
王様がいなくなったので、大臣がその地位を奪おうと、隠していた悪どい本性を露わにしたのです。
お妃様は殺され、王子様はお城から追放されて、奴隷にされてしまいました。
邪魔者がいなくなったお城で、大臣は好き勝手に振る舞います。
自分が王様に成り代わり、毎日ご馳走ばかり食べて、たくさんのお金をかき集め、無茶な命令をし、人々を苦しめたのです。
やがて、月日が経ち、王子様は子供から大人になりました。
なんとか、こき使っていた主人の元から逃げ出した王子様は、対価と引き換えに、たった一度だけ何でも願いを叶えてくれるという魔女の元へ向かいます。
悪い大臣に酷い仕返しをしてやろうと思ったのです。
お腹がぺこぺこのまま、王子様は森へ向かいました。
その途中で、人々が悪い大臣に苦しめられている様子をたくさん目にしました。
悲しみに暮れて、日々を過ごす人たちに王子様は心を痛めたものです。
けれども、そんな中でも、人々は優しさを忘れません。
お腹を空かせた可哀想な王子様にパンを一切れ分けてくれる人もいました。
暗く深い森の中。
やっとの思いで、昼間でも、太陽の光の一片すら届かない魔女の住処に辿り着きました。
王子様は願い事を告げます。
苦しんでいる人々を、助けてください、と。
てっきり、大臣への仕返しを願うだろうと思っていた魔女は随分と驚きました。
自分の一番の願い事を捨ててでも、人々を助けようとする王子様に心打たれたのです。
そこで、魔女は対価に何の変哲もないものを選びました。
王子様の「髪の毛」です。
煤けてぼさぼさになってしまった髪が、本当は金色に光り輝く美しい髪だと魔女は知っていました。
それに、病を消し去るよりも、なんて事のない魔法だったので、伸びきった王子様の髪を一房もらうだけで十分だったのです。
王子様は対価と引き換えに、大臣を追い出すためのおまじないを掛けてもらいました。
賢く、優しく、勇敢な王子様は早速お城に戻ると、王様に成り代わっていた大臣に虐められていた人たちを味方につけます。
そして、みんなで協力して、大臣の罪をどんどん暴いていったのです。
悪いことをしていた大臣は、お城の人からも、民からも責められて、恐ろしくなってしまったのか、すぐさま逃げ出しました。
王様に成り代わっていた悪者は、ついに、遠いところへ追放されたのです。
果たして、王子様は人々を救うことも、大臣へ仕返しをすることも出来たのでした。
こうして、優しく賢い王子様が戻って来たことを、民はとても喜び、この国は末永く幸せに溢れた国になりましたとさ。
めでたしめでたし。