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鼠の歌  作者: 足立かおる
12/17

石の街の酒場で




 夕暮れの街を、1人の男が歩いている。

 店仕舞いを始めた露店の女将の挨拶に手を上げて答え、歩を止める事なく背を橙に染めて歩く。

 後30分もすると、辻辻に置かれた篝火に明かりが灯るだろう。

 男が足を止めたのは、この街では珍しい建物の前だ。

 珍しいのは建物の形ではなく、その扉である。石造りの家屋では木製の引き戸が一般的だというのに、それは開き戸だった。しかも、木製ではない。

 鉄。

 前線都市とも石の街とも呼ばれるここマクレールでは、鉄は結構な貴重品だ。地下水は出るが河川がないという立地もあり、砂鉄が取れる街の10倍もの値が付く。

 その鉄で出来た扉が盗まれもせず昼間の熱を冷ましているのは、異常というしかない。

 男は鍵を開けるでもなく、気軽にその扉を押した。


「光よ」


 声は、僅かに高い。

 もしかすると男は、青年期に足を踏み入れたばかりなのか。見ればほうれい線や口元の皺は、それほど目立たない。

 抑え目な魔導の淡い光りに照らされた室内は、ずいぶんと小ざっぱりしていた。

 一枚板のカウンター。その上には厚い布が敷かれ、見事なガラス製のグラスが伏せて並べられている。これが1つあれば好事家に良い値で売り払い、5人家族が数ヶ月は贅沢に暮らしてゆけるであろう。

 8つ置かれているスツールの背は規則正しく並び、整列に1ミリの乱れもない。

 男はカウンターの中に入ると片手で1つずつグラスを退かし、敷いていた布を蔦を編んだ籠に放り込んだ。

 丁寧に、丁寧にグラスを麻布で磨く。

 だが、左手はダラリと垂れ下がったままだ。

 微笑みを浮かべながらの作業は1時間ほど続き、すべてのグラスは壺や瓶の並ぶ棚に収められた。


「水よ」


 流し場で男が呟く。

 空中に浮かんだ水の玉に布を突っ込み、男はそれを絞り始める。

 左手は、やはり使わない。右手だけで布を握って水を絞り、位置を変えてまた握り直す。

 その動作を繰り返しながら、男は口の端を歪めた。


「・・・どこまでも冷たく、澄んだ朝の空気。道場の掃除が終われば、稽古が始まる。それが終われば母屋に戻ってお風呂。じゃないと香織が煩いからな。兄貴の汗が臭いだなんて、酷い妹だ」


 そこまで声に出し、男は初めて独り言に気がついたらしい。

 苦笑いをしながら、丹念にカウンターを水拭きしていく。

 次は乾拭きか。

 布を籠に放った男は、迷う事なく乾いた布を手に取ってカウンターを拭き始めた。

 男が手を止める。

 それからたっぷり10数えるほどの時間が経つと、重い鉄の扉が音を立てて開いた。


「何だってんだ、このクソ重い扉は!」


 店に入るなり叫んだのは、チンピラとしか言いようのない風体の若い男だ。


「準備中」

「はあっ?」

「準備中なんでね。出てけって言ってんのさ」

「んだとテメェ!」


 チンピラはどこから見てもイカレた、あまりにも露出の多い服装だ。威圧するためか、ほとんど半裸の筋肉を見せつけるようにしてカウンターに手をついている。

 男は動じない。

 荒事に慣れているのか、それともチンピラが腰の後ろに隠すように差している山刀に気がついていないのか。

 男が微笑む。


「殺さないでくれよ?」


 その言葉を聞いたチンピラは、それはそれは嬉しそうに破顔した。

 ちょっと脅しただけで、あっさりと命乞い。これは金になると踏んだのだろう。


「若いのにこんな店をやってやがる。さぞかし家は金持ちなんだろうなあ。アンタの命は、幾らだってんだ?」

「家は貧乏だったなあ。だが、引き取られた先の家は金持ちでね。マトモな人間としての生き方を、そこで教わった。こっちに来てからはその日暮らしで、店を持てたのは1年前だよ」

「なに言ってやがんだ、テメ・・・」


 チンピラは凄みかけ、ビタリと動きを止めた。


「動くな。息はしていい。それ以外は、許さん。マスター、続きを聞かせてもらいたい」


 言ったのは、チンピラの頸動脈に抜き身を突きつけている若い女だ。少女と言ってもいい。殺さないでくれ、マスターと呼ばれた男がそう言った時から、細身の短剣はいつでもチンピラの頸動脈を斬れる体勢である。

 艶のある長い黒髪は細い肩を流れ、豊かな乳房を経由して見事なくびれの辺りで切り揃えられていた。

 髪も肢体も美しいとしか言う他はないが、それ以上に見た者の心を震わせる物を少女は持っている。異常なまでに整った顔立ちだ。


「続きなんてねえさ」

「こんな食べ物が好きだったとか、こんな事をして遊んだとか」


 言われてマスターが目を細める。

 故郷を思い出そうとでもしているのだろうか。


「それと初めての自慰は何歳の時だとか、どんな風に女を虐めるのが好きかとか!」


 早口で言いながら、少女はその頬を紅潮させている。

 剣をチンピラに突きつけながらカウンターに身を乗り出す少女の表情を見て、マスターは呆れ顔で溜息を吐いた。


「えっと、俺はどうすれば・・・」


 小声で言ったのは、少女の剣にすっかり萎縮してしまったチンピラだ。

 どんな剣でも、血の曇りは隠せない。

 総じてチンピラは弱い。弱いからこそ、強い者の気配に敏感な者もいる。


「まあ、座んなよ」

「えっ・・・」

「そうね。そんなに死に急ぐ事はないわよ、少年」

「な、何だって?」


 チンピラは驚いているが、マスターと少女の表情は冗談を言っている感じではない。


「マスター、これ。今日の分ね」

「こりゃ珍しいな、ヒョードル鳥かよ」

「ふふん。苦無の腕が上がってるのを、マスターに認めて欲しくって」

「コイツを仕留めるくらいの腕があるなら、認めるしかねえな。臆病なこの鳥は、生半可な隠密術で仕留められるもんじゃない。血抜きも完璧だし、羽も抜いてある。完璧だ」

「やった。それじゃ、エールを奢ってもらおうかな」

「・・・1杯だけな」


 マスターがしゃがみ込む。

 流し場の下から取り出したのは、大人でも小脇に抱えて運ぶのが精一杯だろうと思われる大きな壺だ。

 水の滴るそれを片手で持ち、カウンターに置いてから布で丁寧に拭いていく。


「どう?」

「良い状態だ」

「早く早く」

「へいへい、ちょっと待ってな。兄さんもエールでいいかい?」

「え、いや、俺はその・・・」

「金ならいい。どうせ食い逃げか、小銭をせびるかしに来たんだろ」


 チンピラが俯く。


「いいから座りなさい。そのうち、エンマ様が顔を出すわ」

「エンミャ?」

「エ・ン・マ。薄汚い犬っころよ」

「カーミル」

「はいはい。人を悪く言うのは自分を貶める行為だ、そう言いたいんでしょ?」

「わかってるんならいい。壺を開けるぞ」


 マスターが蜜蝋を鮮やかな手つきで落とし、グラスにエールを満たして2人の前に置く。

 少女はすぐそれを美味そうに呷ったが、チンピラは手を伸ばさなかった。


「飲まねえのか?」

「・・・もしかして俺」


 チンピラの瞳は不安気に揺れている。


「この街は初めてだろ?」

「あ、ああ・・・」

「この店に来る前、何をやった?」

「偉そうにしてたチンピラ殴って、財布を盗った・・・」

「チンピラってのは、つるむんだ。じゃねえと、喰われるだけだからな」


 そこまで聞いて、チンピラは腰を上げた。


「え、衛兵を呼びやがったな!」

「それなら数日の強制労働で終わるんだけどね。まあ、逃げられないわよどうせ。生き残る確率を上げたいなら、ここでエールを飲んで待つのが一番だわ」

「さ、財布には8マールしか入ってなかった!」

「額なんて関係ないわよ。少年が潰したのは犯罪組織のメンツ。命より重い、ね」

「・・・来たみてえだな」


 チンピラの顔が青褪めていく。

 汗の吹き出した額を拭う事もせず、呻くような吐息を漏らした。


「グラスに口だけでも付けとけ。それで兄さんは、ウチの客だ」


 その言葉を理解しているのかいないのか、チンピラはグラスを一息で呷り、腰を抜かしたようにスツールに座った。


「衛兵じゃないけど、それよりおっかねえのか・・・」

「悪い事って、儲かるのよ。だから手っ取り早く出来て、手っ取り早く死ねるの。街の中で暴行と窃盗をやらかすくらいなんだから、それなりの覚悟はあるんでしょ?」

「都会のルール、なのか・・・」

「兄さん、どこの生まれだ?」


 扉がゆっくりと開く。

 会釈しながら店に入ったのは、どこにでもいそうな中年の男だ。

 男はスツールには座らず、入口の横にただ突っ立っている。


「ダ、ダランケ村の裏山・・・」

「裏山? どういう意味だい、少年?」


 カーミルと呼ばれた少女が問いかける間に、マスターは2つのグラスにエールを満たす。男には酒を出す気はないようだ。


「親父が何かして、村にはいられなくなったらしい・・・」

「ふむ。ダランケ村には店もあるが、その裏山といえばただの山だろう。食事はどうしてたんだ?」

「・・・おふくろがたまに村に下りて、麦なんかを運んで来てた」

「それは・・・」


 カーミルは美しいだけでなく、それなりに聡い少女のようだ。

 一言で察し、言葉を失っている。


「飲みな。ツマミにヒョードル鳥の焼き鳥を出してやる。美味いぞ」

「あ、ああ。ええっ、これ、冷たいっ!?」

「おかしな少年だなあ。さっきも飲んだじゃないか」

「そろそろよろしいですかな?」


 口を挟んだのは、今まで黙していた入り口に立つ男だ。

 にこやかな表情ではあるが、目は笑っていない。それどころかその目は、どんな悪事も躊躇わない酷薄な光さえ宿しているように見える。

 チンピラは男が入ってきたのに気がついていなかったようで、飛び上がるほどに驚いたようだ。


「黙れ犬っころ。その臭い口をこれ以上この店で開くなら、首を飛ばして外に蹴り出すぞ」


 抑えた口調だが、カーミルは短剣を抜きかけている。


「ここはオマエの店じゃねえっての。何ですか、ジャーファさん?」


 まな板にヒョードル鳥を乗せ、マスターが男に向き直る。


「その若造を渡していただきたい」

「ほう・・・」


 マスターの瞳が細められる。


「ウチのお客さんをどうするってんで?」

「客ではないでしょう。この店でエールを飲めるような金を、この若造は持っていない」

「酒の値段も客かどうかも、決めるのは俺なんですがねえ。それともなんですか。おたくの組織は、この店をいつの間にか乗っ取ったんで?」


 ジャーファは芝居じみた仕草で両手を広げ、首を横に振って見せた。


「滅相もない。そんな事が可能なら、王都の雑兵上がりに領主様のご令嬢を誑かされ、姫と呼ばれて傅かれるはずのお方が探索者の真似事などをするのを許し、あまつさえ城に帰らず場末の酒場に入り浸りになるような事などありはしないでしょう」

「良かった。ご自分が犬より無能なのは自覚していましたか。わかってねえならしっかりと教えてさしあげなきゃなと、思わず心配してしまいましたよ。あ、口を開かねえでもらえますか。濡れた犬の臭いが、店に充満するんでねぇ」

「・・・ああ、カーミルもマスターに罵られたい」

「な、何なのこの人達・・・」


 呟いたチンピラに、マスターが口の端を上げて顔を向ける。


「探索者崩れの酒場の主人。二つ名持ちの探索者。領主のお抱え犯罪組織の幹部。それに酒場の見習い店員、だな」



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