SPIKE AND GRINN#2
謎の少女グリン=ホロスは例によって尋常ならざる実体であり、スパイクは混沌と戦うためにスカウトされ、そして試験として戦いを挑まれた。己自身を褒章として差し出すこの実体は、彼を薄いベールの向こう側へと連れ去り…。
登場人物
―スパイク・ジェイコブ・ボーデン…地球最強の魔術師。
―グリン=ホロス…美しい〈秩序の帝〉。
グリン=ホロスとの邂逅から数分後:カリフォルニア州、ロサンゼルス、ダウンタウン西のフリーウェイ沿いのビル屋上
少女は恐らく本人が言うように尋常ならざる実体であろうと思われ、ここから光の速さでさえ数分もかかってしまう距離で燦然と燃え盛るこの星系の太陽が、彼女をより際立たせ輝かせんとしてその光量を微かに上げたのを青年は感じ取った。大気に満ちる天然の魔力が恭しく彼女の周囲で渦巻き、そして風は彼女を柔らかく包んだ。
「マジで〈秩序の帝〉ってわけか。あるいは女帝か」
美しい黒人の青年は首にかけている金のロープを左指で弄びながらも、だらんと垂らした右手は彼の脳内において銃を車の方から引き寄せるイメージを成していた。銃を手繰り寄せ、それは彼の背面、ビルの壁面に張り付いたまま待機させた。いつの時代も与太話は時間稼ぎになるものだ。
「そうですね。ですが私が生まれた惑星――私はあの惑星に入植した神々の最初の世代ではなく、彼らの間に生まれた娘でした――の〈人間〉の言語では、どの国の言語にも『女帝』という女性格の言い方は存在しませんでした。まあ、今はその話をすべきではありませんね。要件は簡単な話です。私はあなたに協力を要請しているのです。ロキ、という名はもちろんご存知でしょう」
尋常ならざるグリン=ホロスが喋る度にその何かをひた隠しにしている美しさが明滅するかのように瞬き、スパイクは己が精神を鍛えていてよかったと実感したものであった。そうでなければただ美しいと感じるだけでは済まず、精神は今頃肉体と外側との境界線を見失い、ここではないどこかの辺境へと押し流されていただろう。だがそもそもこの見かけだけは少女である実体は、もし俺がそのような強壮極まる精神性を持っていなければどうするつもりだったのかと疑問に思った。
「え? なんだって? ああ、ロキか。一度だけ遭遇した事はあるが、あんなマザファカとはもう二度と遭遇したくねぇな」
「そうですね。実際のところ、伝説と同じくあの混沌は己の家族であったものどもを攻め立て、そして万神殿を崩壊させた。窮極の大逆、忌むべき混沌の発現、穢らわしき汚染」
少女は低いへりから降り、そして派手なブーツを履いた脚を優雅に動かして彼の方へと一歩一歩近付いて来た。言いようのない威圧感に一歩だけ後退りし、急にマザファッキン・ビッチのドゥが彼の心の中で復活し、煙草を吸う事で気を落ち着かせたいという欲求を膨らませた。彼は存在しないガムを軽く咀嚼するようにして口の形を何度か変え、この尋常ならざる実体が本当に自殺志願者であればどれ程対処が楽かと不謹慎な事を考えた。あの東海岸のオタクヒーローから教えてもらった、マット・フラクションの自殺者に向けたコラムは感動的で、とても胸を打たれた。
そのようにして関係のない事を考えている間に彼女は既に彼の目と鼻の先まで来ていた。彼女は彼と同じ程度に背が高く、という事は5フィート10インチあるのだろう。目線の高さも変わりないように思われ、こうして見ると少女ではなく古い時代の女神像のようであった。
「背が高いな」とスパイクはにやりとして戯けた様子を見せた。
「ええ、私は見下される事をよしとしているわけでもありませんので。かと言ってあなたが逆に見下されるのは、それはそれであなたの自尊心を傷付けるのでは? だから同じ目線になるよう先程調整したのです」
スパイクはそれを聞いて笑いそうになった――今気が付いたのだが、彼女は己の使い慣れたこの形態そのものへの変形にはさして力を消費するでもないが、そこから少しでも身長を伸ばせば力が消費されてしまうのだろう。彼女は周囲の魔力を吸い上げて彼と同じ身長にまで体型を改造した状態を保っているのだが、それは明らかに無駄手間であった。要は階梯が上の実体特有のプライドであろう。とは言え無駄に争うつもりもないのでひとまずそれについては黙っていた。待機させたままの拳銃入りケースはいつでも彼の元まで飛ばせる位置である。背後のへりのぎりぎり見えないところで貼り付けてあるのだから、あとはそれを必要に応じて行使するだけであった。
「それで…俺に協力して欲しいって話だったな。あの忌々しいロキと戦えってか?」
「ええ、そうです。ロキ並びにイサカ…あれらは混沌の中でも特に忌まわしい。エアリーズなどはまだ優先度が低い方ですね」
「何?」
「エアリーズはまだ危険度が低いという事ですよ。それだけの話でしょう」
さすがにこの物言いにはうんざりであった。エアリーズが何をしてきたのかは知っていたし、あの軍神が多くの人々に望まぬ不死を与えて狂わせたのは純然たる事実であった。
「あのな、モードレッドの悲劇は知ってるだろ? アーサー王の息子だよ、諸王を従えるアーサーとモードレッドの抗争が最後にどうなったか、お前ぐらいの実体なら知ってんだろ?」
「ええ、もちろん知っています。だからこそ優先度が低いと言ったのです。考えてみなさい、あの実体がいなければあなたはモードレッド卿にそこまで同情する事もなければ、今あなたが背後で保持している魔銃を永遠の騎士が届けに来る事もなかった。ショッピングカートでバーベキューをしながらビール片手に暮らす3人の不死者――かつて栄華を誇った騎士団の長、長を補佐するかつての敵将、花嫁を巡って長と敵対してしまった最高の騎士――がささやかながらも感動的な冒険譚を新たに作り上げる事とてなかったのです。エアリーズは混沌を作り上げるのがどうにも不得手なのでしょう。だから彼らは新たな生を受けた今、思い思いに善を成す。そうでない者もいますが、私が例に上げた彼らは明らかに秩序を回復させるために行動している、それ故…エアリーズはロキやイサカ程の脅威たり得ないという事です」
己の真の美しさを覆い隠すグリン=ホロスの言にも納得できる部分はあった。確かにエアリーズがいなければ、あるいはあの素晴らしい戦士達が新たな生を受け、軍神の意図とは裏腹に多くの命を救う事とて無かったかも知れなかった。しかしそれでも、アーサー王の最後は悲劇としか言いようがなかった。あの王はエアリーズによって蘇り、そしてその存在そのものを完全に狂わされてしまった。その過程で多くの混沌を生み、後悔と共に散ったのであろう。それを思うと腹が立ったものであった――何せモードレッドは彼の友人であったからだ。
「そうかいそうかい、上から俯瞰してるようなお方は物の見方が違うらしいな!」
秩序と混沌の神々は人の善悪に完全に当て嵌める事が可能な実体ではなく、以前ウォード・フィリップスに勧められて読んだ『異次元の影』という小説における〈旧神〉と〈旧支配者〉の対立とも似ていた。すなわち結局のところ、善だとか悪だとか、あるいは秩序だとか混沌だとか、そうした〈人間〉が己の視点に当て嵌めて理解したつもりになっている実体達が実際に大戦争を開始してしまうと、〈人間〉など巻き込まれた瞬間いとも簡単に消し去られてしまうという事なのだ。〈秩序の帝達〉が善で〈混沌の帝達〉が悪かというと、そうでもないのだ。おおよそそのように分類できない事もないが、彼らは〈神〉であるから、〈人間〉とは決定的に違う部分も多い。今彼が対峙しているグリン=ホロスも完全に善と言い切れるような実体ではあるまい。少なくともこの星の〈人間〉の視点からしてみれば。しかしそれでも、彼女が秩序を積極的に広げるために大量虐殺を行なっているわけでもない限りは敵対しようとは思わなかった。
「その議論はまた次の機会に。さて、あなたが混沌と戦う事ができるのかどうかを見せて頂きましょう」
反論さえ許さぬ勢いで彼女は彼が混沌と戦うという前提で話を進めたが、地球最強の魔術師は最近オカルティストの間でも消えたという認識で定着しているエアリーズを一発殴れる機会が訪れるかも知れないと考え、混沌と戦う事自体には前向きであった。
「へぇ、どうやって?」
「私と戦ってもらいます」
やはり階梯が上だと自覚している実体というのは自分勝手であった。彼は待機させていたケースを引き寄せ、勢いよく飛んで来たそれを受け止めるとその中から装填済みのリボルバーを取り出した。モンタナの某所で採取した木から削り出した6発の銃弾を慣れた手法――空中に投げたそれらをテレキネシスじみた術で操作して一瞬で装填させた――で準備完了させた。
「無理して背伸びするような可愛い実体が俺と戦うだってさ!」とスパイクは嘲笑いながら銃をキャッチし、周囲に聴衆でもいるかのような両手を軽く広げた仕草でくるりとゆっくり一回転した。
対するグリン=ホロスは特にそれを気にした様子もなく答えた。彼女の大きなストールが柔らかな風に包まれて揺れ、可憐さを演出していた。
「はい、その通りです。私は己の見栄によってわざわざ背伸びをするような実体です。ですがあなたの試練の相手としては、まず打倒され得ない事を思えば問題ありません」
彼女の背中から不思議な光がぼうっと発せられた。紺色の触腕が勢いよく伸び、その様は隠されていたグリン=ホロスの美しさが暴かれてゆく第一歩であるように思われた。さしものスパイクも目を奪われ、その変体――というより祝福と畏敬と憧憬とを一身に受ける元の美しい姿への帰還――から目を一切離せなかった。
「ラゴス魔術院では主席だったんだがな。嫉妬と憧れを一心に浴びたこの俺とガチでおファックなさるおつもりかな?」
「合格点であればそれも褒章として与えましょう」
彼らの周囲で空間が撓み、位相があやふやとなった。安全圏でぬくぬくと暮らしていた不可視の実体達は驚愕し、一目散に逃げ出した。形而上学的な手段で到達できる位相を通り過ぎ、主に自殺者が送られるほとんど空想上の位相をも軽々と通過した。この女神には周囲を巻き込まない程度の人間的常識があるらしかったが、それは別に手加減してもらえるという話でもなかった。無論の事、このクラスの実体が本気で戦えば位相の壁など簡単に貫通してしまい、この惑星はおろか太陽系が完全に崩壊してしまったとしてもそれは最も被害を低く見積もった場合の話であった。かつて地球人に敗北したイサカは腹いせに星間規模の異文明をその領土ごと完全に破壊し、ガスと塵が漂う星の墓場へと変えてしまったという。恐らくそこまで力を発揮する事はないと思われたが、それでもこれまで対峙した実体の中では最悪の部類であると言えた。彼女はこのビルが日常と非日常の境界である事を知っていたのだろう――様々な条件はあるが、築何十年も経ちそこそこの高度がある建物はそれ自体が与える心理的影響などによってかつて哲学者達が到達したり通り過ぎたりしていた、空間の持つ別の側面へと誘う効果があった。自殺者達が高所を選ぶのにも理由があり、本能的に今よりよい世界を求めてそこへと向かい、ある種の解脱や転生を願って身を投げ出すという。
今更言うまでもない程既に議論され尽くされているが、そのような邪なる動機を邪法でもってして実行したところで、真っ当な輪廻転生や解脱ができるでもなく、その業故に間違いなく生前よりも悪い閉じた世界に幽閉されるのだ。それ故キリスト教は自殺を大罪として禁じてきたし、古い時代の魔法使い達は自殺者が堕ちる位相に捉えられた自殺者達の苦痛に喘ぐ魂が、まるで商品を見に来た客のごとき妖魔どもに引き取られるという地獄めいた光景を見せられたらしかった。
スパイクははったりで緊張を隠し、相手に飲まれぬよう勤めながら周囲の異界と化した風景に目を向けた。ネガ色調の世界で己とその相対者のみが元々の色彩を保ったまま不自然に立っており、朝日の色合いがかくもグロテスクに思えたのは今日が初めてであった。
「では、そろそろ始めるとしましょうか」
ふと目を離した隙にグリン=ホロスの姿はどうしようもない程大きく変貌し、既に元々の面影は残っていなかった。巨大な翼は偉大なるドラゴンのクトゥルーを描写した絵画に見られる勇壮なる翼とも似ており、10フィート近くある身長は何故か威圧感を感じさせなかった。一番大きな対の腕はその先端に蟹の鋏のようにも見える鉤爪を備え、同じ箇所から生える2対の小さな腕は細長く、関節が3つあった。がっしりとした胴には恐らくいくつかの節があると見え、左右の外側に3対の宝石じみた美しい眼球がその美しい貌を彩っていた。甲殻類じみた貌の下部には、手前側には完全に閉まらない横顎、奥側には縦顎が存在していた。翼と共に長い触腕が2本伸びており、それらを己の前に持ってきてマントの端のように置いていた。脚部はライオンの脚のごとき構造と力強さとを備え、大地を踏み締めていた――しかしその肢体のほとんどはSF映画やSFゲームに出てくるような意匠の未来的なデザインをした、神造であるとしか思えぬ優美な甲冑で覆い隠され、幾分かその全体的な美しさを隠していた。
だがいずれにしても、もしこの神格が備えるイサカにさえ匹敵する危険な美が解き放たれれば、人間界は壊滅的な被害を受けるだろう。
最近は通勤と帰りにネリーの世話になりっぱなしである。今日はゲッタの素晴らしい曲を知り、明日も頑張ろうという気になれた。




