SPIKE AND GRINN#5
スパイクがグリンと出会ったその日の夜、仕事の電話が入った。スキッド・ロウ、危険なスラムにて危険極まる怪しい薬が出回っていた――だがそんな事は外界の誰も気にしない、スパイクがやらねばならないのだ。スキッド・ロウは摩天楼の立ち並ぶダウンタウンの中心からも手が届きそうな近場だが…。
登場人物
―スパイク・ジェイコブ・ボーデン…地球最強の魔術師。
―グリン=ホロス…美しい〈秩序の帝〉。
―リン・マリア・フォレスト・ボーデン…スパイクの母親。
グリンと出会った日の夜:カリフォルニア州、ロサンゼルス、ダウンタウン、ドープ超自然事件対応事務所
「つーかよ、お前帰れよ」とスパイクは嘲った調子で言った。数時間も話し通して、彼らはそこそこ親睦を深めたものであったが、今夜このまま居座られても正直困るというのがスパイクの感想であった――彼は母親の前であまり自分の女候補を見せたくなかった、恐らくはマザコンであるから。
「おや、怪我人を放り出すつもりですか? この街が危険な事は知っているでしょう」
「そいつは今度使わせてもらいたいジョークだな。お前ならどうせ朝まで目が冴えたまんま疲労さえ無く起きていられるだろうし、第一お前をどうこうできる犯罪者なんてそうそういねぇだろ」
彼女は首を軽く傾けた。
「そうですね。ですが私は腕を切断された状態です。この仮初の姿であれば平常な姿を保てますが、今こうして話しているだけでも人間ならば高熱を出して魘される程強烈な痛みを味わっています」
「さっき神は苦痛への許容度が高いって言ってた気がするが、まあ俺もボケて聞き間違えたのかも知れねぇな」
彼女は冷ややかな表情ではあったものの『なかなか口が達者ですね』とでも言いたそうに感心して佇んでいた。テーブルの上に両腕を置き、その実本当はその片方が今も出血しているのかも知れなかったが、神というのはある程度融通の効く物理的肉体を持っているため、本人が言うようにそれによって表面上は健康そのものという風を装っていた。とは言え本人が言うように、彼女は今も癒えぬ傷の苦痛を感じ、冷ややかな表示の下でそれを感じている事を思うと、どうにも釈然としないものがあった。実際のところ、『ターミネーター2』で語られていたように痛みを単なる情報として処理できるような肉体を持ち合わせているか、あるいは単に精神力が強靭過ぎて人間には耐えられない苦痛でさえ耐えられるのかも知れなかったが、それでも地球最強の魔術師は渋い顔をして唸った。
「わかったわかった。泊まってけよ。明日は宿でも探せよ」と彼は両手を挙げて降参のポーズを取り、立ち上がってビールを取りに行った。きんきんに冷えた地ビールの瓶を2本取り、その片割れをグリンの前に置いてから自分はテーブルに腰掛けた。魔力を込めて指先の力を強化して蓋を空け、そのままぐっと呷ったスパイクを見ながら、グリンもまた人差し指で下から押し上げるようにして軽々しく瓶を空け、それからどこからともなくストローを取り出した。
「いい趣味してんな」
スパイクは彼女の白いストローが黄金に染まるのを見ながら己も更に飲んだが、ふとストローが彼女の綺麗な唇に触れている箇所を見てしまい、胸が熱くなるような感覚を覚えた。この少女は高次の生物であるらしかったが、それでも仮初の姿も真の姿も美しい事には変わりなかった。
唐突に仕事用携帯――2つある内の片方――の着信が鳴り響いた。
『よう』
相手の男は低い声で言った。
「何かあったか?」
『そりゃな。でなきゃ掛けん』
電波の海の向こうから煙をふうっと大きく吐く音が聴こえた。彼の中でストゥーピッド・ビッチのジョン・ドゥが大きくなった。天井を見ると黒い染みがくすくす笑いをあげて禁煙に苦しむスパイク・ボーデンを見下ろしていた。
「笑われていますね」とグリンは見上げながら平坦に呟いた。
『なんだ、今取り込み中だったか?』
電話の相手は彼女の声を聞いて笑った。
「そんなところだな。まあ大抵の用事なら聞ける、続けろ」
『よし。聞けよ、例によってスキッド・ロウだが、最近ヤバいクスリが出回ってる』
「あそことコンプトンじゃたまにヤバいクスリが出回るだろ」
一方彼は煙草を吸いたくてうずうずしていた。見方によっては今日はあまりいい日ではないのかも知れない――ここ暫くではここまで喫煙への欲望が再発した事は無い。耐えられればよいのだが。
『まあな。不思議なもんで、慣れてくるとシンナーのやり過ぎでぼろぼろになった歯が並び爛れた皮膚をしたガキやLSDのせいで今も恐ろしい光景を見続けてる女に会ってもゾッとしなくなる』
本当にそうか? とスパイクは思った。アルコール依存症や薬物依存症のシェルターやセラピーを見た事はあるが、とてもそうした上辺の言葉で表現できるものではなかった。彼らの匂い、表情、口調、言葉、湧き上がる感情…。
だがしかし、と彼は思った。今彼が電話で話しているラティーノはラテン・アメリカ世界の危険なエリアを渡って来た。『直に見た事はあるのか?』などという薄っぺらい説教などご免だろう――彼と同様かそれ以上に、相手の男はそれらを直に見てきたのだから。同じスラム育ちでも文字通り住んでいた世界が違うのだ。相手は今はこうして平穏を手に入れたが、以前はアメリカでいうコンプトン並みの街ばかりで暮らしており、恐らくはそのようなサグ・ライフの中毒者であった。そして今は症状を克服し、正常な世界にやって来たのだろう。
『――言ってるだろ、今回のヤマはそういうのじゃない』
「ただの麻薬じゃないってなんでわかる?」
言ってから後悔した。『ただの』麻薬など存在しない。話の流れで妙な事を言ってしまった。
『知り合いに分析してもらった。クラックみたいな粉末タイプだが既存の奴とは成分が違う。構造式は部分的にはコカインみたいだが、全体的に見るとあまり似てない。酸素原子の数が――』
「その授業はまた今度だ。とりあえず英語で喋ってくれ。それで? そのシットはどっから出てきた?」
スパイクは専門的な用語が飛び出すであろう事を予測して話を打ち切った。
『それをこれから話す。依頼人は現地の人間だ。幻覚かも知れない不確定要素を除けば、さすがにヤバ過ぎるってんでそいつをなんとかして欲しいだとよ』
「アーハー。だが疑問は2点、なんでそいつは俺に依頼する? クスリは確かにムカつくが俺の専門はクソみてぇなオカルトだ、それに『幻覚かも知れない』って言ったな? それとそのブツを服用したらどうなる? わざわざヤバいって言うぐらいだから殊更って事だろ」
『成分を分析してもらったって言ったな? 依頼者が見た支離滅裂な内容が幻覚かどうかはさて置き、とりあえず分析に回したんだ』
「ああ」
『そしたらこの惑星に存在しない元素が混ざってた。厳密に言えば俺は何度か見た事があるがな、まあ本来は存在しない』
また煙草の煙を吐く音。じりじりとスパイクの心の中で煙草への眺望が高ぶった。口の中に広がる風味を思い出し、箱を開けるとずらっと――あるいは一本だけ――入っている光景を思い浮かべた。ファッキュー。
「で、そいつは本来どっかの悪魔とか妖魔とかそういうのの類いが含有してんのか」
『ああ。俺が3年前マナウスで始末した奴はもう少しで周囲の空気を腐敗させる寸前だった。異次元から来たアスホールだな』
「で、今度のアスホールは麻薬を吐き出すわけだ。お前の方がそいつらの対処に慣れてるみたいだが…」
スパイクは当然ながら、己に電話が掛ってきた時点で電話の相手が今別件を抱えているとわかっていた。
6時間後:カリフォルニア州、ロサンゼルス、スキッド・ロウ
太陽が登り始めるまでまだ暫く時間があった。6時間の睡眠によりスパイクは昨日の疲れを残す事無く次に移れそうであった。グリンは不可視化して着いて行くと主張しており、断る理由も無いので黙認した。
出ようとしたところでリンが起きて来た。彼女は心配しているようでもあった。
「仕事かい?」
パジャマ姿の母はいつもよりも弱く見えた――見送りの時はいつもこうだ。
「ああ、困ってる奴がいるんでな」
「ここにも困ってる奴がいるよ」
危険のある仕事だから、母の目を見るのがスパイクには辛かった。
「依頼ならいつでも受けるぜ」
「馬鹿だね」と言いながら彼女は抱きついた。グリンは平常通りの無感情な表情でそれを眺めていた。遠くのブロックからパトカーのサイレンが聴こえ、続けて救急車も走っているように思えた。
壁の中で蠢く黒い影はリンの恐怖を感じ取り、それを貪欲に喰らっていた。グリンがじっと睨め付けると影はすうっと姿を消した。
今日は風が強くて肌寒い。日中は気温も上がるのだろうが、ゲットーのホームレス達は凍えているだろう。彼らは太陽が登るまで建物の上の方は真っ暗である事を利用して闇に紛れて移動した。建物の屋上を飛び移りながら移動し、やがて目的地まで辿り着いた。ふと下の通りを見るとちかちかと点滅する壊れかけの明かりに照らされた塵芥だらけの路上が見えた。ダンボールや布に包まったホームレス達が見え、己もゲットーで生まれ育ったとは言え雨風を凌げる自宅があった事を思うとスイートルームで暮らしていたように思えた。
街の治安は最悪であり、ぶかぶかのジーンズと黒いシャツを着てからその上にチェックの上着を着ているスパイクは金目の物を装着せずにここを訪れた。傍らで不可視と化しているグリンがどのような表情を浮かべているかまでは知らないが、ぼんやりと感じられる彼女の雰囲気はこの混沌とした街の雰囲気をどこか疎んでいるように思えた。ダウンタウンの高層ビル群で働く人々はそれ程遠くない所にあるこのスラムの事など気に掛けず、警察もここへの干渉は及び腰であり、身なりの汚い人種的マイノリティでなければそもそもここに来ただけで喧嘩を売られると思われた。スパイクの勇名はこの地にも及んでいるようだが、それでも彼は己が彼らを裏切っているように感じる事が度々あった――別の地獄で暮らしていた癖に己だけそこから脱した。じっとりと湿気が漂い、塵芥箱の中のような悪臭が蔓延し、きつい体臭が鼻をつんと刺激した。ブラックとラティーノが多いものの少数アジアンの姿も見られ、時々ホワイトもいた。
ある意味では彼らは平等であった――彼らは例外無くこの大都市の中心部近くにある地獄で暮らす他無い人々であり、身なりは汚く、肌は荒れて汚れていた。同じようにクスリをやり、時には同じように誰かと諍いを起こす。そしてその結果には誰も感心を向けない。何ブロックか行けばそこでは大勢のホワイト、そして裕福なマイノリティが子供と夕飯の話をして、週末どこへ遊びに行くかという話をしているのだろう。どうやって借金を返済するかの話をして、マフィアやギャングはどのようにして今年の後半期は麻薬を捌いていくのかという話をしているのだろう。
誰もここに感心を持たず、持ったとしてもテレビを消せばそれで終わりだ。外界に住む彼らには彼らの明日があるのだ、残酷な話ではあるが。そしてスパイクはそれら人々の無関心を上辺で批判した所で何も変わりはしないと知っていた。音の割れたラジカセが『ライフ・イズ・ア・ビッチ』を奏で、元気の無いホームレスの鼾がハードコア・ラップの名曲に対して合いの手を入れていた。ゲットー育ちの社会学者ならこの街を『サグの窮極形』と表するかも知れなかった。
スパイクは降りる前にダウンタウンの中心街を見遣った。天高く聳えるおおよそ円柱状のバンク・タワーやガラス張りの双子カリフォルニア・プラザ、その他多くのシンボルたる高層ビルがきらきらと輝いて夜景を作り上げていた。ここからでもすぐ手が届きそうな気がした気がした。グリンは不可視であるため、不可視のものを見る術を使おうともスパイクにはぼんやりとした煙に見えていたが、それでも彼女もまた天を衝く高層ビル群を眺めているように見えた。
先程の電話の会話には続きがあり、スパイクはその内容を思い出しては顔を顰めた。
『悪い悪い、確かに言い忘れてたな。そのブツを服用したら一時間は人生の最も幸せだった頃を思い出せる。相対的な話だ――どんなにクソな人生でもふと穏やかな瞬間があるもんだ。だがその後は地獄みたいな離脱症状だ。どんなにタフでも常人じゃ3度目の使用でバタン、幽霊みたいにゲッソリした死体の出来上がりだ。断つのは相当難しいらしいが、元々そういうクスリに手を出す奴は後先考えちゃいない』
探していた依頼者はすぐに見付かった。白い外壁の打ち捨てられたヤク中の溜まり場はFワードと判別不明の文字による落書きであちこちが覆われ、壊れた看板が点滅していた。紙屑が転がる通りにはホームレスや危険人物もおらず、そこが逆に不気味であった。だがふと一人だけ人間がいたのを発見した。歩道でうつ伏せになって床を使った自慰のような体勢で痙攣している饐えた匂いの男は、涎を垂れ流しながら症状と戦っていた。本能的に不味いと思って彼は走って駆け寄った。
「おい、大丈夫か!?」
彼が悪臭にもめげずに男の体を揺らして仰向けにしたその時、ちょうど男は事切れたらしかった。脈は消え失せ、死体のような体色の男は文字通りの死体と成り果てた――あのクスリの症状と同じであった。立ち上がったスパイクは右足を苛立たしげに路面へと打ち付けた。彼は死んだ男の顔を見た。顔に刺青を入れたブラックの男はだらしなく舌を出して死んでいた。この犠牲者は死ぬ前に幸せだった頃の幻覚を見られたのか? スパイクは同じブラックのよしみでせめてそうであって欲しいと思った。必死にその痕跡を男の遺体から探したが、何も見付からなかった。いや、この犠牲者はもしかすると本当に幸せだった頃へと立ち戻れたのかも知れない。だがそれより確実な事は、目の前の男がその後死んだという事だ。オーバードーズはいい死に方ではないと知っていた。
ふざけてるのかクソ野郎、お前はただの人殺しだ。スパイクは何某かの名状しがたい感覚により、この麻薬ばら撒き事件が善意によるものであると理解できた。
ところでスパイクは知る由もなかったが、不可視のグリン=ホロスは彼女にしては慈悲深い目をして一連の流れを見ていた。
重いドアを外側へと開いて件の建物の中へ足を踏み入れると、そこら中に破れた麻薬のパックや注射器、安物のコンドームの薄汚れたパックが散乱し、嗅いだ事のある匂いが悪臭の向こうから漂っていた。燐光の魔術で照らしながら事前情報通りに階段を登り、ドアの無い部屋の中には寝袋があった――廃墟と化した都市で生き延びる生存者のようであった。寝袋の持ち主は意外に綺麗なアンティーク趣味の椅子に座っており、近くで香が焚かれていた。LAのチャイナタウンでよく焚かれているタイプであり、男は彼の到着に気付いているにも関わらず部屋の外向けてガラス越しに高層ビル群を眺め続けていた。
「ドープのスパイク・ボーデンだ。お前が依頼したのか?」
男は振り向かぬまま返事をした。
「まあいい。ところでどうしてお前は…あー、一応確認なんだがどうしてこの件で俺みたいな専門家の助けが必要だと思った? どうしてこのマザファッキンなクスリの事件がクソみてぇな魔法や意味不明な怪物と関わりのある事件だと思った?」
「ちょっと待て…今思い出してる…そうそう、見たんだよ、クスリを求める奴が地下に降りたのを」
初めてまともに喋った華人の男は振り向かぬまま何があったかを語った。彼が言うには下水の奥で悍ましい実体を見たとの事であった。その姿については語らなかったが、その怪物の近くにはいかにもそれらしい魔法陣が宙に浮かび、その図柄については教えてくれた――五芒星の中央に触腕だらけの生物の図柄、紛う事無き蟇への讃美。サソグアかその子に捧げられたものか、あるいはそれら蟇の一族にまた別の惑星の神の血を与えたかつての独身貴族フジアルクワイグムンズハーに捧げられたものであるかまでは判別できなかったが、なるほどその話が本当であれば対処の必要がある。異次元の実体とはそれら蟇の縁者なのかも知れなかった。
「ところでなんでこの街に?」
「チャイナタウンにいられなくなった」
「アーハー、14K(トライアド・マフィアの一つ)の関係者か?」
「詳しくは言えないがその系列だな」
ダウンタウンの高層ビルを汚いガラス越しに眺める男はほとんど訛りの無いすらっとした英語で受け答えをした。ここからだとあの巨大なビルに手を伸ばせば触れそうな気がした。
「なるほどな。そこで待ってろ、終わったら報酬の話をしようぜ。何か言っておきたい事はあるか?」
すると男はこっちに来てくれと言った。スパイクは男の前に回り込んだが、それを後悔した。男は例の麻薬の末期症状であり、あと数時間で死ぬと思われたが、恐らく裏社会の人間特有の強靭な精神力で症状の震えを押さえ込んでいた。男は40歳前後で、まだまだ働き盛りに見えた。だがこの地で暴力や金や栄光から遠ざかったまま、誰にも看取られる事無く死ぬのかも知れない。男は何も言わずにじっとスパイクの方を見た。恐らく首から下には多くの刺青をしているであろうこの汚い身なりの華人は、その目の奥に恐怖を秘めていた――あのような死に方は嫌だと。誘惑に負けて服用したのだろうが、しかしそこに救いなどなかった。束の間の夢と、苦痛に満ちた死に方。
「無駄だよ、あんたでも俺は治せねぇ。俺を治すにはあいつを倒すしかない」
「クスリを精製してる奴だな?」
「ああ、昔のコネで助けてもらえた奴がいたんだが、そいつは最新の医療設備ですら救えなかった。だから考えられる手段は元凶を…」
スパイクは決意と共に部屋を去った。
「それでも無理だった時はあの世で訴訟してくれ」
スパイクの呟きと共に奇妙だが心地よい香りがこの打ち捨てられた部屋に漂った。華人の男は他に誰かいたのかと思って部屋を見渡したが、魔術師が立ち去る足音のみが部屋の中まで届いていた。
下水道の中では厭わしい音を立てて汚水が流れていた。致命的な悪臭を放つ有害な気体が漂い、スパイクはマスクを付けて更に防護用の魔法を使っていた。不可視化を解いたグリンはすうっと微風のように浮かび存在せぬ地面を歩き、地獄めいた悪臭とも無縁であるようであった。
「以前白い鰐の群れとレスリングした事がある」
言いながらスパイクはありもしない煙草を探そうとして胸に手を持って行った。グリンはその様子を一瞥したものの、それには触れず彼のジョークに答えた。
「そして鮫の群れと一緒に泳いだようですね」
「まあな。お前結構話がわかるじゃねぇか」と彼は平坦な、しかし警戒した声で言った。
「波長が合う、というわけですね」
彼女のブーツに付いているフリンジは彼女が歩く度、触覚のようにゆらゆらとしていた。彼らは既に不穏な魔力を感知し、ある種の以心伝心で同じ方向へと向かっていた。こういう時のために古い靴を履いてきたラゴス魔術院の首席は、かつて偉大なヒーローチームの一員が使い、そこから流れに流れて不死者が使用する事になったリボルバーを取り出した。今日はケースを持って来なかった。
曲がり角の先に何かいる気配がして、彼らは不気味な下水道を進んだ。あと7ヤード、6ヤード、5ヤード、4ヤード、3ヤード――そこで既に見え始めた。
それは外見上人間にも見えた。迫り上がった猫背に破れて中身が飛び出た厚手のウィンドブレイカーを羽織り、同じく破れた作業用のズボンを履いていた。体型そのものは不気味な背中を除けばコミックの怪人のように筋骨隆々というわけでもなく、それが逆に不気味であった。振り向くとゾンビじみた顔色の悪さと濁った目が見え、浅い下水に足を浸けて立っていた。乾いた口からは有害な粉が溢れており、それこそが例の麻薬である事は疑いようもなかった。髪の色や上着の下のワイシャツ、首から紐で下げるベルトの壊れた時計や崩れた美容整形の跡、微かに残った気品などからこの変わり果てたホワイトの男が以前は社会の上の階層にいた事が何となくわかった。
「よう。簡潔に言うがお前のクスリで人が死んでる。今すぐやめてくれ、悪いが一緒に警察まで来てくれねぇか」
スパイクの言葉に反応したゾンビじみた男は顔を左右に振ってスパイクとその傍らで宙に立つグリンを見渡した。口を開いたままの男はやがて威嚇するような怒りの唸りを上げ、口から粉が飛散した。すると大きく曲がった背中の背後に奇妙な蒼い魔法陣が出現した。その図柄は例の蟇に捧げられたものであり、何か嫌な予感がした。
「バカな真似はやめとけ。危ないからさっさと大人しくこっちに――」
スパイクが言い終わる前に蒼い焔の線が飛来し、大木のように太いそれをスパイクは咄嗟に銃撃して防御の術を形成する事で防いだ。だがそれと共にあの危険な麻薬の粉末が飛散しており、それは彼の防御すら貫いて口腔から体内へと侵入した。不味いと思い咄嗟に再度トリガーを引いて浄化を始めたが、間に合わなかったため影響が出た。
3人いた。まだその頃は。3人でいれば何も怖くはなかった。異界の怪物や高位の悪魔とさえ渡り合った。人も救った。己以外の2人は魔術的に高名な貴族の出身だというのに、ゲットー育ちの己と仲良くしてくれた。特に彼女は己と交際をやめてからも友人として接してくれた。そしてイギリスから来た青年はまだ己らの側にいた。まだ狂ってはいなかった。その頃は煙草も気兼ねなく吸えて、人生で初めて真剣に打ち込める分野、すなわち魔法に全力で取り組めた。努力の末劣等な成績から最後は首席にまでなった。認められる喜び。友といる充足感。ずっと終わらず、変わる事の無い家族だと思っていたあの頃。もう二度と戻らず、取り返しの付かないあの頃。あの頃こそ幸せで、俺は――。
「――俺はイカれたクソ野郎のオカルト探偵だ」
現実に戻ると彼は無意識にグリンを飛散する粉末から庇って防ぎ切っていた。既にどういう術なら防げるかはわかった。グリンにあの程度の薬物が効果を成したか、仮に効果があったとしても神の精神力でどうにでもできていたのではないかとも思ったが、とにかく過去よりも今を生きる魔術師は己を清めて戦線に復帰した。
「私には効きませんがありがとうございました」
グリンは手を出そうか決めかねているように見えた。人間に決着を任せたいのかも知れなかった。
「よし、せっかく着いて来たんだしちょっと足止め頼むわ」
「仕方がないですね」
グリンが右手をさっと払うと下水が自我を持つがごとく男に纏わり付いた。藻掻こうとも振り払えず、その間にスパイクはじっくりと気持ちを込めて詠唱を始めた。それは電話で依頼してきたあの知り合いの男が教えてくれた術であった。
――聖ラザラスよ、己が内に秘めたる異境の神秘を解き放ちたまえ。
ゾンビじみた男は暴れ狂ったが、汚物の流れが鎖のごとく雁字搦めにした。
――大いなるババルー=アイ、精霊サグバダ、病のエニイグバト、それら数多の名で讃えられし遼遠なる実体よ、大地と天然痘を統べし病の王たる貴公の名において。
男から漂う下水に負けぬ程の悪臭など、青年の詠唱を止めるには到底至らなかった。ゾンビは『やめろ、こんな事は間違ってる』と明らかに無言で叫んでいたが、間違ってんのはお前だろとスパイクは厳粛に切り捨てた。
「〈ショポナの凝視〉。クソ野郎、夢の終わりだ」
スパイクは己の視線を通して彼方の神格の力を借り、それは病に冒された死体のごとき有害なる男を無慈悲に治癒した。
音を立てて収縮する背中から厭わしい湯気が立ち上ったものの、それとてすぐに霧散した。下水の底で膝立ちして上半身は下水道の歩道の上でだらんと俯せていた。宙に浮かぶ蟇の魔法陣もほとんど燃え尽きていた。肩で息をしながらも徐々に人間へと戻って来たが、まだ完全には戻っていなかった。そしてそれはばっと顔を上げた。
「何で邪魔した! 忌々しい上流階級のクズが、普段はこの街に目もくれない癖にこんな時だけヒーロー面か!」
男の分泌していた麻薬の粉末もそこらで蒼く燃え始めており、その内ほとんど消え失せると思われた。ゾンビ面から人間面に戻りつつある男は理不尽に対する怒りを湛えた表情で悲痛に叫んだ。下水の流れる音に男の叫びが加わって虚しく木霊した。その表情を見るとこの男に感じていた怒りさえ萎む程悲しかった。
だが「俺もスラムで生まれ育った」と美しいブラックの青年は簡潔に述べた。今更彼がブラックである事に気が付いたホワイトの男は、それに対して反論もできず口を噤んだ。
「さっきも言ったが夢は終わりだ。お前はダウンタウンの高層ビル街の住人だったんだろ。高い時計、高額の整形、ビジネスマンらしいワイシャツ。それと微かに残ってるが、あそこで好まれる香水の香り」
「そうだよ…俺はあそこにいた。でも全て無くして…ここで俺は…」
「気が付けばなんかすげぇ奴の縁者になってたんだろ。お前はその力を癒やしだと思った、そうだな?」
簡単そうに言うなと言わんばかりに男は激高した。
「ここで何か起きても今まで外の人間は無関心だったぞ! 気付いてすらいない! 俺はドン底にいる人々に安らぎを与えようと――」
「安らぎの代償はなんだ? 一人ぼっちの死に様か? 取り返しの付かない死への片道切符か? 藻掻き苦しむ壮絶な最期か?」
「それでも彼らは!」
いいや、とスパイクは断じた。
「ここにいるこの俺、マザファッキン・ビッチのこの俺はクソの中で生まれて暴力や犯罪に囲まれて育った。フッドでは仲良かったニガが死んだなんて珍しい事じゃないぜ。その俺がこうしてLA中心にオカルト的な事件を専門に解決しながら時間があればそこらのゲットーのために手を貸してる、チャリティとかな。
「聞けよ、もっといい例を教えてやる。地獄で育った男がいた。彼はこのままサグな生き方を続けたら自分が悲惨に死ぬだけだと悟って勝負に出た。その結果? 今じゃ彼はNYCの王に就任して最高に美人の妃と暮らしてる、知ってるよな? 彼が誰だか知ってるよな?」
お前が死なせてきた連中も、どっかでまかり間違ってすげぇ善人や偉人になったかも知れねぇ。だがその芽を摘んじまうと、無縁の死者として歴史の闇に消えるしかねぇだろ――スパイクの淡々とした語りは己の罪を忘れ、目を逸らそうとしていた男の心にとどめを刺した。人間らしさを取り戻したが、ただただ悲しみが心のダムを決壊させて涙を流させた。自分のした事と向かい合って正常に生きていける程、この男は強くなかった。最期に幸せを一瞬だけ見せられるという免罪符で罪から逃げてきた男に、今更それと向き合える強さがあるはずもなかった。それは残酷な事実なのだ。
「俺は罪を償う必要がある…」
唖然とした慟哭は親を亡くした子供のような、純粋な悲しみに満ちていた。
「そうだ」
「…ごめんよ、みんな。俺も苦しむから許してくれ」
それを聞いてスパイクは嫌な予感がした。
「よせ!」
人間にほとんど戻っていたホワイトの男はまだ微かに残っていた自らの力を反転させ、どん底の経験を思い出すようにし、なおかつ肉体にはオーバードーズの苦痛を与えたらしかった。息苦しさと渦巻く地獄絵図、まさに拷問であった。凄まじい絶叫と共に男はのた打ち回った。壮絶な苦しみで痙攣する男を見てスパイクは服が汚れる事も厭わず彼を担いで外へと急いだ――もう助からないとわかっていたから、せめて現実の夢の中で死んで欲しかった。
汚水塗れの男は嘔吐きながら己がいつの間にか建物の屋上にいる事がわかった。あのブラックの青年の腕が背中と脚の下に腕を添えて抱えており、夢の世界に思えた。
「これは夢じゃない」
スパイクはぽつりと呟き、かつて高層ビル街にいた男は抱えられたまま、己のかつての棲家をぼんやりと眺めていたていた。
「お前はクソったれだ。どうしようもないぐらいのな。だがそれでもクソったれな死に方しか許されないわけじゃない、わかるか?」
「痛い…苦しい…なんでこんな…俺がどうしてホームレス暮らしなんか…」
一瞬目がきらりと煌めき、それから一瞬目がきらりと煌めき、それから男は事切れた。男は己に与えた罰によって最期まで苦しみの中で死んだ――他の犠牲者と違って苦しみの前の幸せな夢は無かった。朝日がきらきらとビルを照らしておりており、夜明けと共に男をここではない領域へと送った。スパイクは何も言わずに一連の出来事を見ていた背後のグリンにふと漏らした。
「こいつの言う通り。ここじゃ何が起きても外じゃ誰も気にしない」
「ええ、だからただの夢でもいいから、この街の一部の人々はそれを求めたのでしょう」
スパイクは改めて高層ビル街を眺めた。それら摩天楼はこの世界都市のシンボルとして誇り高く聳え、栄光と共に朝日を浴びていた。
「変だな、さっき見た時は余裕で手が届くと思ってたのに、こんなに遠いんだな」
スパイクは今になってこの街の住人と高層ビル街までの距離がいかに遠いかを理解できた。彼自身は実力や運や精神力などで、翌日死んでもおなしくない環境から這い上がっていつでも摩天楼に歩いて行けるような人物になった。だが彼らにはそれが無かった。
「物理的な距離に加え、様々な要因が距離を離していますね」
すぐ手が届くと思っていた場所が、海峡を隔てた向こう側であるように思えてならなかった。スパイクは視点を下ろして死んだホワイトの男を眺めた。ふと左手の指に指輪を嵌めていた事がわかる日焼け痕がある事に気が付いた。周りより白いそこを見て、もしかすると指輪があるかもと思って探った――上着の内ポケットからそれが出てきた。
「あなたは正しい事をしました」
「その結果がこれだけどな」
「ですが彼は、最後に苦しい夢ではなく安らかな現実の中で死ねたのだと思いますよ。あの目は現実を見据えながらも、夢ではなく思い出としてかつての事を懐かしむ目でした」
それが本当の事だと願うしかスパイクにはできなかった。
1週間後:カリフォルニア州、ロサンゼルス、ダウンタウン、ドープ超自然事件対応事務所
依頼者はスイスの時計を差し出した。隠し持っていた品であるらしかった。彼とはその後会っていないが、どうなるにせよこれからチャイナタウンに帰って組織と話をすると言っていた。それから1週間経った頃、彼が健在である写真を送ってきた。
下水道から地上へと担ぎ出されてそこで死んだあの男が持っていた指輪について知り合いの知り合いに調べてもらい、そしてそれを別れた男の妻に送った。数日で礼を言う手紙が知り合い伝手に届き、彼女は悲しんでいた――それだけが今回の件の救いに思えた。
警察に残り滓の分泌薬物を差し出して今回の事件を任せた。こうした不可解な事件にもこの国はすっかり慣れていたが、それでも結局治安劣悪の街で起きた事件の一つとして片付いた。結局何も変わりはしない。ホワイトだろうとブラックだろうとそれ以外だろうと、スキッド・ロウにて何か起きたところで外部の人間は誰も気にしない。
「誰もがダウンタウンのビルまで手が届けばいいのにな」
スパイクはコーヒーを飲みながら送られてきた怪奇事件の資料を見ていた。
「そうなれば圧し折られてしまうでしょうね。あそこの許容値はそのレベルではないですから」としれっとあれ以降も居座っているグリンが答えた。
誰もがトップになれるわけではなかった。そこから溢れた選考者達の誰もが、その下やその更に下の受け皿に留まれるわけではなかった。アメリカン・ウェイ・オブ・ライフは国外はおろか国内にも犠牲を強いていたが、それを批判する権利が己に無い事はスパイクにも痛い程にわかっていた。
そこそこ暗い展開だがまだアメリカの刑事ドラマのようなどんよりした雰囲気には程遠い。精進しよう。




