INDOMITABLE PLANTMAN#5
奇妙な夢を見た――アール・バーンズはどこかで見た事があるような内容の夢を見た。ある神が辿った軌跡。理想と幸せからスタートしたそれが辿り着く結末とは。
登場人物
―プラントマン/リチャード・アール・バーンズ…ヒーローを始めて世の中の様々な側面を知ったエクステンデッドの青年。
―フィリス・ジェナ・ナタリー・リーズ…アールの担当作家兼恋人。
詳細不明:邪神崇拝の国
なかんずく恐れられたるは切り立つ玄武岩の崖を備える山であり、慄然たる古の魔が棲み着いていると声を潜めて伝承されてきた。深淵の彼方より来たる異星ないしは異界のものどもが持ち込んだ劫初の怪物であるとか、ほぼ記録に残されてはいない黯黒期の生き残りであるとか、愚かな魔術師が考えも付かぬ手段と暗い情熱とをもってして朦々と次元を隔てる帷の向こうから引き入れた異常現象の一種であるとか、様々な臆測が神秘家や科学者達の間で交わされてきた。全く別の進化過程を辿ったであろうものどもの残した荘厳なる要塞にあえて近付く阿呆はおらず、いるとすればそれは毎年捧げられる若い男女に他ならなかった。供え物の歴史がどのような暗澹たる端緒を経たかを知る手掛かりは失伝してしまったらしかったが、およそ想像する事さえ精神を狂気の彼岸へと譲与するに他ならぬとして忌まれ、やがては変遷の果てにそれらを詮索する事自体が冒瀆とされた――手段と目的は時が流れる事で形骸化し易く、常に人々は風化に気を配らねばならない。だが実際、彼らは忘却して久しい。名状しがたいものがグロテスクな穴蔵の中で一切の慰めも受けぬまま、贄を待ち続けているとだけ知り得ていた。毎年春の終わりが近付くと、地獄の魔獣が嘔吐いているかのごとき恐ろしい異音が風に乗って都市の上に薄く覆い被さる。それこそが地獄めいた生け贄の儀式の季節を告げるものであって、それらを司る司祭どもは派手な装飾と傲慢極まる権力掌握とによって己らを王にさえ軽視できぬ存在足らしめていたのだ。縞瑪瑙細工の精巧な祭器を身に着け、立派な彫刻を施した花崗岩の神殿にてその実堕落した信仰に耽る司祭どもが、要塞の地下でのた打つ実体を本当に見た事があるのか? 都合よく己らの教義に利用するため、誰も行ったきりで帰って来れぬあの穴蔵の主を崇めるに過ぎぬ愚か者どもではあったが、それら邪悪を裁ける者とてなく、そして今年もまた若い男女がその命を捧げる季節が近付きつつあった。暗澹たるものが国中に立ち込め、
司る司祭どもは派手な装飾と傲慢極まる権力掌握とによって己らを王にさえ軽視できぬ存在足らしめていたのだ。縞瑪瑙細工の精巧な祭器を身に着け、立派な彫刻を施した花崗岩の神殿にてその実堕落した信仰に耽る司祭どもが、要塞の地下でのた打つ実体を本当に見た事があるのか? 都合よく己らの教義に利用するため、誰も行ったきりで帰って来れぬあの穴蔵の主を崇めるに過ぎぬ愚か者どもではあったが、それら邪悪を裁ける者とてなく、そして今年もまた若い男女がその命を捧げる季節が近付きつつあった。暗澹たるものが国中に立ち込め、民衆はただ祈るしかできぬ有り様であった。かたかたと首都全体が揺れ、石細工の都市は嫌な音を立てて今年の機が熟したと告げていた。国が歴史を経るにつれ、やがて未知の文明の遺跡地下に居座る誰も見た事がない神格の偶像を作ったり絵画に残す事が禁じられ、神秘でも畏怖でも無い、恐らく純粋な恐怖の帷によって要塞の事は隠された。夜には少数の窓からぼんやりとした淡い赤色の光を放つこの古ぶしき遺跡は、部分的に地球のものでありながら何某かの触媒によって面妖にも変異したと思わしき、黒々とした未知の材質で正確無比に作られ、長年の雨風に蝕まれてきたにも関わらず、その推定成立年代からすれば化け物じみた耐久性を誇っていた。さりとてあえて要塞へと自ら赴きその仔細を綿密に調査しようとする者とて無く、そのほとんどは無知と迷信、そして禁忌をもってして謎のままであり続けた。
地獄めいた領域の王どもが最後に帷の向こう側から現れてから随分長い月日が経ち、今やそれらに代わって恐怖の大王として奉られる黯黒の実体を、道から大きく外れて邪法に従って生きる暗い情熱を持つ魔術師などが見逃すはずもなく、飽くなき力への渇望や毒にしかならぬ知識の探求のため、要塞に分け入って地下へと降り立った者は数知れない。しかし市井に紛れて暮らす異端の徒どもとて、そうした探求者達がただの一人の例外とて無く未帰還である事を全員が都合よく無視できるわけでもないらしかった。かくして社会の表でも、そして裏においても要塞に潜むここではないどこかの神格に対する恐れが年々膨れ続け、堕落した司祭どもの横暴もまた間際無く肥大化を続けた。しかし権力を握る紛う事無き国教の担い手達を、どうして立ち上がって討つ事ができようか。到底少数の蜂起で太刀打ちできるはずもなかった。
そして本当の悲劇など…無知という切り立つ山脈の向こうでのうのうと暮らす阿呆どもには、決して隠された悲劇の物語など到底知りようがなかったのだ。
コロニー襲撃事件の数週間前:ニュージャージー州、ベイヨン、フィリス宅
アールは奇妙な夢を見て、それからふと隣にはフィリスがいてくれている事を思い出した。共に眠る彼女の綺麗な肌に手で触れ、その髪を優しく撫でた。何か奇妙な夢であり、恐怖ではないものの胸がむかつくような感覚を覚えた。その正体は一体何だったのか?
遥か遠い昔の事を思い出しているような、人類が古い時代に体験した事が遺伝子情報として受け継がれているかのような、名状しがたい感覚と言う他無かった。趣味でよく読むラブクラフティアン・ホラーの影響であろうか? 確かにぼんやりと覚えている夢の内容を頑張って思い出してみると、古い時代だとか古代文明の遺跡だとか恐ろしい怪物だとかは、いかにもラブクラフティアン・ホラーの典型要素であった。似たような話と言えばヘイゼル・ヒールドのためにラブクラフトが例によって代筆した小説がそのような感じであったが、しかしナイアーラトテップやイサカは実在しており、そして聞いた話によるとルリム・シャイコースもまた実在しているらしい。偉大なるネイバーフッズの初代リーダーはモードレッド卿であり、そのチームメイトであったウォード・フィリップスという名も見逃せないし、そしてアルスターの大英雄キュー・クレインや穏やかな猛将ハヌマーンなどもお伽噺の登場人物には留まらぬではないか。なれば一般的には尋常ならざる邪神として知られながら、かつては偉大なるドラゴンとして知られていたというさる神格の息子もまた、実在しているというのか? そしてそれは、あの要塞の地下にあるとされる穴蔵の中で閉じ込められているというのか? では仮にそうだとして、先程まで感じていた不思議な気持ちは結局のところ一体どのようなものであったのか?
詳細不明:滅んだ国
僕が最後に誰かと話したのはいつの事だろう。もう長い事ここにいるから、時間の感覚さえ曖昧になった。見えるのは暗く閉ざされた地下の風景だけで、彼らは慈悲深く巨大な地下空洞を作り上げて、そこに見事な彫刻や神殿みたいな建造物を配置した。でも僕はもうその風景を何千何万回と見続けた。僕は生まれながらの神様なのに、僕の心はとっくに正常な時間感覚を無くしてしまった。今が明日なのか20年前なのか1億年後なのか、それさえも曖昧になった。ひょっとすると僕は時空を超越してそれを俯瞰できるようになったのかも知れない――多分自分の狂った妄想の中でなら。
人工の滝の先には橋がかかっていて、そこには僕のお父様が健在だった頃の様式で作られた橋がある。僕はそこで数え切れないぐらい、全部の腕を手摺りに乗せては暗い地下の瀑布を見続けた。そうすれば、僕を完全に狂わせようとする残酷な真実から目を逸らせるから。僕が生まれた時、人間は僕の事をみんなで盛大にお祝いしてくれた。あの時の事は今でも覚えてる――敬意と真心込めて立派に作られた神輿に乗せてもらって、何度もパレードを開いたっけ。まだ小さかったけどとりあえず3方向へ必死に手を振った。目を輝かせて僕の名前を呼び美しいと言ってくれる、それが本当に嬉しかった。幼い僕の心は毎日きらきらと輝く次の未知を求めて、どこまでも突っ走った。でもやがて気が付いたんだ。お父様のように気高く美しく、みんなから慕われる神様になりたいという事に。みんなの笑顔をお父様が守ってるから、僕もその名に恥じない神様になりたかった。幼い僕の心に、純粋な夢が宿った。期待と不安で夜も眠れなくなった。冒険をしてお父様に心配をかけた事もあった。でも毎日が楽しくて、お父様に追い付こうと背中を見て育った。お父様はとてもかっこいい最強のドラゴンで、人間には一番人気だった。それでいて本当に優しい人なんだ。だから僕はお父様が大好きで、いつか隣に立てるぐらい立派になれたらなって願ってた。あれ、お母様の事をまたすっかり忘れてたな。
お父様の友達も僕と仲良くしてくれて、昔は悪い人だった銀色の神様は僕を甥っ子みたいに可愛がってくれた。狩人の神様はちょっと怖い人だったけど、僕が山で迷った時に助けてくれた。お父様の事が一番好きだったけど、みんなの事だってお父様と同じぐらい好きだった。
僕は今でもあの頃に帰りたいって思ってる。今の僕は暗い洞窟の中で、起こりもしない奇蹟を信じて暮らす怪物。僕は今こうしてここにいるしかできない気持ちの悪い呪われた子供なんだ――そもそも今って10年後なのかな。僕の心の鞄には楽しかったあの頃の残り滓だけが残ってて、思い出と一緒に全部海に沈んだんだ。悲しいよね。
どうしてあの人はあんなに残酷な事ができたんだろう? 僕は大地が割れて人間が表現できないぐらい恐ろしい表情をしながら海に沈んだのを見た。僕の手を擦り抜けて、一組の親子が崩れる塔と一緒に海へ落ちて行った。子供を胸に抱いて、心臓が張り裂けそうな顔をして。僕は今でも自分が責められ続けてる気がする。自分が情けないせいで、僕は助けられるはずの命を助けられなかった。それにその頃かな? 僕が呪われたのは。人間は原始的な生活に戻って、お父様とその友達もみんな海に沈んだ。海も空も同じぐらい自由に泳げる彼らが何もできないまま、暗くて冷たい海の底に沈んだ。もちろんほとんどの人間も。目を見開いたまま、怖くて怖くて仕方ない絶望の表情をして沈む人間の子供達を見た。悔しさと怒りに塗れた表情をしたまま沈むお父様達を見た。生き残った僕はなんで自分が沈まなかったのか悩んだ。みんなに申し訳ないってずっと悩んだ。
それでも僕は幸せだった頃の事をなんとか思い出したんだ、多分あれから何千年も経った頃に。僕はお父様に憧れて毎日を楽しく暮らした。じゃあそんな僕が今でも持ってるものって? それを暫く考えてると、僕はお父様みたいに残った人間を守らないといけない事を思い出した。みんなショックで退行しちゃったけど、また悪い人が来たら僕が守らないといけない。だから僕はお父様になろうとした。少なくともその代わりになろうと、だから僕は久しぶりに人間の前に出た。あの頃程じゃないけど人間は小さな街や国を作っていたから、僕は何も疑わずに歩いて近付いた。でも僕は莫迦で、愚かで、結局お父様にはなれなかった。僕は自分の目の前で滅んだ辺境の村を潤む目で眺めながら空が割れるような勢いで叫ぶしかできなかった。どうしてあんな事になって、どうしてこんな事になったんだろう。僕はみんなを守ろうとしたのに、大好きだった人間の子孫に会いたいだけだったのに。僕の願いは嵐みたいな悲しみに吹き飛ばされてそこでやっと気が付いた――驚いた表情のままで石になったお爺さんの姿と、逃げ出そうと顔だけ僕の方に向けたまま石になった若者達の姿は、自分が怪物になってしまったと嫌という程思い知らせた。どうして僕が? どうして人間が犠牲に?
ニューヨーク州、マンハッタン、チェルシー、ホール&ホッジ・エージェンシー
会社の椅子で眠っていたアールは寝惚けたまま、ひょっとするとまだ仕事が終わっていないのではないかと恐れた。確認すると既にやるべき事を終わらせており、明日以降必要な書類は全てできあがっていた。明日ドンと話して現状報告の段取りを決めよう――ドンの担当作家が交通事故で暫く休載するらしい。
そのため彼はもう帰ってもいいが、一旦仮眠してから夜の街に異常が無いか見て回ろうと考えた。明日はさっさと帰って『ファークライ』や『マックス・ペイン』で遊ぼうと考えていた。するとどうだろうか、先程の夢は。あれは悍ましい神などではなく、本来神聖な実体であったというのか? プラントマンのコスチュームを纏ったアールはフィリスに電話を掛けた。スマートフォンの画面は暫く呼び出し中を意味する表示であったが、やがて彼女の声がスピーカーから小さく――彼からすると大きく――聞こえた。
「こんな時間にどうかしたの?」
フィリスの声は呆れと苛立ちが混じっているように聞こえた。心臓と胃が痛んだものの、アールは言うべき事を言う決意をした。空からトライベッカの屋上に降り立ち、夜の往来を見下ろしながら彼は彼女に告げた。
「君に貸した本の話だが…今すぐ『墳丘の怪』と『永劫より』を確認してくれ」
詳細不明:いずこかの大陸、異次元人の要塞地下
僕はお父様にはなれなかった。僕を蝕む呪いはみんなを傷付ける。だから僕は誰にも会っちゃいけない。また孤独になった。
やがて空から違う世界の人間がやって来た。2つの種族に分かれてて、彼らは僕を見ても石にならなかった――そうか、彼らは目が見えないんだ。色を視覚情報じゃなくて波長として感知してるんだね。僕は彼らに頼んで今ひっそりと棲んでる洞窟を改造してもらって、その上には立派な要塞が立った。
彼らが立ち去ってまたどれぐらいか経った。僕はもうずっと水しか飲まないようにしてきた。微細な変化しか起きない硬い味の水を飲み続けて、何も変わらない日々を過ごした。僕はまた孤独になったけど、どうしようもなかった。もしかすればあの違う世界の人間と友達になるべきだったのかも知れない。
いつだったかな、近くに人間――海に沈まなかった人間の子孫――が定住し始めたのは。僕は怖くなった。また恐ろしい事になるって思った。ここに来ないで欲しい。僕はもう美しい神様じゃない。そこにいるだけで他人を石化させる怪物なんだから。
待って、なんで来るの? 来ないでよ、もう何回も訪問者が石になったのに、なんでまだ来るの? もうやめてよ、僕に傷付けさでないで。僕を幸せだった頃の思い出と壊れた夢の中で棲ませておいてよ。僕に興味を持たないで。僕は怪物でしかないのに。僕は…僕は。
何をしてるの? なんで同じ周期で人間が来るの? どうして若い子達を僕の所に送るの? 嫌だよ、僕は水だけでいいのに。僕はそんなもの食べないよ。僕は贄にがっつく怪物じゃない。僕は神様だ。なのになんで? 明日はどうして人間がいたの? もうこれ以上石像を増やさないでよ。一昨日にはまた新しい捧げ者を送るの? やめてよ、僕はそんなものいらない。僕はここでずっと暮らすんだ。僕に取り合わないで。僕を古い神様として辞書の片隅にだけ書いて。僕に興味を持たないで。
僕を怪物にしないで。僕をそのままにしてよ。お父様達がいて人間達に慕われたあの頃の思い出の中で僕を生かしておいてよ。なんで? 君達は生き残りの子孫なんでしょ? 僕の誕生を喜んでくれた人達の血を引いてるんでしょ? じゃあなんで僕を醜い権力争いに利用するの? 僕を万雷の拍手と共に迎えた君達はどこに行ったの? 今いる君達は誰なの? ああ、なんで僕は呪われたんだろう。僕には…僕が…僕の…。
また犠牲者が来る季節が訪れた。僕は君達の国が滅びて解体されるまで、呪われた怪物として供え物を受け取り続けるんだろう。でも信じてよ、僕は一人も食べちゃいない。だから僕の言葉に耳を傾けて。僕の言葉は決して野獣の嘶きじゃない、悪魔の囁きじゃない。
でも、それでも。僕がここまで願ってるのに。君達は何も聞かないんだね。保身と権力の保持に僕を利用して、かつて君達の父祖が歓迎して盛大に祝福したこの僕を、あえて自分の欲望のために利用するんだね。僕も君達のように生きて、死んで、与えて、挑戦して、口付けをして、戦えればよかった。僕もまた可死者ならよかった。君達人間の間で暮らして、誰かに供養してもらえればよかった。でも僕はこうして生き続ける。お父様は命を無碍にするなっていつも言ってた。僕は守護神になれるはずだったけど、それが叶わないなら自分の命ぐらいは大切にないといけない。例え望みが絶たれて、ただ地獄の底で暮らす日々が続いたとしても。だからこそ、僕はこれからも苦しむんだね。怪物として語り継がれるんだね。必要としてない贄を捧げられて、彼らが僕の姿を見た瞬間に固まるのを見続けるんだね。
あれから色々考えた。僕が隠れていれば子供達は石にならないで済むかも知れない。それで僕が逃げろって呼び掛けたら――無駄だろうね、彼らが逃げ出さないよう、上には数少ない『ここに近付く人間』、すなわち監視者がいるんだろう。彼らは辛抱強く待てるから、上には逃げられない。じゃあ川を下ればどうだろうか――もちろん無駄、人間にあの急流を耐える術も無ければ、この地下空洞から外まで続く息継ぎのできない長い長い区間を耐える術もない。異世界の人間は僕が隔離されるよう完璧にここを設計したんだから。僕はずっと隠れていてもいい、その間彼らは石にならない。でも彼らは食べるものが無い。僕みたいに食事以外の方法で生き永らえる術が無い。
だから何度でも言うよ――僕に関わらないで。
犠牲者の近くに行った事もある――数え切れないぐらい。ある時僕は一人の少女に近付いた。全身が石の彫像のようになってる彼女は生々しい表情を浮かべ、それが石じゃない事を物語った。彼女は人間なんだ。そして恐ろしい事に、彼女の脳だけはまだ生きてるんだ。永遠の牢獄に人間が耐えられるはずがない。僕はどうすればいいんだろう? 僕の腕が彼女に触れると、石の冷たい感触が伝わった。そのまま腕を巻き付けて、彼女を抱擁した。このまま砕けば彼女は安楽的に死ねるのかな。彼女も、他の無数の石像も、誰も僕に答えてくれない。もし生き永らえたいと思う子供がいたら。もしこの境遇でも構わないと思う子供がいたら。そう考えると、僕の中にある博愛主義は一気に冷え込んで自信を喪った。僕は優柔不断な愚神として語り継がれるだろう――僕の事を知る者がいれば。
いつからだろう、僕は誰か勇者が来て自分を討つ事を願うようになった。お父様の言葉に背くつもりはないけど、自分で死ぬんじゃなくて誰かに殺されるならそれでもいいと思うようになった。僕は今が明日なのか数百年前なのかもわからない。もう嫌なんだ、みっともなく狂った心のまま過ごし続けるのは。もう嫌なんだ、お父様の長男である僕が、こうやって無様な化け物として存在し続けるのは。もうゴールを迎えてもいいじゃないか。もう卒業してもいいじゃないか。僕はもう狂ってしまって自分でも支離滅裂過ぎて何がどうなってるかさえよくわからない。ただ言えるのは、僕が人間の脅威であるという事。到底守護神などとは呼べず、狂った宗教家達の権威に利用される怪物だという事。ああ、お父様。許してね――どうしようもないぐらい死にたいんだ。壊れた夢と思い出の残骸すら忘れてしまう前に、まだ自分に正気がある内に。だからまだ見ぬ勇者よ、英雄よ。僕はここで君を待とう。君が僕を殺しに降りて来るその日を。だからこそ、せめて慈悲があるなら僕が比較的幸せな内に殺してくれたまえ。かつて君達を守護したものどもの遺児として、そして偉大なるドラゴンのクトゥルーの髭にかけて命じるものなり。
やめろ! その目は! 僕を…僕を! 早く来てくれ! これ以上僕を生き永らえさせるな! お父様の自慢の息子である内に殺せ! 彼らが見るんだ、昼も夜も無いこの穴蔵で、彼らが僕を見るんだ! 犠牲者の目が驚愕と恍惚に染まり、しかしその目の奥底には邪悪への嫌悪がありありと滲み出てる! こんな化け物の贄になどなりたくなかったと! 呪われるがいい、怪物めがと! もうこれ以上は精神が耐えられない! 僕は本来自分がいられるはずの場所から弾き出されたんだ! それ以降僕は終わりの見えない坂を転がり落ちる一方ではないか! 頼む、僕を討ち果たせ! 怪物として討てばいい! 邪教に担ぎ上げられた太古の邪悪として討てばいい! この星を蝕む異界の化け物として討てばいい! だからお願いだ、僕を早く殺してくれ! あの目が、目が!
コロニー襲撃事件の2週間前:ニューヨーク州、マンハッタン、モーニングサイド・ハイツ
アールは飛び起きた。部屋はエアコンの暖房音が轟々と鳴り、どうでもいいメールの着信を知らせる振動がズボンのポケットの中で起こっていた。フィリスが彼の部屋に来て、彼女といられる事で安心し切ったのか久々に昼寝をしたらしかった。ベッドの上から起き上がり、愛しい人は読んでいた本に栞を挟んで振り向いた。己の顔が余程酷かったのか彼女は途端に心配そうな表情を見せて近付いて来た。
クトゥルーもまた実在するとして、その息子ガタノソアもまた実在するのだろう。そしてそれは怪物の烙印を押された、かつての偉大なる実体達の遺児なのかも知れない。その後彼がどうなったのか、これ以上知りたいとは思えなかったが、同時にせめて何か慈悲があると祈った。
テレビを点けると、南部の州で警官がブラックの男性を射殺したというニュースが流れており、アールは頭を抱え、フィリスは何も言わず彼を抱き締めた。
ここには温もりがある。少なくとも彼には。では、あの太古の穴蔵で自ら幽閉されていた、見ただけで石と化す哀れなガタノソアの周りの一体どこに、温もりとやらが存在したのか? 今命を落としている無数の人々とテレビやパソコンを隔てて暖を取る己は、本当にヒーローなのか? だが結局、その後ボールド・トンプソンからテレパシーで援軍要請を受けたアール・バーンズは、愛するフィリスにキスをしてそのまま部屋を飛び出したのであった。彼女は彼の無事を祈るしかできず、身が竦む思いをしたが、それでも信じていた。
そしてドラムビートは鳴り続ける、まるで鼓動みたいに。
FGOでアステリオスを見た時の感想――あ、これ『永劫より』だ!
不思議な事だが、ガタノソアもまた巨大な建造物の奥に幽閉され、毎年生け贄を捧げられている。(後世の作品の設定を借りるとガタノソアも)息子ポジションであり、ある日己が幽閉される建造物に勇敢な者の侵入を受けるところまで一緒である(結末は異なるが)。
ラヴクラフトがガタノソアの物語を共著するに際してミノタウロスの逸話を意識したのかはわからないが、箇条書きすると何となく似ているため今回の話を思い付いた。




